第5話 最高の目覚め
「ん~~~~~?」
暗い視界の中で感じたのはほのかに香る花の匂いだった。それは廊下ですれ違いざまにタイミングよく鼻で息を吸った時に奇跡的に嗅ぐことが出来た女子のシャンプーの匂いに似たものだった。
瞼を開けると、目の前には豆電球だけが黄色く光る照明と白い天井があった。良かった、知らない天井じゃなくて。いつも毎朝ご対面する我が家我が部屋の天井だ。
起きて早々思いだすのは夢のことだ。白い天井がまるでスクリーンとなってそこに出来事が映し出されるように思いだされる。
それにしても稀に見る鮮明に思い返せる夢だったな。てか、夢、だよな? 起きてもなお躍動感とあの時の緊張感が蘇ってくる。まさかいきなりネズミ野郎に襲われるとか、そんな矢先少女に出会うとか、で戦うとかなんて、ないない。ありえない。
まあ確かに昨日はゲームしまくったし、その影響かもしれない。背中がびっしりと汗で濡れてしまっているけれど、あれだけ怖い夢をみたのだから当然のことだろう。おもらししなくて良かったとでも思っておこう。
「さてと、で、今何時だ?」
俺は左上を向いてケータイのあるべき場所に手を伸ばした。そしてケータイを手にして戻ってきた手には透き通る銀色に輝く生糸の束が纏わりついていた。
「……え? 何コレ?」
毛の先にいたのは少女らしき後ろ姿だった。というか、生糸の正体はその少女の長い銀髪で、その少女は俺と同じ布団を被ってそっぽを向いて寝ていた。
「あ、ごめんなさい!」
髪は驚くほど軽く滑らかに手から落ちると、少女がこちらに寝返りを打った。その顔は、夢に見た空から落下してきた少女のものだった。僅かな光も反射する艶やかな銀髪に、雪景色のように白く柔らかそうな柔肌、一本一本がはっきりとした輪郭を持つ銀色のまつ毛。
「いや、ええええええ!」
俺はベッドから飛び起きた。今まで遅刻したときでもここまで俊敏に起き上がったことはない。
「じゃあ、何? 誘拐したってこと? この俺が? いやいや、待て待て……まずは落ち着こう。落ち着くんだ。いいから落ち着け。落ち着いたか? 落ち着いてないな。落ち着けるわけないよな」
そもそも、どうして俺は少女を連れてきたんだ? いや、少女を俺が連れてきたと考えるのはあまりにも浅はかすぎる。いや、そんな浅はかな考えで俺は犯行に及んだのか? 違う、少女が勝手に家の中に上がり込んだ可能性だってある。昨日のことを思い出してみよう。
カラスに糞を落とされて、頭上を見たら、少女が降ってきた、と。
「どうしよう、何も思い出せない。記憶が改造されている……」
自分で自分が分からなくなった。俺は一体何をしたというんだ。思い出そうとしても夢の内容しか思い出せない。一体、一体俺は何をしたっていうんだ。
床に丸くなって頭を抱えてあれやこれやと思いだしては、悩んでいると、布団がもぞもぞと動き出した。銀髪美少女が上半身を起こしていた。虚ろな目を片手で掻きながら、こちらの様子を伺っている。
美少女の顔をまじまじと見つめる。彼女も俺をじっと見ている。気が付いたことは一つ。うん、犯罪級の可愛さとはこのことだろう。
俺が至った結論、それは――。
勉強机の上に置いてあるカバンから財布を取り出し、中から今月一度も使っていない一万円札を取り出し、床の上に置く。
一万円札の前に俺は正座し、膝の前に両手をつき、そこに頭を埋めた。
「こちらで許していただけないでしょうか……」
生まれて初めて土下座をした。背中に注がれる少女の視線がいたく冷たく感じ、このうえない背徳感に圧し潰されそうになった。
部屋に訪れた沈黙の間は永遠とも取れるほど長く感じた。朝を知らせるスズメたちの小さな鳴き声がやけに大きく聞こえてくる。元気出せよと勇気づけている気がした。
そしてようやく少女の一言がこの沈黙を終わらせた。
「……何を謝ってるんですか?」
期待していた言葉など降り注がず、少女からは疑問の声が掛かった。
俺はそっと頭を上げた。少女はベッドの縁に座ってこちらの様子を首を傾げて窺っていた。少女も昨晩のことは覚えていないのだろうか。なら状況説明は俺がしなければいけないということか……
「いや、えっと、何をって……聞かれても……俺にも分からないけど。多分君を家の中に連れ込んじゃってあれやこれやとしてしまったんじゃないかなって……」
変な妄想が脳裏に浮かびそうになり赤く照れる顔を隠しながら、そんなことを言ってみた。
しかし少女には心当たりがないのか、しばらく天井を仰いだ後何かを思いだしてこちらに再び視線を戻した。
「ああ、そうでしたね。なかなかの腕でしたよ。お見事でした」
「え? お見事?」
「何のことって、昨晩のことですよ。ネズミ頭の怪物を倒したじゃないですか? 私を使って」
「怪物? 君を使って?」
ここらで疲れてきたので足を崩してあぐらをかく。ついでに諭吉もポケットの中に仕舞い込んだ。
「いや、でもそれって夢じゃないの? 今日もベッドから起きたし」
と言ってわざと少女が座るベッドを指差した。
「夢? ああ、そういうことですか」
最初は首を傾げたが、何かを理解したように一つ大きなため息を吐いた。
「まあ確かにあのタイミングで気絶されては、起きた今では夢の出来事と思ってしまうのも致し方ないでしょう。あの後すっかり意識を失って眠ってしまったあなたをこのベッドまで運ぶのはとても大変でした。この世界に来て最初の力仕事が男性の身体を掴んで、あろうことか階段の上を運んでここまで連れてくるなんて。はぁ、私もすっかり疲れてしまい、ベッドにお邪魔させていただきましたよ」
少女は右肩を摩りながら俺を運んだ時の骨の折れる思いを話していった。そういえば、ネズミ野郎を倒した後、急に頭が重くなって目も虚ろになり、そして気づいたらベッドの中にいた。
「じゃあ、本当に俺は、夢の中ではなく現実でネズミ野郎を倒したってことなのか……」
「ええ、そうです。ようやく理解していただけたようですね」
と少女は言い切った。しかし、ならば大きな疑問が一つ残っていた。俺は立ち上がって改めて部屋の中を見渡した。ベッドも、机も、壁も床も、どこ一つなく傷ついた所はない。昨日俺が練る時の一のままだ。
「でも、なんで部屋は元に戻ってるんだよ? 記憶ではネズミ野郎は俺を探すためにベッドをひっくり返したり滅茶苦茶にやってたぞ? 傷一つ残ってないなんておかしいだろ」
「それは聖域という名の空間が保証されていたからです。聖域内では何が起ころうとも、決して現実世界には影響が出ないのです」
「聖域?」
「端的に言えばバトルフィールドです。そこでは物が壊れようが何しようが元に戻ります」
「ほほー……」
「理解できましたか?」
「全く」
右耳から入った話がみごとに左耳から抜けて行った。朝の栄養の言っていない鈍感な脳みそにはやはり理解は難しい。今は、部屋が元に戻った、という事実に安心しておくか。
「まあ、それは後程説明するときが来たらするとして、ところで」
理屈は分からないが、聖域とかいう空間で起きたことは現実世界では何ら影響しないことらしい。朝起きたばかりの脳みそにはそれくらいの簡単な理解しかできなかった。
「ところで、」
「ん?」
ぐぅ~。少女のお腹から小さなうめき声が聞こえた。
「お腹空きました」
アラームを消し忘れていたケータイがちょうどのタイミングで鳴り出した。俺はいつもより早めに起きていたらしい。
ケータイを手に取りアラームを停止させてから少女に応じる。
「じゃあ飯にするか、とりあえず」
俺は少女を連れ立って、リビングへと向かった。驚くことに、一階への階段を降りる最中も傷一つは見つからなかった。未だに少女の言っていることを簡単に受け入れるのが難しい。
◇
テーブルをはさんで少女と迎え合わせに座る。朝ご飯として昨日の残りの白米と缶詰(サバの味噌煮)、インスタントの味噌汁を用意した。
「どうぞ、召し上がれ」
「召し上がれって、何ですかコレ?」
少女は人差し指の先で缶詰を何度も小突いていた。
「こんなメカメカしい料理見たことなんですけど」
「あれ? もしかして缶詰食べたことない感じ? こうやって開けて食べるんだよ」
と、俺はスプーンで起こした缶詰の栓に指を掛けて開いた。
「ほら、こっち開けたからやるよ」
開けたばかりの俺の缶詰と少女の缶詰を交換した。最初から開けて渡せば良かったな、と思ったが、それでも少女の顔に掛かった曇りは消えなかった。
「どうも……って、やっぱりコレなんですか? 中に入っているこの茶色い物は何なんですか? 腐ってるんですか?」
「発酵した魚だよ。骨まで柔らかくなってるから、そのまま食べられるぞ」
そう言って、俺は先に箸を動かした。サバを口の中に入れた後にご飯を入れ、そして味噌汁で満たす。これでようやく朝ご飯を食べている感じになる。
これを毎晩毎朝食べているわけだが、我ながらよくもまあ飽きないものだ。一度は飽きかけたが、一線を越えると慣れてしまう。
少女もようやく箸を動かし缶詰の中から味噌に浸った魚の切り身を取り出した。異国風の風貌だが、箸の使い方はお手の物だな。
「はぁー……」
切り身をご飯の上に置き、箸を置いて少女は腕を組んで深い溜息を吐いた。先ほどまで箸を動かしていた俺の手も止まってしまう。
「これじゃないですよ、これじゃ」
「どういう意味だよ?」
「ここはどこですか?」
質問に質問で返され戸惑いつつ、少女の疑問に優先的に答える。
「日本」
「そうですよ、ここは黄金の国ジパング。ご飯と言ったらSUSHI、SASHIMI、TENPURAのWASHOKUじゃないですか。はるばる天の彼方からやってきてこればかりを楽しみにしてきたのに、なんなんですかこの腐った魚は?」
ご飯の上に乗せた切り身を臭いものを扱うように見る少女。
「腐った魚って、だからそういう料理なんだよ。あと朝からそんな贅沢なもの出せるわけないだろ」
「そんな⁉ あなた日本人ですよね? だったらさっさと魚捌いて寿司握って私に献上してくださいよ!」
怒りの勢いでとんだ無茶ぶりを振られた。
「急になんだよ怒り出して? てか、お前日本人なら寿司握れると思ってんの? 日本人は毎日寿司とか食ってると思ってんの?」
「もちろん。そういう人種と聞いてますから」
「馬鹿か?」
「馬鹿……今、馬鹿って言いましたね! 今の言葉はそうとうグサリと来ましたよ!」
「食べないならいいよ食べなくて」
俺が手を付けない缶詰を取ろうと手を伸ばすと、少女は両手で隠して壁を作った。
「やめてください! 私、こっちに来てからまだろくにご飯食べてないんですよ! あなたは夜ご飯食べたかもしれないですけど、私は昨日の昼から何もお腹に入れてないんです!」
「なんだよ、食うのかよ……」
少女の空腹は相当なようで、目に涙を浮かべていた。こうなれば無理やり取ることはできない。
「じゃあさsっさと食えよ」
「……はい」
「文句があるなら今度は下げるぞ」
「食べます。食べさせてください。いただかせていただきます」
少女は缶詰に箸を突っ込んで、切り身を口の中に放り込んだ。
「なかなか、これも、いい、味、ですね」
「だろ? ご飯と一緒に食べるとその美味しさが引き立たされ――」
ふと壁に掛かった時計を見ると、既に登校時刻の五分前を切っていた。せっかく早起きできたというのに、缶詰を食うか食わないかの話で時間を潰してしまった。
「ああ、もうこんな変なことで喋ってたから時間になっちまったじゃんかよぉ!」
この少女も見た目は可愛いし、最初は清楚な佇まいだったけれど、口を開けば余計なことばかりが出てくる。
「文句を言おうがうちにはそれしか無いから、さっさと食っちまえよ。詳しいことは学校から帰ってきてから聞くから」
危ない危ない。危うく会話に没頭して遅刻するところだった。いつも余裕を持って学校には行くが、少し遅れただけで焦燥感に駆られてしまう。
食事をさっさと済ませ、食器をキッチンのシンクに置いた後、急いで自室に戻り制服に着替えた。階段を降り、玄関まで来たところで、少女に一つ警告しておくことができた。
リビングに顔を出して、ブツブツ文句を言いながら食べている少女の背中に声を掛ける。
「なあ、おい」
「はいはい、ちゃんと食べてますよ!」
「別にそういうことじゃなくて。俺がいない間、絶対家から出るなよ。うちの中では好きにしてていいから」
「はいはい、わかりましたよ」
そう言って再び口をもぐもぐと動かし始めた。
いろいろと言い返したいことはあるが、時間はあまりない。少女についてはなんだかよく分からないが、さっさと事情を聞いて、さっさと家から追い出そう。関わるのは今日一日だけでいい。あんなのと一緒にいるなんて御免だ。武器とか言っていたが、それなら別に俺じゃなくても大丈夫だろう。
俺は玄関を出て、早歩きで学校へと向かった。
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