第2話 魔法のランプ

 屋敷の裏手には低い崖がある。そこには山からの湧き水を流すためのパイプが設置されていて、湧き水の流れ落ちた先には、それを溜めておくための陶器製の大きな鉢がある。

 冬道は、鉢の中で留まっている水にそっと手を浸した。水は思ったよりも冷たく、浸した指がきゅっと引き締まる。

 その指で自分の頬を触った。汗ばんだ肌に冷えた温度が気持ち良い。しかしその冷たさは長く続かず、冬道の指先は夏の暑さに負けて次第に生ぬるくだらけていった。


「冬道くん、こんなところにいたの」

背後から声をかけられた。冬道が振り向くと、割烹着を着た奥村が立っている。足元はつっかけだ。

「探したわ。話があるって、浩子伯母様が。一緒に行きましょう」

奥村は、浩子に命じられて冬道を探しに来たのだろう。

―――放っといてくれればいいのに。

 冬道は思った。だがそうもいかないのだろう。そうもいかないとわかっていたから、冬道は普段行かない屋敷の裏をわざわざ逃避場所に選んだのだ。もちろん、現実逃避をする時間をできるだけ引き伸ばすためだ。

 冬道は仕方なく、奥村とそっと手を繋ぐ。奥村の手はじっとりと汗ばんでいる。奥村と手を繋ぐ事自体は好きなのだが、他人の汗は不快だ。

「お父様のことは残念だったわね」

 冬道は「ん」と曖昧な返事をした。父親が死んでも悲しんでいないと奥村にもし知れたら、嫌われてしまいそうで恐ろしかった。奥村はそんな冬道の対応を、好意的に受け取る。

「でも安心よ。浩子伯母様が冬道くんを引き取ってくれるらしいから。あの人だったらとてもしっかりしているし、安心だわ」

 冬道はまたしても「ん」と返事をした。果たして奥村は、そんなことを本気で思っているのだろうか。使用人たちへの浩子の態度は見るに堪えない。奥村だってたまに、浩子の暴言に耐えきれず、独りで泣くことがあるじゃないか。それにも関わらず、奥村は「安心」というのか。

 それとも、奥村は自分ほど浩子を恨んでいないのだろうか。自分が子供だから、いつまでも浅ましく浩子を恨んでしまうのだろうか。大人になれば、人を恨まず、健やかな気持ちで生きることができるのだろうか。

 奥村の顔面の左半分は焼けただれている。二年前に通り魔に襲われ、顔の半分を燃やされたのだ。それ以来奥村は、随分と暗い性格になった。

 浩子は事あるごとに、奥村の顔を馬鹿にする。酷い顔だの、嫁に行けないだの、嫌なことを平気で言う。しかし奥村は怒らなかった。

 奥村が許しても冬道は浩子の発言を絶対に認めない。そして浩子を絶対に許さない。しかし許さないからと言って、何ができるわけでもない。

 浩子に自分を預けても良いと、奥村は本当に思っているのか。冬道の心の中には、奥村に対する不信感までが、じわじわと染み出していた。

あなたは僕が大切ではないのか。

あんな人に僕を預けて良いと思っているのか。

どうして自分をこの場所に留めてくれないのか。

人を恨んでばかりで嫌になる。


 浩子は玄関で蚊取り線香を探していた。

「あぁもう本当田舎って虫ばっかりで嫌んなっちゃう」

奥村が慌てて玄関の引き出しから蚊取り線香を取り出した。浩子は礼も言わず、奥村の手から蚊取り線香をひったくる。

「顔が悪いんだから気ぐらい利いてよ、もう。本当ぐずなんだから」

浩子は苛立ちを隠そうともせず奥村をなじった。

「蚊に刺されて重大な病気にかかることもあるのよ。まぁあんたには子供がいないから、わからないのかもしれないけど」

続けざまに嫌味を言う浩子に、奥村は申し訳無さそうに頭を下げていた。

 直樹と浩介は居間で菓子を食べている。見れば、二人は勝手に冬道の本を持ち出している。それも画集や図鑑など、冬道が大切にしているものばかりだ。それらの本は冬道の自室に保管していた。部屋に入るときは声をかけて欲しいと、冬道は二人に伝えていたはずだった。


―――ぬらり。

冬道の中で、黒い液体が波打った。


「もうあんたたちも知っているかもしれないけれど」

唐突に浩子が話を切り出し、冬道は我に返った。

「冬道はうちに来ることになったから、仲良くしてあげてね」

間髪入れずに浩介が口を出した。

「嫌だよ。こんなとろい奴」

浩子は「そんなこと言わないの」と浩介を嗜める。

「仕方ないでしょ。冬道はお父さんもお母さんもいないんだから」

「そんなの俺らに関係ないだろ」

「関係あるでしょ。親戚なんだから」

浩介は負けじと続ける。

「嫌だよ。だって冬道つまんないもん。こいつ何にも喋んないんだもん。しかもこいつ、部屋に気持ち悪い虫飾ってたんだよ」

虫とは標本のことだ。嫌なら勝手に部屋に入らないで欲しかった。

 奥村は、浩子と冬道の顔を交互に伺い、直樹はつまらなそうに頬杖をついて外を見ている。冬道はと言うと、あまりの居心地の悪さに吐き気を催していた。正座した足が痺れかけていることや、汗でシャツがじんわりと肌にまとわりついていることも含め、もう何もかもが不快極まりない。今すぐこの部屋から出て行きたい。

「とにかく、夏休みの間に冬道はうちに来てもらうからね。それまでに荷物をまとめておきなさい。遺産とかの管理は伯父さんと伯母さんでしてあげるからね。あんたは何にも心配しなくていいから」

「あの」

冬道が口を挟んだ。

「学校って転校するんですか」

浩子は大げさなため息を吐いた。

「当たり前じゃない。馬鹿ね、うちに来るんだから。それともあんた、うちからこっちの学校通うつもりだったの?」

浩介が母親を倣って「ばぁか」と煽る。冬道はもう何も言う気が起きなくなった。

「直樹もそれでいいわね。聞いてるの直樹」

 急に話を向けられた直樹は面倒くさそうに「いいよ」と返事をする。そして続けた。

「なんで今年なんだよ。どうせ自殺するなら受験が終わった後に死んでくれれば良かったのに」

奥村がはっと息を呑む。冬道は顔を上げた。

「父さんは自殺したの?」

 父親の死因を、冬道はたった今知った。恐らく冬道の心情を考慮して、意図的に隠されていたのだろう。それがこんな形で冬道に伝わってしまうなんて、奥村も予想していなかっただろう。

「そう、自殺」

直樹は事も無げに言った。遠慮も配慮もない。

 冬道は立ち上がり、自室に駆け戻った。この居心地の悪い空間から一刻も早く脱したかったのだ。


 自室に戻った冬道は、自分の本棚が荒らされ、壁にかけておいた昆虫の標本が床に落ちていることに気づいた。

 悲しかった。自分の所持品に触られたからではない。無礼な態度を取られたからだ。

 一言「貸して」と言ってくれれば本は貸した。気持ち悪いなどと言わず、丁寧に扱ってくれるなら宝物の標本を見せてあげても良い。

僕がお前たち家族に引き取られることを望んでいるかどうか、きちんと前もって意志の確認をし、誠意を持って説明してくれれば、最低限の礼儀を持って接してくれれば、こちらも相応の礼儀を持って恩を返す!

「冬道くん」

 部屋の襖が僅かに開いており、奥村がこちらを覗いているのが見えた。冬道が奥村に気づいたことを確認すると、奥村は襖を開けて、部屋の中に入ってきた。手には重箱くらいの大きさの古い木箱がある。

 奥村は木箱を机の上に置くと、襖をぴったりと閉めた。そして静かに息を吸うと、ひとこと言葉を発した。

「ごめんなさい」

 冬道は期待した。冬道を浩子の元に行かせることは間違いだということに、やっと奥村が気づいたのだと思ったのだ。きっと次に続く言葉は「浩子伯母様のところに冬道くんをやるのは間違っていたわ。私と一緒に暮らしましょう」のはずだ。

 しかし奥村が続けた言葉は、冬道の期待を裏切るものだった。

「お父様の死因を、冬道くんに伝えなくて、申し訳なかったわ」

冬道は失望した。

そんなことはどうだってよかった。

「あなたに伝えたら、ショックを受けると思ったの。だから、時間が立ってから、頃合いを見て伝えるつもりだった。でも、こんな大切なことをあなたに隠すのは、やっぱり良くなかったのかもしれない」

そんなことはどうだっていい。

「別に大丈夫」

 冬道は顔を上げずに返事をした。項垂れている冬道の頭を、奥村はそっと撫でる。今なら冬道にも、奥村が何を勘違いしているのかがわかる。

 奥村は冬道から視線を外し、机の上に置かれた先程の木箱について説明した。

「この箱は、冬道くんのお父様から預かっていたものよ。もし自分が死んだら、冬道くんに渡して欲しいと」

 冬道は視線を上げる。奥村は両手で木箱を持ち上げていた。材木の傷み具合から察する限り、かなり年代を重ねたように見える。表面がところどころ剥がれ落ちており、角は摩耗している。なんだかわからない染みだか汚れも目立っていた。

 しかし一箇所だけ、最近人が手を加えたように見える部分がある。蝶番と南京錠だ。元々お弁当箱のように蓋を取り外せる仕様だったものを、蝶番を取り付けて宝箱のような形にしたらしい。その蓋には小さな南京錠が取り付けられている。劣化の具合から、明らかに後から取り付けられたものだとわかる。

 もしこの鍵が父親の取り付けたものだとしたら、きっとこの箱の中身は父親にとって大切な物なのだろう。父の遺品は他にも数々あるが、全てアトリエや倉庫に置かれている。贈り物は生前本人から嫌というほど受け取った。

 だがこの木箱は特別だ。死を悟った父が、死後、息子に託そうと決めたものだ。

 父親の贈り物はいつだって、世間体を気にしたきらびやかな高級品だ。しかしこの箱は、そういうものではないような気がする。このぼろぼろの箱の中に、父親が本当に自分に伝えたかった真実があるのではないか。冬道はそう考えた。

 冬道は奥村から箱を受け取った。重くもなく、軽くもない。奥村は、箱とともに茶色の封筒を冬道に渡した。

「これは、お父様からのお手紙よ」

 封筒は勝手に開封されないように、麻の紐で厳重に縛られ、紐ごと赤い蝋で封じられている。これほど厳重に封じられた手紙を見るのは初めてだ。

「じゃあ私は、夕御飯の準備をしてくるわね」

 奥村はそう言うと、襖を開けて部屋から出て行こうとした。冬道は思わず、奥村の腕を掴んでしまった。無意識だった。掴んでしまった後、喉から声を絞り出して奥村に尋ねた。掠れ声だった。

「一緒に箱の中身見ないの?」

当然、一緒に箱の中身を確認してくれると思っていたのだ。

奥村は少し困ったように笑う。

「私は箱の中身を見てはいけないと、あなたのお父様から言われているのよ」

「なんで?」

冬道が問うと、奥村は更に困ったように笑った。

「それは、私が使用人だからよ。お父様はきっと、家族だけに箱の中身を見せたかったんだわ」

 冬道は愕然とした。黙って奥村の腕から手を離す。

奥村は冬道の頭を撫でて、また笑った。

「今日の夕御飯は天ぷらだからね」

 奥村は部屋から出て行き、襖をぴったりと閉めた。襖が冬道の目の前で閉められた。


 なんだかもう、全てがどうでも良くなってきた。

もうこの先、生きていても何も良いことが起こらない気がする。

 自分から見た奥村は家族だが、奥村から見た自分は家族ではない。

 ひぐらしの鳴く声がした。気づいたらもう夕方だった。下の階から浩介の騒ぎ声が聞こえる。燃えるような鮮やかな西日が冬道の眼を刺激した。

―――この箱には、何が入っているのだろう。

にわかに、箱の中身が気になった。

 引き出しから鋏を取り出して、封筒に巻き付いた麻紐を切る。さらに、中身を切らないように気をつけながら、封筒の上部分を丁寧に開いた。

紙以外にも何か同封されている。

 取り出してみると、それは鍵だった。自転車の鍵のような、安っぽい鍵だ。恐らく、木箱に取り付けられた南京錠の鍵だろう。

 冬道は手紙を後回しにして、箱の中身を先に確認することにした。鍵を南京錠に差し込み、回す。

カチャ。

予想通り鍵が開いた。冬道は木箱の蓋を持ち上げてみた。

そこには、ランプが入っている。

―――?

 全く意味がわからなかった。

これはどう見ても中東のオイルランプだ。以前、似たようなものを八木から見せてもらったことがある。その時見たものは、理科の実験で使うアルコールランプのような形のものと、急須のような形のものの二種類だった。そしてこれは、急須のような形のオイルランプである。この急須の中身に油を入れ、注ぎ口のような部分から糸を出し、そこに火をつけるのだ。だが油は入っていない。

 銀色のボディにエンボスで蔦のような模様が刻まれている。それ以外に特に装飾はされていない。全体的になんとなく薄汚れていて、玩具のようにも見えた。

 なぜ父親はこれを冬道に託そうと思ったのか。冬道には全く心当たりがない。父親はアラビアンナイトが好きだったろうか。それとも僕が、オイルランプが欲しいと誰かに話したんだったか。

 答えは手紙の中にあるのかもしれない。冬道は父からの手紙を開いてみた。手紙の内容はとてもシンプルなものだった。


冬道へ

このランプは魔法のランプである

どんな願いも託してみよ


 さらに意味がわからなくなった。父親が言うところには、このランプはまさにアラビアンナイトに登場する魔法のランプだという。しかし魔法のランプはあくまでおとぎ話の中の道具で、現実には存在していない。少なくとも冬道はそう認識している。

 もしや父親は、自分を幼い子供だと思ってやしないか。

実際に冬道は幼い子供である。しかし、おとぎ話に出てくる道具を実在するものと信じられるほどには純粋ではない。一方で、冬道と同齢の子供の中には、サンタクロースを心の底から信じ込み、クリスマス前にはサンタ宛の手紙と大きな靴下を用意する者もいる。しかし冬道は、サンタも竜も魔法使いも、存在を信じていない。こういうものには個人差があるのだ。

 父親は、自分がこんな戯言を信じると思っていたのか。彼は自分の子供との時間をないがしろにし続けたばかりに、子供が見えなくなっていた。

 冬道は手紙を木箱の中にしまい、蓋を閉じ、鍵をかけた。机の引き出しの一番下にしまい込み、さらに鍵をかけた。

 なんだか疲れてしまった。


 翌日は、もうひとりの使用人の申橋も交えて、冬道の荷造りと屋敷の簡単な片付けをした。荷造りの方はすぐに終わった。最低限必要な物だけをまとめ、後は全て屋敷と共に捨てていくことに決めたからだ。昨日父親から託された魔法のランプとやらも、引き出しの中にしまったまま屋敷を出るつもりだ。

 向こうに持っていって汚されたり壊されたりするよりは、このまま屋敷に残していくほうがずっとましだと考えたのだ。

 荷造りは申橋が手伝ってくれた。その時に本や玩具の整理もしたのだが、申橋は新しい玩具を手に取るたびに「これは明円さんが北海道で個展を開いたときに」とか「この玩具を買うのにわざわざ東京に寄った」などと語り出し手を止めるので、あまり役には立たなかった。

 申橋は元々、明円勇の弟子である。十五歳で弟子入りしてからずっと、冬道の父親のお付きをしていたらしい。結局今は芸術家への道を諦めてしまったそうだが、彼は今でも明円勇を尊敬している。

 その申橋が言うところには、明円勇はいつも息子のことを気にかけていたらしい。冬道は、申橋の話を現実のものとして受け止められない。多少の誇張や申橋の思い込みもあるだろうが、彼が言うならある程度、本当のことなんだろう。しかし「明円さんは坊っちゃんを深く愛しておられた」なんて言われても、実際の感覚と離れすぎていて、いまいちピンとこない。

 申橋は冬道よりも長い時間、明円勇と時間を過ごしている。冬道にわからないことも、申橋にはわかるのかもしれない。


 それから冬道は奥村とともに、二階を掃除することになった。

掃除と言っても簡単な整理整頓と、どこに何があるのか、何が重要なもので何がそうではないのかの確認作業と言ったほうがよい。本格的な清掃は、冬道が屋敷を出ていった後に使用人たちがやってくれることになっている。

 明日にはこの屋敷を離れるのかと思うと、生まれたときから当たり前のように存在した壁や天井にも、自分が愛着を持っていたということに気づいた。

 バターのような優しい色合いの壁。この色を心に浮かべる時、冬道は同時に母親の雪江のことを思い出す。具体的にこの色が母親とどういう関わりがあるのか、一切思い出せない。しかしきっと何か良い想い出が、この色と共にあったのだ。


 階下で大きな物音がする。続いて、申橋の怒鳴り声が聞こえた。奥村が冬道の横を走り抜け、そのままの勢いで階段を駆け下りていく。依然として申橋は怒鳴り続け、それに混じって直樹が何か言い返す声も聞こえる。喧嘩だろうか。

 直樹は普段あまり言葉を喋らない性格だが、一度たがが外れると感情を抑制できなくなる。加えて自分の非を絶対に認めない。それは二度に渡る名月と直樹の大喧嘩を目の当たりにして確信したことだ。結局最後はどちらも名月が謝って収束している。これは名月が偉いというわけではなく、彼は面倒事が嫌いなので、怒りよりもこの場を適当に収めたいという気持ちが勝っただけだ。

 しかし申橋相手にはそうもいかない。申橋の怒りの沸点は極めて低く、自分の中の正義を曲げることもない。ある意味直樹と同じタイプである。

 申橋は、冬道や奥村に手を上げたことこそないが、怒鳴ることはしばしばある。こちらが平身低頭の態度を崩さずにいる限り、それ以上ヒートアップすることはない。しかし火に油を注ぐような真似をすれば、予想以上の業火に見舞われる。

 申橋の素行の悪さはむしろ、外出時のほうが顕著だった。すぐに誰かと喧嘩してしまう。些細なことから酔っ払いと殴り合った挙げ句、警察のお世話になったこともある。幸いその時彼は未成年だったこともあり、注意されただけで終わった。

 しかしここで直樹を殴ってしまってはただでは済まない。少なくとも浩子が黙っているはずがない。ただでさえ難関高校の受験を控え、親子ともども過敏になっているというのに。

 今申橋に前科がつくのは困る。冬道が屋敷を去った後、彼は職を変える予定なのだ。わざわざ今、転職を難しくする要因を作る必要はないだろう。

 冬道は音を立てないよう静かに階段を降り、二人がいるであろう居間を覗いた。案の定申橋は直樹の胸ぐらを掴んでおり、奥村は床に尻もちをつく体勢で硬直し、浩子は奥村の隣にしゃがみこんでいる。止めようとして突き飛ばされたのであろうか。

「お前に明円さんの何がわかるってんだよ!」

 申橋のあまりの剣幕に、さすがの直樹も怯んでいたようだったが、それでもおっかなびっくり言い返した。

「誰も人間性の話はしてないだろ。生物として弱かったって話だよ。自然界だってそうだろ。弱い生き物は自然と死んでいくんだ」

「じゃあてめぇはどうなんだよ。明円さんの彫刻は世界でも認められてんだぞ。てめぇに同じことができるかっつってんだよ」

「だから誰もそんな話はしてないだろ。生物的に弱いから自殺するっつってんだよ。生きてる間に何をしてたかとか関係ねぇんだよ」

 浩介は真っ青な顔で成り行きを見守っている。大人二人が止められなかったのだから、彼にはどうすることも出来ない。

 冬道はおもむろに両手で自分の顔を覆い、うわぁんと声を上げた。全員が一斉に冬道を見る。冬道は肩を震わせて鼻をすする真似をする。

泣き真似だ。

 冬道につられたのか、浩介も声を上げて泣き始めた。

子供たちが泣いている原因が自分にあると察したのか、申橋はバツが悪そうに直樹の襟首を離した。直樹は舌打ちをして服の乱れを正し、ソファにどかっと腰を下ろす。

 浩子は浩介に寄り添い、申橋はふらっと外に出てしまった。奥村は冬道の手を取って二階へと戻っていった。

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