第9話 幸せになって欲しい

12.


 リオが部屋に戻って来たとき、レニはまだベッドの背もたれに半身をもたせかけてぼんやりとしていた。

 小卓の上にのせられた食事は手つかずのまま、既に冷めていた。

 食前に飲まなければならない薬湯も、そのままま置かれている。

 リオはベッドの横の椅子に腰かけると、卓の上に視線を走らせた。

 次いで、心配そうにレニの顔を覗き込む。


「レニさま、召し上がらないのですか? まだお加減が優れませんか?」


 レニが何も答えないので、リオはさらに言った。


「レニさま、とにかく薬だけはお飲みになって下さい」

「リオ」


 レニは顔を上げて、リオの青い瞳を見つめた。

 レニの顔に浮かぶ切実な表情を見て、リオは唇から出しかけた言葉を呑み込む。


「この船に残りたい?」


 リオは驚いたようにレニの顔を見たが、やがて首を傾げた。


「それはレニさまがお決めになることです。レニさまがこの船に残りたいとおっしゃるのであれば、それでよろしいと思います。しばらくは、この船で旅を続けるのですか?」

「違うよ」


 レニは堪らなくなったように、リオの顔から僅かに目を逸らした。


「リオが、一人でこの船に残るの。私は……予定通りフローティアに着いたら降りるけれど」


 リオは最初、何を言われたかわからないと言うように、ぽかんとした表情で俯いたレニの小柄な身体を眺めた。

 二、三度、口を開きかけて、そのたびに何を言っていいのかわからないという風に口を閉ざした。

 リオは自分のほうに目線を向けないレニの顔を、マジマジと凝視した。

 その唇が小刻みに震えだす。


「何を……何をおっしゃっているのかわかりません……。何のお話をされているのですか? レニさま」


 普段は淡く色づいているリオの頬は、紙のように血の気が引き青ざめていた。

 何か答えを探すように、リオは必死な眼差しでレニの視線を捉えようとする。

 レニはそんなリオの様子を目に入れる余裕がないように、上の空な口調で答えた。


「この船にいれば安全だし、行きたいところに行けるよ。東方世界だって西方世界だって南方世界だって、リオの好きな場所にどこでも連れて行ってくれる。あの船長さんは、世の中のことをよく知っているから……リオのことをちゃんと守ってくれるだろうし」

「私ではありません。レニさまです」


 うわ言のようなレニの囁きを、リオは遮った。


 レニは驚いたように顔を上げる。

 リオがレニの言葉を遮るなど、今まで一度もなかった。

 リオは今までに見たこともないほど、青い瞳に強い光を湛えてレニの顔を睨みつけた。

 レニはその光にたじろいで、口をつぐんだ。


「私は、どこかに行きたいなどと一度も申し上げたことはございません。東方世界にも西方世界にも、どこにも行きたいなどと申しておりません。レニさまがおっしゃられたのです。色々な場所を見たい、世界中を旅して回りたいと」


 レニがハッとした表情をしたことに力を得たのか、リオは勢いづいて言った。


「レニさまが、世界を見て回りたいから私に一緒に来ないかと言われたんです」


 リオは、震えを帯びた声で続けた。


「レニさまにそう言われたから、私は……」

「うん、そうだね」


 レニは小さい声で呟いた。


「そもそも、私がリオを無理に連れ出したんだっけ。私の我が儘に付き合わせちゃっていたんだよね」

「我が儘……」


 リオは唖然としたように口を開けて、レニの顔を見つめた。

 レニは、ぼんやりとした口調で言葉を続ける。


「ここは皇宮じゃないんだから、リオは私に付き合う必要はないよ。自由に好きなところに行っていいんだよ」


 リオは穴が開くほどレニの顔を凝視した。これだけで話が終わるはずがないと信じているかのように、しばらくの間ただ黙ってレニの次の言葉を待った。

 だがレニがそれ以上何も言わないと分かると、暗い場所に閉じ込められた人間が必死に出口を探すかのように、部屋の中に目まぐるしく視線をさまよわせた。


 何かしなければ、何か言わなければ永久に出口が閉ざされてしまう。

 そういった恐怖に追い詰められたかのように、リオは身を乗り出して叫んだ。


「私は、レニさまにお仕えするためにいるのです。ずっとお側におります」

「そんなの、もう全部終わったんだよ」


 レニの呟きを聞いて、リオは目を見開き体を震わせる。


「……終わった?」


 何か信じがたいものでも見たかのように、リオは虚ろな声で言葉を繰り返した。


「私はもう皇女でも皇帝でもないし、だから仕えてもらう必要もないよ。第一、リオは元々私に仕えていたんじゃなくて、イリアスさまの……そのう、側付きだったじゃん」


 レニが何気なく言った「イリアスの」という言葉に、リオは胸をナイフでえぐられたかのように、一瞬で顔を蒼白にさせた。

 しかし自分の思いで心がいっぱいになっているレニは、そのことに気付かなかった。

 レニはリオにではなく、自分自身に言い聞かすように呟く。


「私はリオに幸せになって欲しい。好きな場所に行って、好きなことをして……好きな人と一緒になって欲しいの……」


 レニは少しだけリオのほうへ視線を向け、またすぐに逸らした。

 それから思い切ったように、恐々と口を開いた。


「リオ、船長さんのこと、好きになったの……?」





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