第3話 三人の焼死体

 冬道が屋敷で過ごす最後の日の夕食は、居心地の悪いまま終わった。

申橋はどうにも収まりがつかなかったらしく、片付けも早々にさっさと帰宅してしまった。冬道は申橋にさほど思い入れがあったわけでもないが、これが今生の別れになると思うとなんともやりきれない。せめて挨拶くらいはしたかった。

 夕食時は案の定、浩子による申橋への文句で持ち切りだった。申橋を擁護するつもりも責めるつもりもない冬道は、口汚く罵る浩子の言葉がただただ不快だった。

 冬道は、義務を全うする心持ちでなんとか夕食を食べきることが出来た。天ぷらは奥村の得意料理だ。冬道は奥村の作る天ぷらが好きだった。最後の夕食が冬道の好物だったのは、きっと奥村の好意だろう。

 小さい頃はよく、揚げ物をする奥村のそばに寄り「危ないでしょう」と叱られた。それも含めて冬道は天ぷらが好きだったのだと思う。

しかし現在は吐き気すら覚えた。


 風呂に入り、部屋に戻る。昼間の片付けの際に、壁に飾った標本やポスターは全て外してしまった。片付いた部屋は他人の家のように感じる。

寂しい。

冬道は敷布団の上に座り、網戸の外から聞こえる虫の音に耳を澄ませた。

網戸の前には蚊取り線香の煙が揺れている。

 今日はもう早く寝てしまおう。明日になればまた忙しくなって、悲しみに構う暇もなくなる。早く電気を消してしまえば、片付いた部屋を見なくてすむ。冬道は自室の電気を消し、敷布団に身体を横たえた。


 ざざ。ざ。

風で樹の葉が擦れる音がする。

ざざ。

今日は風が強いな。明日の午後は雨が降るとか言っていたか。

引っ越しの荷物が雨で濡れるのは嫌だな。

ざざ。ざざ。ざ。


眠れなかった。

冬道のはらの、一番下まで降りていったさらに下、底の底。

黒い液体が波打っている。

ぬらり、ぬらり。

波はゆったりと躍動を続けながら、僅かな光を反射させている。


指で触れてみた。

それは湧き水と違って生ぬるく、また清らかでもない。

汚れ濁ったその液をすくうと、どろりと指の間からこぼれ落ちていく。

指には黒いすすのようなものが残った。残りかすまで汚い。

ぬらり。


ふいに、冬道はその液が何であるか気づいた。

―――油だ。


 その液体が汚れた油であることに気が付いた瞬間、冬道は開け放した窓の外からこちらを覗いている女がいることに気づいた。

 白い女だ。肌から髪から目から何もかもが白い。服は着ていなかった。

年齢はよくわからない。少女にも老婆にも見える。

 いや、干からびた少女だ。干からびて体中がしわくちゃの老婆のようになった少女が、にたにた笑いながらこちらを見ている。にたにた笑っているだけで、他に何もしない。

 そして冬道は、その少女の存在を認めた瞬間、絶叫した。


「どうしたの」

 奥村が血相を変えて冬道の部屋に飛び込んできた。奥村の声で冬道は目を覚まし、混乱した頭を整えようとする。

―――夢か。

 なんのことはない。夢だったのだ。

一応窓を確認したが、もちろんそこに白い少女の姿はなかった。そもそも網戸が閉まっているので、少女がいたとしてもあんなにはっきり見えるはずがない。

 夢だとわかっても恐ろしかった。冬道は駆け寄ってきた奥村にすがりついた。心臓が早鐘を打っている。

 よほど汗をかいたのか、パジャマが異常に湿っていて、ほぼ濡れている。べたべたと肌に張り付いて気持ちが悪い。

「怖い夢でも見たのかしら」

 奥村は冬道を抱き寄せ、背中を優しくさすってくれた。そして「あら」と声を上げる。

「おねしょしちゃった?」

 奥村の指摘で、冬道も自分の失態に気が付いた。パジャマが濡れているように感じたのではない、実際に濡れていたのだ。

 冬道は慌てふためいた。おねしょなんて、小学生になってからはしたことがなかった。自分がどういう態度を取るべきか全くわからず、ただおろおろとパジャマの裾を縮めたり引っ張ったりしていた。

 奥村はそんな冬道を見かねて、優しく声をかけた。

「大丈夫だから、お風呂で身体を洗っておいで。パジャマは洗面所に置いといてね。その間にお布団、代えといてあげるから」

 奥村の指示を受けて、冬道は慌てて部屋を出た。すると背後から奥村に「新しいパジャマ持っていってね」と声をかけられ、また慌てて自室に戻る。ぎくしゃくと箪笥から着替えを取り出す冬道に、奥村は笑いながら言った。

「そんな気にしなくていいのよ」

奥村の言葉を受けて、目にじわりと涙が浮かんだ。

 着替えを持ち、改めて襖の方を向くと、襖の陰から浩介がこちらを伺っていることに気づいた。ぎくりとした。浩介は疑うような目付きで冬道に尋ねる。

「おねしょしたの?」

 浩介の質問に、冬道は硬直した。体が震える。何も答えられなかった。

「浩介くんはお母さんのところに行ってようね」

 奥村は浩介を、冬道の部屋から出そうとする。浩介は奥村の体の横をするりと抜けて、掛け布団をめくりあげた。

「きったねぇ!こいつ寝小便漏らしてる!」

 全身の血液が直ちに頭の天辺てっぺんに上った。顔が真っ赤になる。身体が震える。涙もにじみ出てきた。それでも何も言い返すことができない。

 浩介は何も言い返さない冬道を相手に、なおも続けた。

「小学二年生にもなっておねしょする奴なんて、普通はいないよ。お前なんでトイレでおしっこしないの?布団はトイレじゃないって知らねぇの?」

 奥村は浩介の腕を掴み、力づくで彼を母親のもとに連れて行った。浩介は不満だったらしく「ねぇなんで」と奥村に食ってかかっていた。

 冬道は両手で顔を覆った。これは嘘泣きではない。浩介なんて死ねばいいのに。ああ、惨めだ。本当に惨めだ。誰か浩介を殺してほしい。そうだ、直樹も浩子伯母さんも死ねば良いんだ。あいつらさえいなくなれば、僕は遠くに引っ越さなくてすむのだ。あいつらさえいなければいいんだ。誰かあいつらを殺してほしい。この願いを聞いてくれるのは誰か。この願いを叶えてくれるのは誰か。誰かいるはずだ。父がそう言っていた。

 冬道は、箪笥の奥から小さな巾着袋を取り出した、中には鍵が二つ入っている。ひとつは引き出しの鍵、もうひとつは木箱の鍵だ。

ぬらり、ぬらり。

肚の底で黒い油が波打つ。

引き出しを開けて箱を取り出した。

箱を開けてランプを取り出した。

 白熱灯の下で見るランプは、最初に見たときよりも冷たい印象を冬道に与えた。銀色に輝く、古びたオイルランプ。

 冬道はランプに話しかけた。

「浩介、直樹、浩子伯母さんを殺して」

 殺してと口に出した瞬間、冬道の怒りは嘘のようにすっと引いた。

簡単に「殺す」などと口に出す人間は嫌いだ。奥村がよく「殺すという言葉は簡単に使ってはいけない」と言っていたからだ。冬道もそう思っている。にも関わらず、自分は自分の信条に反する言葉を口に出してしまった。

 冬道は急にいたたまれなくなり、ランプを箱に入れ、元の場所にしまった。二つの鍵も巾着袋にしまい、箪笥の引き出しの奥にしまった。

 ランプが本当に彼らをどうこうするなどと、冬道は考えていない。

ただ意外にも、冬道の心は晴れていた。浩子たちに対する憎しみを、ランプ相手とはいえ口に出せたことは、冬道にとって大きなことだったのだ。

 もしかしたら父親はこういった事態を見越して、自分にランプを与えてくれたのかもしれない。真実を知る術はもうないが、もしかしたら父親は冬道が思っているよりも、良い父親だったのかもしれない。

 ともかく、明日からひとりで生きていかねばならない。

新しい着替えを両腕に抱え、冬道は立ち上がった。


 黒電話の音で目が覚めた。すぐに誰かが受話器を取ったようで、コール音が響いた時間はほんの僅かなものだった。

 完全に覚醒する前に、冬道は自分の身体の異変に気づいた。関節がキシキシと痛み、全身に寒気が走る。パジャマが皮膚に触れると、ぞくっと嫌な不快感を覚えた。

 時計を見るとすでに九時を回っている。今日は親戚宅に向かう筈だったのに、出発予定時間を大いに過ぎていた。

 もしや自分は寝過ごしてしまったのではないだろうか。早く準備をして下に行かなければ、浩子伯母さんに怒られる。冬道は起き上がろうとしたが、何故だか身体のどこにも力が入らない。自分はいつもどうやって身体を起こしていたのか、一時的に忘れてしまったようだ。そのうち思考が回らなくなってきて、冬道は起きるのを諦めてしまった。

―――たぶん、熱がある。

 きっとそうだ。きっと誰かが発熱に気づいて、出発日を遅らせることを提案したのだ。それなら辻褄が合う。

 冬道は心の底から安堵した。

例え僅かな間だとしても、屋敷で過ごせる時間が増えるのは嬉しい。

 このように熱を出すことは、冬道にとって珍しいことではなかった。母親に似て生まれつき身体の弱い冬道は、少し身体を冷やしたり無理をするだけですぐに熱を出す。

 冬道は意外にも、自分のこの体質を好んでいた。もちろん体調を壊せば苦しいことに変わりはないが、熱を出せば奥村が自分に優しくしてくれるからだ。

 それに元々、外ではつらつと遊ぶタイプでもなかったから、部屋の中に籠もりきりになったとしても、さほど不満を感じなかったのである。

 階下から足音が上ってきた。どすどすと大きな音を立てている。奥村ではない。直樹だろうか。

 襖がすっと開くと、そこには申橋の顔があった。手には薬と水、そして盆を持っている。

「なんだ、起きてたのか」

 申橋は足で襖を開け、冬道の部屋に入ってきた。そして枕元に盆を置き、その上に薬と水を置く。薬と水を置くだけにしては、随分と大きな盆である。

「今奥村さんがお粥持ってくるから」

「なんで申橋さんがいるの」

 当然の疑問だった。火曜日に申橋は来ない。だから、昨日が申橋と会う最後の日だったはずである。

 申橋は「ちょっとなぁ」と言ったっきり、神妙な顔をして何も答えない。冬道にどう説明するべきか、迷っているようだった。

「浩子伯母さんたちは、どうしたの」

申橋は「うぅん」と、返事なのか唸り声なのかわからない言葉を返す。そして、おもむろに口を開いた。

「浩子伯母さんたちはなぁ、病院なんだよ」

「病院?どうして」

「うぅん、それがなんか、事故にあったみたいで」

「事故?」

「うん」

「直樹と浩介も?」

「そうなんだよ」

「なんで?」

「わからない」

 申橋は腕組みをして「うぅん」と唸った。冬道は混乱する。自分が眠っている間に、浩子たちに何があったというのか。申橋の説明を聞いても何にもわからない。と言うよりも、申橋自身が何もわかっていないのだ。

 お粥を持った奥村が開きっぱなしの襖の向こうに立っていた。奥村は申橋と目を合わせ、申橋は示し合わせたかのように立ち上がった。

「ま、ゆっくりしてろよ」

 申橋は冬道の頭をぽんぽんと二回叩き、部屋を出ていった。入れ違いで奥村は冬道の部屋に入り、先程まで申橋が座っていた場所に正座した。

 奥村はお粥と匙を盆の上に置き「具合はどう?」と尋ねる。

「熱は下がった?」

奥村の右手が冬道の額に触れた。ひんやりとしていた。

「まだ熱がある」

「浩子伯母さんたち、何の事故に遭ったの?」

唐突な冬道の質問に、奥村は困ったような顔をした。

「伯母様たち、今朝早くに車で出かけたみたいなのよ。冬道くん、何か聞いていなかった?」

冬道は首を横に振った。

「そうよね。私も何も聞いていないの。私達が寝ている間に車で出かけて、それで崖から落ちてしまって。それでほら、ここ私有地でしょ。下手したらずっと見つからないなんてこともあったと思うけど、幸い申橋くんが発見したの」

「なんで申橋さんが」

「申橋くんね、あなたを見送るために来たんだって、わざわざ。昨日あんまり話せなかったからって」

 申橋にきちんと別れの言葉を伝えられずもやもやしていたのは、どうやら冬道の方だけではなかったようだ。冬道に別れを伝えるため、屋敷に向かった申橋が、親戚たちの乗った事故車を発見したのだ。

 しかし、親戚たちが朝早くに家族総出で山を下っていた理由は依然わからない。

 冬道は、漠然とした不安を覚えた。

「伯母さんたちの怪我は酷いの?」

「私は見ていないからなんとも言えないけど、伯父様が急いでこっちに来るって。申橋くんも今から病院に行くところよ。でも、申橋くんの話だと、あんまり良くないみたい」

「酷いって?」

「うん、なんか、車を見つけた時、燃えてたって」

 奥村は左手で自分の顔の火傷痕をそっと触った。無意識なのだろう。このときの彼女の瞳に、少しだけ喜びの色があったことを冬道は見逃さなかった。恐らく彼女も、冬道と同じことを考えている。

 散々奥村の顔の火傷痕を馬鹿にした伯母に、同じような火傷痕ができるかもしれないのだ。なんといい気味だろう!

「まぁそんなわけだから、お引越しは延期ね。伯母様たちは、お医者様に任せてけば大丈夫。冬道くんはゆっくり寝て休んでて。お粥は食べれる?」

冬道は頷き、奥村に抱きついた。

「まぁどうしたの。甘えん坊さんね」

 奥村は笑いながら冬道の背中をさすってくれた。冬道は、自分の顔が見えないように奥村の腹に顔を埋めた。

 自分が、親戚たちの不幸を喜ぶような人間だと奥村に知られてしまったら、奥村は自分を嫌いになるかもしれない。


 それから、冬道はぐっすりと眠った。途中で何度か起きては、食事をしたりトイレに行ったりしていたらしいが、そのときの記憶は冬道にはない。

気が付いたときには、四日も経過していたのである。

 目が覚めたときには夕方だった。この時点で冬道は、自分がまだ四日間も朦朧としていたことに気づいていない。

 冬道が居間に行くと、黒い服を来た申橋がソファで横になっていた。冬道の姿を見つけると、申橋は慌ててソファに座り直し「ちょっとは元気になったかい」と声をかけた。

「その服は、父さんのお葬式に着ていった服じゃないの?」

冬道がそう言うと、申橋は明らかに狼狽した。一度「いや」と否定した後、「まぁ」と、はっきりしない言葉を口走って押し黙る。

「誰か死んだんだ。伯母さん?」

 申橋は再び口ごもり、何度か意味のない音声を発し、やがて腹を決めたのか、冬道の目をまっすぐ見て答えた。

「全員」

申橋はそう言った。

「全員って、誰のこと?」

「伯母さんと、直樹と、浩介。車に乗ってた全員死んだ」


 冬道は踵を返し、部屋を飛び出て階段を駆け上がった。背後から申橋の慌てる声が聞こえた。しかし追いかけては来ない。

 ぴしゃりと襖を締め、乱暴に箪笥を開け、手当り次第中の物を外に放り出した。引き出しの奥に隠してあるのは小さな巾着袋だった。中には鍵が二つ入っている。

 1つ目の鍵を、引き出しの鍵穴に差し込もうとした。慌てて差し込もうとして、鍵を床に落としてしまった。一度深呼吸をして、鍵を拾い上げる。もう一度鍵を差し込むと、今度は難なく解錠した。

 二つ目の鍵は木箱の南京錠に使う。こちらは落ち着いて開くことが出来た。カチャリと高い金属音がする。心臓の音が聞こえた。冬道はもう一度深呼吸をする。

恐る恐る、木箱の蓋を開いた。

そこに入っているのは、古びたランプだ。

 蔦のような細かい模様が彫られた銀色のオイルランプは、あの日から何も変わった様子は見られない。

冬道はランプを手に持ってみたが、初めて見たときと何一つ違いを見つけることができなかった。

 箱の中にはもうひとつ入ってるものがある。父親からの手紙だ。

手紙を厳重に封じていた麻紐とともに、箱の中の隙間に押し込まれている。

 冬道はランプを箱に戻し、木箱に鍵をかけ、引き出しにも鍵をかけた。手紙は手元に残したままだった。冬道は、手紙を処分するつもりなのだ。

 あの夜確かに冬道はランプに願った。浩介、直樹、浩子伯母さんを殺してとランプに願った。その願いが叶ったのだ。本当に魔法のランプだったのだ。人の願いを叶える力を持った、魔法のランプだったのだ。僕は三人の死をランプに願った。僕は人殺しだ。

 しかしこのランプは、どこからどう見てもただのオイルランプである。古いだけで、美しいわけでも魅力的なわけでもない。この手紙さえなければ、誰もこのランプが魔法のランプだと認識できる者はいないだろう。

今すぐ手紙を処分するのだ。誰かに読まれる前に。

 窓の近くには、火の付いた蚊取り線香が置かれている。冬道は蚊取り線香の火に、そっと手紙を押し当てた。その瞬間、手紙はものすごい勢いで燃え上がり、炎は天井にまで達した。手紙は灰すら残さず、一瞬で空に消え去った。

 まさかそんな勢いで燃える上がるとは思わず、冬道は驚き尻餅をついて倒れた。麻紐だけは燃えずに床に残っている。冬道は立ち上がり、麻紐を拾い上げゴミ箱に捨てた。

そういえば、奥村はどうしているのだろうか。

 冬道は奥村が気にかかり、階段をそっと降りて奥村の部屋の前に立つ。 襖の間から部屋を覗くと、奥村は、灯りのついていない部屋の真ん中で正座をしていた。夕方とは言え、外はまだ暗い。冬道は奥村の部屋に入った。しかし奥村は気づかない。

 電灯の下から伸びる紐を引っ張った。部屋がぱっと明るくなる。奥村はようやく冬道がそばにいることに気が付いたようで、正座をしたままゆっくりと冬道を見上げた。泣いていたようだ。

「冬道くん」

 奥村は黙って手を広げた。奥村の目は真っ赤に充血している。

冬道は大いに困惑した。

 奥村は浩子たちの死を想って、涙を流しているのだろうか。奥村は浩子に散々嫌な思いをさせられてきた。それなのに、彼女とその子供の死を悲しんでいるのだろうか。

 いや、そういうことじゃない。人の死はそれだけで、悲しむべきものなのだ。死んだのが誰かなんて関係ない。どんな人間でも、誰かの心の不足分を埋めている。好かれているとか、嫌われているとか、そういうこと以前に、人は誰でも、誰かの心の不足分を埋めているのだ。

 冬道は浩子を嫌っていたが、浩子の夫にとっては最愛の妻だったはずだ。直樹と浩介は、愛おしい子供たちだったはずだ。現在、磯山直夫は、悲しみの淵にいるのだろう。今も泣いているのだろう。

 目の前の奥村も泣いている。奥村を泣かせたのは自分だ。自分が浩子と直樹、浩介を殺してしまったからだ。

 奥村は両腕を広げている。冬道を抱きしめるつもりなのだ。しかし冬道はその場に立ち尽くしたまま、ただ奥村の顔を見つめている。

 奥村は両腕で、冬道を抱き寄せた。かくんと、冬道は畳に膝を付いた。硬直した姿勢のまま奥村の腕に抱かれている。

―――僕が、奥村さんを、悲しませたのだ。

奥村を泣かせた罪は、三人を殺した罪よりもずっとずっと重い。

「つらかったでしょう。冬道くん」

 奥村はつぶやいた。冬道ははっとした。

奥村はあろうことか、冬道の人生を憂いて涙を流していたのだ。彼女は、両親についで、伯母と従兄弟まで亡くしてしまった冬道を憂いて、同情して泣いていたのだ。

 違う、違う。どうか泣かないでほしい。これは僕が招いたのだ。僕が望んでこの状況に身を置いたのだ。全て僕が悪い。父さんや母さんが死んだのも、もしかしたら僕のせいかもしれない。僕が悪いのだ。僕が殺したのだ。

 しかし言えなかった。奥村に嫌われたくなかったからだ。

冬道は奥村に嫌われたくがないために、奥村がそう望んでいるように彼女に縋り付いて泣いた。

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