第40話 恋をしている

19.


 レニに触れる夜が重なるにつれて、いつしかこの花が自分の腕の中にあるのが当たり前のように思っていた。


(可愛らしい)

(レニさまの何もかもが……)


 今まで言われるばかりだった、称賛の言葉を口にしてみる。

 自分の言葉にレニが恥ずかしそうに、それ以上に嬉しそうに頬を染めるのを見ると、心が喜びで満たされはち切れそうだった。

 だが繰り返し囁いているうちに、レニは次第にそういった言葉に困惑し、戸惑いを表すようになった。


「お前も、心意気さえあればいい女になる」


 他の人間の戯言は、あれほど素直に真剣に耳を傾けるのに、なぜ自分の言葉はレニに届かないのか。

 ドス黒い靄のような感情が湧き、レニが戸惑いと怯えから制止の言葉を口にしても、その体を無理やり開かせ、心地よさで喘がせようとしてしまう。


 これは罰なのだ。


 身の内で誰かが、確信に満ちた声で言う。


 美しさを理解しない他人に、自ら姿をさらした罪深き花への。

 あなたは俺の腕の中にその体を差し出し、狂うように咲いて、声の限り鳴き続けなければならない。

 自分が誰のものかを忘れ、他の男に愛でさせた罪をあがなうために。


 だからもっと美しく咲いて下さい、レニさま。

 あなたが一番美しく見える、浅ましく乱れ可愛い声で鳴く姿を見せて下さい。

 他の男たちには決して見せない、俺だけが見ることができる姿を。

 あなたは、あなたの美しさを知る俺のものなのだから。


(我々が君に向ける感情は卑しく醜い)


 不意に頭の中にソフィスの言葉が響いた。

 リオはギクリとして、手を止める。

 その声の底にある抑えつけられた苦悶が、リオの体を震わせ静止させた。


(その事実が君を傷つけるのだろう)


 リオはハッとして、自分の腕の中を見た。

 小さな赤い花は。

 自分の腕の中で締めつけられ、怯えたようにすぼまり震えていた。



20.


 打ちのめされたように自分の前に立ち尽くすリオを、ソフィスは茶色の瞳でしばらく見つめていた。

 リオは長い黒髪で表情を隠したまま、呟いた。


「俺は……人に仕えるモノとして作られました。自分の持ち主である主人の意に沿うように、主人がどのような人間かは考えず、何も考えず、ただその人に仕えるように、と。何も考えなければ、辛さや苦痛があっても一時のもので済むから。全部、その場限りで終わることだから耐えられた」


 それなのに。

 レニと旅をするようになってから、絶えず苛立ちと怒りを感じる。

 レニの隣りで女として容姿を褒めそやされることに屈辱を覚え、その隣りで自分もそう思うという顔で笑っているレニに苛立ちを覚える。

 レニが男に触れられるのを見ると、触れた男にはおろか触れさせたレニに対しても怒りが燃え上がる。


 自分が、これほどの恥辱と苦痛を耐え忍んでいるのは、全てレニの側にいるためのなのだ。

 それなのに。

 レニは、自分を置き去りにして他の男と出かけて行った。

 その道中でどんなことがあるのか、考えるだけで気が狂いそうになる。

 

 他人の欲望を受け止め、快楽で支配されれば、自分が何者かを思い出せると思った。

 心も感情もない。

 怒りとも焦燥とも無縁な、ただ他者の欲望を受け入れ、収めるだけに存在する奴隷モノ

 主人の言動に怒りを覚えても虚しい。

 慈悲深いものであれ、苛烈で理不尽なものであれ、それはただ受け入れるべきものなのだ。


 だが。

 商人の男と寝ていても、絶えずレニのことが頭に浮かんだ。

 もし、いま自分の体を撫でまわし、弄んでいるのがレニだったら。

 そう考えることを止められなかった。


 この手は、見知らぬ男のものではない。

 レニの小さく柔らかな手だ。

 そう思うと、おぞましさが消え、快楽を超えた甘美な陶酔が訪れる。


(ねえ、リオ。リオは私のモノなんだよね?)

(私のモノだから、どんな風に扱ってもいいんだよね? 私の好きなように)


 レニさま。


 リオは想像の中のレニの前に膝まづき、目の前に差し伸べられた手に従順な犬のようにおとがいをのせて応える。


 あなたにこのように扱われるために、俺はいるのです。

(いいの? こんな風に扱っても? どう? 気持ちいい? リオ)


 レニの手が体を撫で回す

 反応を楽しむためか、時に容赦のない残酷な仕打ちを加える。

 快楽も苦痛も、全てが天から与えられる恵みのように感じられ、飢えた獣のように浅ましくねだる声を上げてしまう。


 どうか思う存分、あなたのモノである俺を、犯し汚し尽くして下さい。


 恍惚とした陶酔の中で、リオは自分を見て満足そうに微笑むレニの顔を見上げながら訴える。


 俺はあなたのモノだと、そうこの体に烙印を圧し当ててください。

 どうか、もっと惨く残酷に。

 レニさま……。


 下劣な欲情の塊のような男にレニを重ねることに強い罪の意識を覚えると同時に、その想像はどうしようもなく心と体を興奮させ、歓喜で鳴かせた。

 この世界の何物よりも美しく大切だと思うものを傷つけ貶めることが、なぜこんなにも心地いいのか。



21.


「なぜ、こんなに苦しいのでしょう」


 リオは、ソフィスではなく遠くにいる他の誰かに言うように呟いた。


「側にいても苦しい。離れているともっと苦しい……」


 この苦痛は、心を持ったことへの罰なのか。

 リオの言葉に、ソフィスは茶色の瞳に柔らかい光を宿して答えた。


「心を持つことは罪ではない。君は『モノ』ではない。人なのだ。心があるのは当たり前だ」


 リオは再び顔を伏せて黙り込んだ。

 しばらくしてから、微かに震えを帯びた小さな声で囁く。


「……残酷なことをおっしゃる」

「リオ」


 ソフィスは年輪のように皺が刻まれた手を、リオの細い肩にのせた。


「君が君の境遇を憎むのは当たり前だ。だが、自分自身を憎んではいけない。君自身を傷つけてはいけない。そんなことをすれば、君を愛する人はとても悲しむ」

「俺は、あなたにもひどいことを言った」


 リオは肩を震わせて呟いた。


「時々、どうしようもなく人を傷つけたくなる。そんなことをしなくても、今までは耐えることが出来たはずなのに」


 ソフィスは首を振った。


「傷ついているのは君だ。私は何ひとつ傷ついてはいない」


 ソフィスは、震えているリオを見つめながら言葉を続ける。


「君は、これまでの人生でとても深い傷を負っている。心を持つことを拒絶するほどに。それでも、君の心は死んではいない。痛みはそのあかしだ。その痛みが時に人を傷つけて、自分自身も傷つくとしても……手放してはいけない。とても辛いことだが」


「ソフィスさま」


 リオは言った。


「教えて下さい。なぜ、大切にしたいと思っているのに憎いと思ってしまうのですか? 俺はあの人が望むことなら、何でもかなえたいと思っている。本当にそう思っている。思っているのに、なぜ……」


 リオは唇を噛み締めて、呟くように言った。


「なぜ、あの人を傷つけたい、汚したいと思ってしまうのでしょうか」

「簡単だ」


 自分に向けられたリオの美貌に、ソフィスは微笑みかけた。


「君は今、魂を削っている。だから心が痛み、揺れ動くのだ」

「魂を……?」


 ソフィスは優しく頷いた。


「恋をしているんだよ」




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