映画2

 一家が新居を前に三人で並んでいる。


「ここが新しいおうち?」


 優樹は宝物を見付けたというよりは、青いりんごを「これもりんご?」と聞くような表情で尋ねた。


「そうだよ。さあ、行こう」


 そう答えた母親に優しく手を引かれて、優樹とペロは新居に足を踏み入れる。


 年季の入った木造建築で、古くも温かい雰囲気だった前の家と、新しい家は趣が異なっていた。

 全体的に白を基調とした、お洒落で清潔感のある空間に両親も優樹も住み始めたばかりの頃は喜んだ。


 しかし、それまでは一つの部屋で寝泊まりしていた三人に、それぞれ一つずつ割り当てられた部屋。そして、防音性の高い厚くて冷たい壁は、温かい家庭を少しずつ蝕んでいった。

 そして、舞台はそれから十年後に切り替わる。




 オレンジ色に染まった閑静な住宅街。

 季節は秋だろうか。どこかの家の庭から伸びた銀杏の木が塀越しに葉を落とし、道路の端に黄色い絨毯を敷いている。

 そこを雑談に興じながら歩く二人の少年がいた。

 制服を身に纏っているところから見て、男子高校生だろう。一人は中肉中背で髪も長くも短くもない。もう一人は少し高めの背丈に引き締まった体躯で、髪はやや長め。笑顔が爽やかで好印象だ。


「じゃあな、ゆうき! また明日!」

「うん。また明日」


 とある十字路に差し掛かったところで、背の高い少年がもう一人の少年に別れの挨拶を告げ、別の道を進んで行った。

 ゆうきと呼ばれたのは標準的な体型の方だ。これは物語の流れからして、もしかしなくてももしかするのだと思う。


「ふぅ」


 友達と別れると、スイッチを切ったかのようにふっと笑顔が消え、その表情には陰りが見え始める。

 優樹の足取りは重い。オレンジ色に染まる風景が手伝ってそう見えるだけかもしれないけど、まるで月曜日に「また今日から一週間が始まるのかぁ」と思いながら仕事に向かうサラリーマンのような雰囲気だ。

 しばらくするとあの白い家が見えて来る。外見はあの頃とほぼ変化がない。

 玄関から入るとすぐにペロが出迎えてくれた。


「ただいま、ペロ」


 ペロも歳のせいもあってか大分落ち着いたように見える。

 昔は優樹が帰宅すると同時に全力で飛び掛かるような勢いでじゃれ合う場面なども見られたが、今では尻尾を振って喜びを表現するに留まっていた。

 靴を脱いで家にあがると、優樹はしゃがみ込んで視線を合わせながらペロの頭や顎の辺りを撫でてやる。


「本当にお前だけは変わらないな」


 そう言った優樹の笑みには、寂しさや悲しさと言ったものが混じっていた。


 そのまま「ただいまー」と言いつつも返事は待たずに、階段の下にある部屋に入っていく。ペロもその後に続いた。


 くつろいで風呂に入ってからリビングに行くと夕食の準備が終わりつつあった。キッチンには母親がいて、リビングには父親の姿がある。手にはタブレットがあって、何かを熱心に読んでいた。

 父親と同じくテーブルに着きながら優樹が声をかける。


「父さん、帰ってたのか」

「ああ」


 父親は夕刊から目を離さずに答える。その表情は以前とはまるで別人だ。

 十年前には穏やかで、まるで温かい木漏れ日のような笑顔を絶やさなかったあの父親には表情と言えるものがあまりない。いっそしかめっ面といった方が正しいくらいだ。

 母親も、以前は料理をしながらでも優樹や父親、ペロに話しかけていたものなのに今は無言だ。


 母親の料理の音以外にはただ静寂だけがあって、優樹も耐え切れなくなってしまったのかスマホをいじり始める。

 やがて料理が完成し、食卓には美味しそうな料理が並ぶ。

 しかし、それに対して誰もコメントを発することなく、各々が無言かつ自分のタイミングで食事を開始した。


 食事もほぼ終わりといった頃に母親が無表情で尋ねる。


「優樹、学校はどうなの?」

「部活は楽しいし、友達ともうまくやってるよ」

「そう」


 それ以上深く何かを質問することもない。問題がないのならいい、とでも言わんばかりだ。

 その会話を聞いていたのかいなかったのか、父親は無言でタブレットを手に取り立ち上がる。

 去ろうとする背中に向かって母親が言った。


「あなた、ごちそうさまくらい言ったらどうなの?」

「……ごちそうさま」

「……」


 それから残された二人が食事を終えるまで、リビングでは会話が飛び交うことはなかった。


 優樹が自室に戻っても状況はあまり変わらなかった。

 カーテンを開けても見えるのは、夜の帳が下りた静かな住宅街だけ。ぽつぽつと街灯が道を照らしてはいるが、そこを歩く人はまるで見当たらない。


 机に向かい、教科書を広げて何かの勉強に取り掛かる。

 しかし程なくして、意図的に半開きのままになっているらしい部屋の扉を押し開けて、ペロがとことこと足音を立てつつ入って来た。

 優樹が振り返ると、ペロは足元まで来て舌を出しながら、何も言わずにじっと優樹の顔を見上げている。


「大丈夫だよ」


 椅子から下りて屈み、ペロの顔を両手で優しく包み込む優樹。


「いつもありがとな」


 しかし大丈夫と言ったばかりの優樹の頬から数滴の雫が滴り落ちる。それに気付いたペロが「クゥ~ン」と切ない声をあげた。


「どうして、こうなったんだろうな」

「父さんと母さん、最近は喧嘩ばっかりしてるし」

「別に誰が何をしたってわけでもないのに、気付いたらこうなってたんだ」

「俺が美化してるだけなのかもしれないけど……前の家に住んでた頃は良かった」

「家族が仲良くて、皆が笑顔で」

「変わらないのはお前だけだよ、ペロ」

「お前はいつまでもそのままでいてくれな」


 声を詰まらせながらも正直な気持ちを言葉で伝えていく。

 泣きつかれた優樹は、その後すぐに眠りにつき……。




 翌日、ペロは家族の前から姿を消した。




 優樹は夢を見ていた。

 場所は現在住んでいる白い家。朝目が覚めるとペロが迎えに来てくれていた。


『おはよう。いつもありがとな』


 そう言って、一緒にリビングへ向かえば父と母が仲良く談笑している。


『おはよう優樹。ペロも』

『今日も仲良しなのね』


 そんな母に優樹は笑顔で返す。


『母さんと父さんほどじゃないよ』


 それから家族全員が揃っての朝食が始まる。父の仕事の時間に合わせて、母も優樹も早めに起床しているようだった。


『最近、学校はどうなんだ?』


 昨晩と似たような話題を、今度は父親が切り出す。


『特に問題ないよ。友達もいいやつばっかだし』

『そうか。中学校からの友達も多いようだからあまり心配はしていないが……何かあったらすぐお父さんかお母さんに言うんだぞ』

『何もないって。もし何かあってももう高校生なんだから、自分で何とかするよ』

『ならいいんだが。近頃はいじめとか、高校生でもそう言ったニュースは良く聞くからな』

『お父さんもお母さんも、あなたのことが心配なのよ』


 眉尻を下げて語る母。


『大丈夫だって、二人とも大袈裟だな』


 照れ隠しに一口味噌汁をすすってから、優樹がぽつりと言う。


『でも、ありがとう』


 その光景はまるで、あの頃のあの家族がそのまま年月を経たような、温かい家庭を絵に描いたようなものだった。





 夢は終わり、スクリーンには見慣れた部屋の白い天井が映し出される。

 優樹はそこで今まで見ていたのが夢だったと気が付いた。慌てて身体を起こすと目覚まし役のペロの姿はなく、時計を確認すると、いつもなら既に朝食を食べ終わっているくらいの時間だった。

 リビングに行くと母親が食器の片づけをしている。テーブルには優樹の分の食事だけが並べられていた。


「父さんはもう仕事に行ったの?」

「そうよ」

「ってことは、ペロは散歩じゃないのか……」


 そこで初めて母親が優樹の方を振り向く。


「そりゃそうよ、いつもあんたが朝ごはんの後に行ってるんだから。こんな時間に起きて来て、今日はどうするのか知らないけど」

「……」


 優樹は朝食も食べずに無言でリビングを去っていく。


「ちょっと優樹、朝ご飯は!?」


 もはや母親の声が耳に入っているかどうかもわからない様子で、優樹は階段を駆け上がった。

 二階の部屋を全て回ると、次は一階へ。念のために、母親のクレームを受けながらもリビングだって探したし、その後は外に出て家の周りをぐるりと一周したりもした。だが、いない。


 ペロの姿がどこにもない。


 青ざめた顔でリビングに戻った優樹は、端的に事実だけを告げる。


「ペロがいない」


 洗い物を終えた母親はソファに座ってテレビを見ていて、振り向こうとする素振りすら見せない。


「家の中は全部探したの?」

「うん」

「外は?」

「家の近くにはいないみたい」

「あら、そう。まあお腹が空けば帰ってくるでしょ」


 優樹の拳にぐっと力が込められた。


「何でそんなに冷静でいられるんだよ……!」


 滅多に聞かない声色だったのだろう。母親が勢いよく優樹の方を振り向く。


「家族がいなくなったんだぞ!」

「突然どうしたの。ペロが外に出ることなんて今までにもあったでしょ」

「庭に出ることはあったけど、勝手に敷地外に出るなんてことはなかった」

「それはそうだけど」


 そこで優樹は何かに気付いたらしく、目を見開いた。


「そもそもペロはどうやって外に出たの? どんな時間でも、誰かが出て行く度にちゃんと施錠してるよね。さっき家の中を見た感じ、窓とかだって開いてるところはなかったし」


 すると母親は目を逸らし、少しバツが悪そうに答える。


「私が朝起きて朝ご飯の準備をする前に、郵便ポストのチェックに行ったらその時についてきたのよ」

「……」

「それだけでも珍しいのに、家の中に入る時にはついてこなくて。そのまま庭でもぶらつくのかなと思って放っておいたんだけど」

「もういい」


 優樹はリビングに背中を向け、ずんずんと力の入った足取りで玄関へと向かっていく。


「ちょっと優樹、どこ行くの! 今日は学校でしょ?」

「ペロを探しに行く」

「何言ってんの、ちょっと待ちなさい!」


 構わずに家を出て行く優樹。母親は玄関へ向かおうとしていたが、優樹が出て行ったのを見てリビングに戻り、慌ててスマホを手に取った。

 どこかに電話をかける。「もしもし」とスピーカーから聞こえて来たのは聞き慣れた声だった。


「お父さん?」

『どうした』

「ペロがいなくなっちゃったの。それで、優樹が学校休んで探しに行くって言って出て行っちゃったのよ」

『……何?』

「もう私どうしたらいいかわからなくて」


 正直混乱しているのは二人共同じだと思うが、父親は努めて冷静な声で指示を出した。


『とりあえず学校に欠席の連絡をいれなさい。理由は……まあ正直に話すしかないだろうね』

「脱走した飼い犬を探すために休みますって言えばいいの?」

『うん。優樹にとって、ペロが犬か人間かというのはあまり関係がない。小さい頃からずっと一緒に育ってきたというのを学校に説明すれば少しくらいは理解してもらえるだろうさ』

「わかった」

『優樹はスマホを持って出て行ったのか?』

「わからない」

『繋がるなら優樹にも連絡をして。こうなったらペロを探すこと自体はどうこう言わずに、落ち着いて怪我をしないようにと伝えて。これで優樹までいなくなったら収拾がつかない』

「うん、そうよね。わかった」

『俺も早退できるようならするから。大変だと思うけど落ち着いて、しっかり対応に当たって欲しい』

「うん」

『それじゃ』


 そう言って通話は終了した。母親は先程よりも幾分か平静になった様子で学校と優樹に連絡を入れていく。


 この時、映画館の観客席の雰囲気が少し和らいだのを感じた。

 だって、困った母親が真っ先に頼ったのが、険悪な雰囲気になっていたはずの父親だったから。

 スクリーンに映し出されていたのは紛れもなく、家族のピンチを前に一丸となる夫婦の姿だった。

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