第8話 譲ってくれないか。


11.


 サイファーは扉を閉め、卓の上に食事をのせた盆を置くと、ベッドの脇の椅子に座る。


「体はどうだ?」


 寝床から半身を起き上がらせたレニを、サイファーは観察するように眺める。


「だいぶ元気になったみたいだな」

「ありがとう、もらった薬がよく効いたみたい」


 言葉とは裏腹に、警戒するような固い口調でレニは言った。

 サイファーはレニの様子を気にする風もなく笑う。


「うちの船医は腕が確かだからな。船を下りるまでははちゃんと飲めよ、レニ」


 レニは体を強張らせる。


「何で私の名前を知っているの?」

「名前?」

「……リオから聞いたの?」


 レニの小さな声に、サイファーは少し考えてから「ああ」と答えた。


「まあ、そんなところだ」


 レニは黙りこんだ。

 黒いモヤのようなものが心を覆い息苦しさを感じたが、それが何故なのかわからなかった。

 それは嵐の前の空気の匂いのように、心を不快にざわつかせ落ち着かない気持ちにさせる。

 サイファーはそんなレニの様子を観察してから、おもむろに言った。


「あんた、何者だ?」


 ハッとして、はしばみ色の瞳に一瞬で鋭い光をたたえたレニを、サイファーは手を上げて押し止める。


「いや、いい。そんなことは聞きたくねえ。俺が言いたいのは面倒ごとはごめんだ、っていうことだけだ。金さえちゃんと払ってくれれば、客が誰かなんて興味はねえ。フローティアで下ろしたら、その後はあんたを船に乗せたことも忘れるさ」


 サイファーはいったん口を閉ざす。

 奇妙な沈黙が流れたあと、不意に口を開いた。


「あいつを……リオを譲ってくれないか?」

「譲る?」


 レニは呆気に取られたように、男の端正な浅黒い顔を見つめた。

 レニの反応に、サイファーは意外そうな顔をした。


「あいつは、あんたの持ち物なんだろう? 従者や護衛には見えないからな」


 人に仕える身分の中でも、階層や属性は細かく分かれている。

 貴人の従者や侍女、護衛は地方や下級貴族の子女が多く、れっきとした身分がある。

 貴人に仕える者の中で最も地位が低い奴僕や婢には、社会的身分はない。身体の所有権は本人にはなく、物や動物と同じように金銭で取引される。


 サイファーの提案は、ごく一般的なものだ。

 にも関わらず、レニは反抗的な表情で唇を引き結び、視線を毛布の上に置かれた手の上に落とした。


「リオは物じゃない」


 強張った口調のレニの言葉に、サイファーはやや呆れたように肩をすくめる。


「あんたがそう思うなら、それはそれで構わないがな」


 じゃあ。

 とサイファーは続けた。


「あいつはあんたの持ち物じゃなく、主人を自由に選べるってわけだな?」

「主人じゃない」


 レニは先程と同じ口調で繰り返す。

 サイファーではなく、別の何者かに訴えるように言った。


「友達なの」


 友達、とサイファーは揶揄するように、その言葉を口の中で転がす。

 それから微かに笑いながら面倒臭げに言った。


「わかったわかった。じゃあ、そのお友達についてだ」


 サイファーは、俯いているレニの顔に視線を当てたまま言った。


「あんたは、あいつがこの船に残っても構わない、ってことだな?」


 レニは弾かれたように顔を上げた。


「この船に残る? リオが?!」


 呆然として「何で?」と呟くレニの言葉に、サイファーは呆れたように答えた。


「いや、あんた、今言ったよな? それで構わないって」

「そ、それは……リオがそうしたいって言うなら……」

 

 レニは自分が何を話しているのかよくわからないような、上の空な調子で口の中で呟いた。

 サイファーは項垂れているレニの顔を見つめて、少し口調を改めた。


「余計なお節介だとは思うがな、二人で旅をするなんて無理があるんじゃねえか」


 サイファーはレニに視線を当てたまま、話を続ける。


「あんた、いいところのお嬢さんだろ。家出だか何だかその辺は詮索しねえがな。リオはああいう目立つ奴だ。世の中の人間から見るとな、世間知らずのとろいお嬢さんが、宝石をジャラジャラ身につけて歩いているようなものなんだよ。危なっかしくて見ていられねえ。

 あんたがリオをここに置いていくって言うなら、あいつの価値に見合っただけの、相応の支払いはする。東方世界に行きたいなら、もぐりじゃねえ、ちゃんとそれなりに信用出来る船を紹介してやるよ。自治領にしばらくいるなら、組合の幹部か自治領の評議会員を身元引受人として紹介してやってもいい」


 反応を示さないレニの顔を、サイファーは覗きこんだ。


「お嬢ちゃん、あんたが家で大人しくしていられないのは別にいいが、あいつを連れて行くのはよしたほうがいい。あれは家で愛でて楽しむためのものだ。外に連れて歩くものじゃねえ。

 さらわれて売り飛ばされるくらいならまだマシだ。姿かたちが女にしか見えない男なんざ、場所によっちゃあ魔物だと思われて嬲り殺されるかもしれねえぞ」


 不意に後ろから打たれたかのように、レニは顔を上げた。

 ハシバミ色の大きな瞳をさらに大きく見開いて、サイファーの日に焼けた顔を見つめる。


「何で……」

「あん?」

「何で、……リオが男だって知っているの?」

「何でって……そりゃあ」


 サイファーは苦笑し、特に悪びれた様子もなく頬をかく。

 レニはその顔を、瞬きもせずにジッと見つめた。


「俺はあいつが気に入ったからな、どこかに売り飛ばすとか、そういうつもりはねえ。あんたがあいつをここに残していくなら大切にするよ。あんたがそういうことを気にしているならな」


 サイファーの黒い瞳に、初めて真剣そうな光が浮かぶ。


「あんたもさ、色々と事情があるかもしれねえが、家に帰ったほうがいいんじゃねえの? 世の中は別に、貴族のお嬢さんが見て回るほど、いいものでも目新しいものでもねえよ」


 そう言うとサイファーは立ち上がった。

 

「リオには今晩にでも聞いておくわ」


 そう言い残して、部屋から出て行った。





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