第37話 リオの本性

16.


 ようやく太陽の光が山影から姿を表した、人気のない朝の時刻、リオは冷たい川の水から体を引き上げた。

 水滴が白く滑らかな肌を、体の曲線をなぞるように流れ落ち、朝日の最初の光を反射させ空中で吸い込まれるように消えていく。

 リオは、時間をかけて体と長い黒髪を乾いた布で拭きとる。

 乾いた地面に丁寧に畳まれて置かれている下帯をつけ、長衣を羽織る。


「驚かないんですね」


 着替えの手を休めることなく、近くの茂みの陰にいる人間に声をかけた。

 声をかけられて、ソフィスは気まずそうに眼を逸らしながら姿を現した。

 白くなった頭を撫でながら、口を開く。


「済まない。のぞき見をするつもりはなかった」


 リオは青い瞳を僅かに動かして、ソフィスのほうを横目で見た。

 普段の表情の柔らかさが嘘のように、その美しい顔には何の表情も浮かばず、ただ虚ろで冷たかった。


「気付いていたんですか? 男だと」

「私は君と長い時間、一緒にいたからな。そうでなければ気付かなかっただろう」


 ソフィスは、長衣によって隠されていく硝子細工のように繊細な少年の体を、どこか痛ましそうに眺めた。


 十代半ばにもなれば、男と女では体つきは明らかに異なってくる。

 だがその体の線がゆったりとした衣で隠され、多くの人間の中に存在する「女性」のイメージに接続する所作や表情、態度などを身につければ、見る人間は本物の女性よりも「女としての性が強調されているもの」として認識する。

 リオにその技を教え込んだ人間のように、そういった「性」のイメージを作り上げ、品物として売ることを生業としている人間でなければ、見破ることは難しいだろう。

 人間の性別は、本来肉体的なものではないのかもしれない。

 自分が語る学問の話を憧れを秘めた表情で聞き入っている相手が、美しい女性ではなくそのふりをしている少年だと気付いた時から、ソフィスはそんなことを考えるようになった。


 リオは、どこか翳りがある皮肉な笑いで珊瑚色の唇を歪めた。

 そういう表情をすると、顔かたちはまったく変わらないにも関わらず、清楚で大人しやかな月の精霊のような美しさを持つ少女と同一人物であることが、にわかには信じられなくなる。


「ソフィスさま、あなたが修めた学問の世界……真実のみを貴ぶ世界では、わたくしのようなモノはどういう扱いになるのでしょうか? この世に存在している意味などないまやかし、語るに足らないもの、ということになるのでしょうか」


 ソフィスが答える前に、リオは何かを嘲るように付け加えた。


「真実のみに価値があるなんて、俺にはきっと理解出来ない世界だ」


 ソフィスは静かな眼差しでリオを見つめ、微かに首を振った。


「学問をするのに必要なのは、学びたい、何かを知りたいという気持ちだけだ。リオ、君にはそれがある」


 リオは、ソフィスのほうへ暗い眼差しを向けた。その青い瞳には、何かを傷つけたいという狂暴で陰惨な怒りが宿っていた。

 その怒りの炎にあぶられたかのように、不意にリオは、唇を激情で歪めて笑った。


「ソフィスさま、俺が昨晩、どこで何をしていたか知っていますか?」


 答えずにいるソフィスを見て、リオはいっそう唇を歪めた。その笑いには、何かに対する深刻な嘲りと悪意がこもっていた。


「抱かれていたんですよ、この隊商を率いている商人に。俺にずっとご執心だったんで、誘いに乗ってベッドに潜り込んできたんです。終わったあとも、自分のめかけになれってしつこかったですよ」


 リオは青い瞳に、緑色の妖しい光を込めた。僅かな媚を含んだ視線でソフィスの老いた顔を眺める。


「良かったら、あなたの相手もしましょうか? 安心してください、俺はあなたくらいの年齢のかたも、いくらでも相手をしたことがありますから。ちゃんと喜ばせる方法も知っています。満足していただけると思いますよ」


 リオは瞳を細め、僅かに赤い舌をのぞかせて唇をゆっくりと舐める。


「あなたがそのご年齢になるまで、一度も味わったことがないような快楽を味合わせて差し上げます」


 ソフィスはしばらく、妖しい輝きを放つ翡翠色の瞳に呪縛されたように、その姿をただ見つめていた。

 リオは微笑みながらゆっくりとソフィスに近づき、しなだれかかるように手をソフィスの痩せた胸にかける。

 ソフィスは凍りついたように動けずにいた。

 だがやがて重い鉛を持ち上げるように手を動かし、自分に手を差しのべてくる細く美しい体を、意思の力でどうにか遠ざけた。

 無表情に自分を眺めるリオの視線から逃れるように、下に向く。


「君は自分の魅力をよくわかっている。どうすれば、その力を使えるかも」


 ソフィスは呻くように言った。


「君にそういう風に見られて、抗える人間はほとんどいないだろう。私のような命が枯れかけた人間でさえ、君にその力を使われると、体の奥の炎が掻き立てられるのを感じる。君は人の欲望に対して、強い力を持っている。その力は暴力的で圧倒的なものだ。使い方を誤ってはいけない」


「誤ってはいけない?」


 リオは繰り返した。

 本人は嘲りを込めようとしたようだが、その口調は嘲りよりも暗いものが含まれていた。

 その暗い衝動に憑かれたかのように、リオは常にない激しい口調で言葉を吐き出した。


「俺を好きにしたい、この体が欲しいと考えているのは、あなたがたではないですか。あなた自身も、たった今、そう言われた。俺を抱きたいのでしょう? 俺は、あなたたちが俺に向けるその欲望に応えているだけだ。誤っているとすれば、それはあなたがたの薄汚い欲望のほうではないですか!」


 ソフィスは怒りに歪んだリオの顔を見つめ、頷いた。


「その通りだ。我々が君に向ける感情は卑しく醜い。その事実が君を傷つけるのだろう。私は、そのことを言っているのではない。今の君は、君自身を傷つけようとしている。そんな風に自分を使ってはいけない」


 ソフィスの言葉に、リオは嘲笑を浮かべた。


「あなたは、俺があの商人に無理強いされて、嫌々寝たとでも思っているのですか? 組みしかれて手篭めにされたとでも? 冗談じゃない。俺は、寝床のことを何も知らない正真正銘の皇女さまとは違う。俺がいくつの時から、こういうことをやってきたと思っているんですか。女のふりをして世間知らずのお姫さまの添い寝をしているだけじゃ、我慢がきかなくなる時があるんです。あの人は、ちょうどいい時にいなくなってくれた」


 リオの口調は、ソフィスではなく別の人間に話しているかのようだった。

 本人はその相手に嘲笑を投げつけているつもりに見えたが、翡翠の瞳には体を切り裂かれているような強い苦痛が浮かんでいた。

 リオはその苦痛を振り払うかのように、言葉を吐き捨てた。


「商人というのは、どいつもこいつも一緒だ。貪欲で、欲しいものは何でも金をちらつかせて手に入れようとする」


 僅かに震えているリオの美しい横顔を見ながら、ソフィスは静かに口を開いた。


「コウマはレニのことを何とも思っていない。あの二人は、ただ気が合い友人になっただけだ。君とレニとの関係とは違う」


 ソフィスの言葉に、リオは皮肉げに笑った。


「そうですね、コウマさまは俺のことが気に入っているようですから。俺が男だと知ったら、あの人はどんな顔をするかな。俺の正体を知っても、あの人は、俺のことを美しいだの女神みたいだのと言うんですかね? 俺と寝たいと思うんでしょうか」


 リオは顔を伏せて付け加える。


「こんなことをしている奴は、男でも何でもないから気にしないかもしれないな」


 ソフィスは首を振った。


「そんな風に自分を貶めてはいけない。コウマが君のことを知れば、君の苦しみをちゃんと理解する」

「俺の苦しみ?」 


 リオは憎悪に染まった声を上げた。


「俺が何に苦しんでいるというのです? 何も苦しんでなんかいない。レニさまだって、俺がこういう存在であることを望んでいる。

 あの人が側にいて欲しいのは、俺じゃない。親も兄弟も誰もくれなかった愛情が欲しくて、母親か姉のような愛情を注いでくれる存在が欲しいだけだ! 

 あの人が求めているのは、ずっと側にいてくれて、必要な時に優しく抱きしめてくれる人間だ。だからそういう存在として、俺はあの人の側にいたんだ。あの人がそう望んだから、その望む通りに……そういう存在でいたのに……」


 リオは震える唇を噛み締め、苦痛に顔を歪めた。


「それなのに……あの人は、どんどん俺から離れていく」


 リオは俯いて、瞳を閉じた。

 目蓋の裏に、緊張の余り顔を真っ赤にして、「一緒に外の世界を見に行かないか」と言ったレニの姿が幻のように浮かぶ。


 レニさま、あなたは何故、俺をあの城から連れ出したのですか。


 リオは自分の心に浮かんだ、その姿に問いかけた。


 あなたは俺のことなど、存在すら知らないのに。



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