第10話 離さないで
常にないことだが、リオから返事は返ってこなかった。
レニは手の下にあった薄汚れた毛布を強く掴む。
「船長さんに聞いたの。私がここにいる間、リオと船長さんが恋人同士になったって」
「なっていません」
リオは、声を床に叩きつけるように叫ぶ。
レニは驚いて顔を上げた。
「隠さなくていいよ」
「隠しておりません」
リオはレニの眼差しを真っすぐに見返した。
レニは口元に手を当て、顔を伏せた。
それから言いにくそうに呟く。
「でも……そのう……船長さんが……その、リオとそういう関係で……リオのことが好きだって……」
リオは少し黙ってから、暗い翳りを帯びた声で呟いた。
「先ほどはそういうお話をされていたのですか? 私をあの方に譲るという……」
「え?」
「私をあの方に譲ると、そう決められたのですか?」
「ち、違うよ!」
レニは慌てて叫んだ。
「私がリオを譲るとかじゃないの。リオは自由なんだから、好きにしていいんだよ」
「好きに?」
レニはリオの言葉に頷き、努めて笑顔を作った。
「リオ、私、怒ってないよ。ぜんぜん、怒っているとかじゃないの。ちょっとびっくりしただけで。リオに好きな人が出来るって思わなかったから。
でも、それって、考えてみたら素敵なことだなって思ったの。リオに好きな人が出来て、リオがその人と一緒になって幸せだったら、私だって……私だって、うれっ、嬉しい……し……」
「レニさまは」
抑揚のない平板な声で、リオは言った。
「私があのかたを好きだから、あのかたの求めに応じたと思っているのですか?」
レニは戸惑うように視線を空中にさまよわせた後、恐る恐る言った。
「だって、好きじゃなきゃ……その……そういうことはしない、……でしょう?」
リオはしばらく黙った後、感情のない声を漏らした。
「私があの方のお側に
リオの言っている意味が、レニにはうまく理解できなかった。
ひどくあふやな口調でレニは言葉を紡いだ。
「あの人にしてあげられることが他になかった、ってこと?」
レニは自分の言葉を心の中で
好きな人のために何かしたい。
それはわかる。
レニもそうだ。
リオのためならば、どんなことでもしてあげたい。
リオが例え、他の人のことを好きになったとしても。
そうだ、リオが本当にあの船長を好きならば、リオのために、自分はリオと別れなければならないのだ。
不意に涙が溢れそうになった。
「何でもしてあげたい」と思っているのに、リオと別れなければならないと思うと目の前が真っ暗になり胸がつぶれそうな心地がした。
少し前まであれほど見たことのない世界への期待と希望で胸がいっぱいだったのに、全てのことが一瞬にして色褪せてしまったように思えた。
どこに行ってもリオがいつも隣りにいてくれると思っていたから、そこに行きたいと思えたのだ。
リオと一緒に行けると思ったから、まだ見ぬ世界が輝いて見えたのだ。
そのことに今、気付いた。
「リオ、ごめん。また後で」
これ以上何かを話すと、泣いてしまいそうな気がした。
子供のように泣いてリオを困らすのは嫌だった。
リオは黙ってレニの様子を見ていたが、やがて静かな声で言った。
「レニさま、薬を飲む時間です」
自分の言葉が聞こえなかったのかと思い、レニは僅かに目線を上げた。
だがその瞬間、目から涙が零れそうになり、瞳をしばたかせて涙をこらえる。
声が感情で歪みそうになるのを精一杯抑えつけながら、レニは言った。
「後で飲むよ」
「レニさま、薬をお飲みください」
リオはレニの言葉がまるで聞こえていないかのように、先ほどとまったく同じ調子で繰り返した。
レニは顔を上げる。
「後で飲むって……」
レニは言葉を途切らせた。
視界の中でリオが卓に手を伸ばし、薬湯の入った木の椀を手に取っていた。
リオは特に躊躇う様子もなく薬湯を口の中に含むと、レニのほうへ手を伸ばした。
レニの頭の後ろに手を回すと、自分のほうへ引き寄せる。
「リオ……」
名前を呼んだ瞬間に、レニの唇はリオのそれによって塞がれた。
頭を少し仰向けさせられると、苦味がある液体が口の中に流れ込んでくる。
レニが液体を飲み下すのを確認するような間があった後、リオはレニの頭を抱き寄せ、さらに深く唇を重ねた。
空いている左手がレニの右手を探し当て、指の在りかを一本一本確認するように優しく撫でられ、絡めらる。五本の指が先までつながれると、そのまましっかりと握りしめられた。
痺れるような幸福感が続いたあと、リオの身体が離れていくような気配を感じた。
レニはそれを引き留めるように、右手でリオの服を小さく掴む。
レニの求めに応えるように、リオはレニの赤い髪の毛を優しく撫でる。そしてもう一度、舌に舌を絡め唇を吸い、その柔らかさを愛おしむように愛撫した。
全身に温かさと心地よさが広がっていく。
しばらくそうしていた後、リオは唇を離してレニの頭を胸の中に引き寄せた。
「レニさま」
レニの身体を抱きしめながら、リオは押し殺した声で言った。
「私はレニさまのお側におります、ずっと。レニさまが私のことを疎ましい、遠ざけたいと思われる時まで」
リオはレニの耳に唇をつけて、吐息するように囁いた。
「ずっとお側に置いてください」
「で、でも……船長さんが……」
言おうとした瞬間に、息が詰まるほど強く抱きすくめられ何も言えなくなった。
私のことを離さないで下さい、レニさま。
リオの胸に耳を当てていると、そんな声が心に響くように思えた。
レニはそれ以上何も言わず、ただリオの腕の中でジッとしていた。
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