6.ふたつのただいま
「ただいま」
「あ、お帰り、兄さん。連絡もなしに、どこ行ってたの?」
「ああ、ちょっと野暮用でな。帰ってきたのも、そのついでだよ」
妹がジト目で、連絡をしなかったことを、心配をかけさせたことを業腹だと伝えてくる。
それに、帰ってきた理由が野暮用ついでともなると、流石の妹も、呆れ顔で額に手を当てていた。
けれど、それは一旦どうでもいいようで、僕の後ろに人影を見つけると、
「ふうん、珍しい…でもないか。っと、後ろの人は?」
なんて、どう考えても珍しい僕の行動に対してぼそっと漏らしてから、見覚えのない人物について尋ねてくる。
柚子葉は「一度言ってみたかったんだよ、こういうの」だなんて言っているけれど、そう都合よく思い出すかね……。
それに対して廻凛は、僕の隣に並んでから、口を開く。
「こんばんは…じゃないや、おはよう、柚子葉ちゃん。私は八ヶ橋廻凛。よろしくね」
「あ、えっと、ご丁寧にどうも。私、兄さんの妹の神酒柚子葉です。こちらこそ、よろしくお願いします」
廻凛のあいさつに対し、少しおどおどしながらも柚子葉は答える。
確かに今の柚子葉にとって、対人関係というのはあまり得意ではないだろう。僕も人のことが言えた口じゃないけれど、それに、そもそも、相手はあの八ヶ橋廻凛ともあれば、そりゃあ、キョドりもする。いつぞやの僕みたいに。
いや、今はさすがにキョドらないけどね?
朝の心地いい日差しの中、僕と廻凛は家の玄関にたどり着いた。
家と言っても、僕の家。
僕が毎日、帰る場所。
僕と妹の、暮らしの拠点。
「とりあえず、兄さんも廻凛さんも、上がりなよ。こんな時間だけど、学校、行くの?」
「それなんだけど、俺たち二人も、お前も、今日は学校には行けないかもな」
気を遣って中へ誘導する柚子葉だけれど、僕の言葉を聞くとぴたりと足を止めた。
「うーん、兄さんたちが行けないのは、それは多分、諸々の疲れとか、そういうのだとは思うけど、ゆずも?」
「ああ、ゆずもだよ」
「よくわからない」
うーんと唸りながら、顎に手を当てて思案を続ける妹をいったんスルーして、僕はとりあえずリビングのソファーにどっかりと腰掛ける。
ソファーに腰掛けるや否や、一気に体から力が抜けていった。自分が液体なんじゃないかと錯覚するくらいに、身体がソファーに吸い付いていく。気を抜けば、座った矢先に落ちてしまいそうなくらい、力が抜けていた。
タクシー移動で疲れてしまったのかもしれない。確かに、乗り物での移動というのは、ただ座りっぱなしで済むけれど、それは案外疲れる。新幹線にしても、バスにしても。
加えて、移動中に沢山話し込んだし、そもそも自転車で長距離移動して、異能を使って…と体に負荷をかけっぱなしだったから、疲れるのも当然というか、疲れないほうがおかしい。
「あ、ごめんね。わざわざありがと」
「いえ、お構いなく。粗茶ですけど」
廻凛が僕の隣に遠慮がちに腰掛けてしばらくして、柚子葉が気を利かせてお茶を持ってきてくれた。けれど、並んでいるグラスは二つだけ。
「お前は飲まないのか?」
「何言ってんの。この二つはゆずと廻凛さんの分だよ」
「僕の分はないのか!?」
「冗談だって。はい、兄さんの分」
「ったく、変な芝居要らねぇって」
「いいじゃん。妹を心配させた罰だと思いなよ」
「ぐうの音も出ない…」
柚子葉はしてやったりという表情で、後ろ手に隠していたもう一つのグラスをテーブルに並べた。
こういう会話が、行動が、いつものテンション。
何かしら冗談を交えて、くだらないことを話す。それが、僕と妹の当たり前。
妹が十四年間受けていた苦しみの分だけ、僕は妹に幸せを受けてほしいと、そう願っているから。
「本当に仲がいいんだね、二人とも」
八ヶ橋が微笑を湛えながらそう言った。
「当たり前じゃん、兄妹だもん。廻凛さんには悪いけど、兄さんは渡さないよ」
「えー、そんなこと言わないで、ちょっとくらいはいいと思うんだけどなー」
「ふっふん。兄さんはおっぱいの大きい女の人が好きだから、廻凛さんに勝機はないと思うな」
「馬鹿お前! 適当なこと言うなって!」
僕は驚きと焦りのあまり落としそうになったグラスを大事そうに抱えながら、妹に抗議する。
というか、普通に吹き出していた。
間違ってはいないけれど、言うなよ、それ。
「ねー? 巨乳好きの兄さん?」
言いながら妹は、いつの間にか僕の隣に回って来ていて、いつぞやの八ヶ橋のように、自分の胸を僕に近づけてくる。
というか腕に当ててきた。
ふくよかな双丘の間に、僕の右腕が埋もれていく。
暖かく、柔らかい感触。堪能したいところだけれど、それどころじゃない。
僕は急いで自我を取り戻して、掴まれている右腕を解放するべく縦横無尽に腕を振る。
「おい、ゆず離せって! そんなことしてもお前にも僕にも得はないだろ!」
「でもだってそうでしょ! ピクシプのいいね欄、ほとんどちょうどいい大きさの娘ばっかりで、貧乳キャラいないじゃん! それかもしくは、元々は貧乳だけど、盛ってちょうどいい大きさになってる娘ばっかでしょ!」
「ああああー! 聞こえない! 聞こえない! 見たことない!」
いつの間にいいね欄見られてたんだよ、まじで。
これからは絶対に妹の前では携帯を見ない、置きっぱなしにしない、性癖トークをしない、ラノベの後ろに薄い本を隠さない、肝に銘じておこう。
「ええと、八ヶ橋さん…?」
気づけば八ヶ橋は、お手本のようなジト目で、僕のことを軽蔑するように、同時にどこか慈しむような眼差しを向けていた。
周りから青白いオーラというか、敵意のような何かを感じるような。
「いいもん、好きな人に揉んでもらえば大きくなるっていうし? そういうことなら私、さっき揉んでもらったからね」
「…っ! 嘘だよね、兄さん⁉ まだ私の胸も揉んでくれたことないのに、どうしてこんなどこの馬の骨とも知れない女なんかのを!」
「あーっもう! 二人とも頼むから一回僕を自由にしてくれ!」
どうしてこの二人、こんなことで争っているのだろうか。
僕のことで争わないでください。
槇野聖音は、みんなの槇野聖音です。
っていうか、え? 今こいつ、好きな人って言った?
こいつに恋愛感情とかあったの? それとも、こっち側の廻凛の本音であって、本来の八ヶ橋の感情ではないとか?
え、ちょっと、あの、わからない…。
そんな僕の苦悩はつゆ知らず、相変わらず二人は。
「見てなさい、いつかは柚子葉ちゃんより大きなおっぱいになって、槇野くんを手に入れて見せるんだから」
「お戯れを! その頃にはゆずの胸も大きくなっているはずだから、永遠に廻凛さんには勝てません」
意味のない争いを続けていた。その真ん中に、ある一人の男を賭けて。
というか、僕だった。
「ふーん、それ以上大きく、ねえ」
おい八ヶ橋、どうしてそこでしたり顔なんだよ。
言いたいことはわかるけど、しょうもないって。
絶対にこいつ、元に戻った時に恥ずかしさで死ぬんだろうな。
いや、死ぬというか殺されるのは僕だろうけれど。
「あっ…しまった!」
柚子葉は少しフリーズしてから、「負けた…」と床に膝をつき、絶望する。
というか、今の時点だとお前が勝ってるんだけどな。
どういう勝敗かは知らないけれど。
僕が呆れて小さくため息をついていると、柚子葉はこほん、とわざとらしく咳払いをして、僕と廻凛の注目を集めた。
「それで? なんでまた兄さんが女の人を連れて帰ったの? 男ですら連れて帰ってきたことないでしょ」
「切り替え早すぎる…、お前らはいいように喋っただけだからノーダメージだろうけれど、僕はかなりの流れ弾をもらったんだぞ? 少しくらい配慮してくれよ」
本当に、この二人は僕を困らせるために、事前になにか協議をしていたんじゃないかと思ってしまうし、そう思ってしまうと、この先が思いやられて仕方がない。
「うん、わかった。じゃあ私なりの配慮ね」
言いながら、八ヶ橋は僕の右手首を掴む。
そしてそのまま自分の胸に……、
「させねぇよ」
「痛っ」
僕の右手首を掴む八ヶ橋の手を左手で抓り、事故を未然に阻止した。
これに関しては正当防衛だから、僕は悪くない。多分。
「折角のサービスなのになー」
「お前にとってはだろ、それ。僕からしたらサービスというより、押し付けなんだよ」
廻凛は不服そうに唇を尖らせているけれど、それに対して僕は容赦なくありのまま事実を、思うところを述べた。
文字通り、押し付け。我ながら、疲れているのも関わらず意外と頭の回転は衰えていなかった。
閑話休題。
「それで、兄さん。本題だけれど、どうして廻凛さんを連れて帰ったの? そういうことがしたいなら、妹がいない時間に帰ってくればいいのに。延長戦だなんて、疲れてるようで全然そんなことないんだね」
「ってゆずおま…」
「こらこら柚子葉ちゃん」
折角区切りをつけて本題に入れると、僕のモノローグ的にも、柚子葉の発言の冒頭的にも、そう信じ切って、思い込んで、どう説明するかをまた例のごとく考えていたけれど、やっぱり柚子葉は柚子葉らしくて、いつも通りツッコミそうになったところに、意外と言うべきか、廻凛が優しく咎めるように、柚子葉の名前を呼んだ。
これは、期待してもいいのだろうか……?
「折角お兄さんが、閑話休題、だなんて、わかりやすく区切りをつけようと、字面的にも機会を作ってくれたんだから、それを無駄にしちゃいけないよ? このままだと、私たち、槇野くんにおっぱいを揉んでもらえなくなるかもしれない」
「え、それは嫌だ。ごめんなさい……」
「うんうん、わかればいいんだよ。さて、槇野くんの話を聞こう」
よしよしと廻凛が柚子葉の頭をなでなでしていて、それに対して柚子葉は機嫌のいい猫みたいに喉を鳴らしていた。今ここに、一凛の百合の花が咲きました――!
けれど僕は、順当に。
「この流れでおいそれと語り出せる男子高校生が居るか──!」
僕のツッコミはおそらく、毎朝この時間に散歩で目の前の通りを往く方々にも聞こえてしまっただろう。
「それで、兄さん」
妹は流石に少し申し訳なさそうに(とは言っても本当に少しだけ)、俯き加減にもじもじしながら僕に本題を促す。
それに対して僕はため息を吐いて、じとーっとした視線を廻凛に向けた。
それに対する廻凛の視線は、なぜかはわからないけれど、どこか生温かった。
「ああ、わかってるよ。これ以上の茶番は、必要ないよな」
別に僕が改めて言うようなことではないけれど、一応、念のため、効くかは分からないけれど、釘を刺しておく。
ここから始まる話は、そう他人に易々と聞かせていいものではないし、仲間内でも、あまり何度もしていいような話じゃない。
とか言いつつも、タクシーで堂々と話してしまったことについては、まあご愛嬌ってことで。
「なんとなくわかっているとは思うけれど、ゆず。八ヶ橋も、僕たちと同じ、厳密に言えば同じじゃないけれど、似たようなものだって言えば、それで伝わるか?」
僕は説明放棄に近いその説明に苦笑しながらも、妹は顎に手を当てて考え込むと、数秒後。
「ああ、なるほど、そういうことなんだね。そっか、うん、なんとなく、わかった」
少し気まずそうに、柚子葉は廻凛に視線を送る。廻凛の視線は相変わらず生温い。どうしたんださっきから。
「ええと、柚子葉ちゃんの理解力には驚いたけど、私、納得いかないと言うか、腑に落ちないと言うか、聞かされてないことがあるんだけど」
やはり変わらず生温い視線で、廻凛は僕を見る。逆に僕が疑問げに小首を傾げると(何故か柚子葉はそんな僕を見て、うえっ、と嗚咽を漏らした)、廻凛は「あはは」と、自嘲気味に笑った。
「いや、本来の私なら、ここでそれなりに頭を働かせて、槇野くんの説明不足を自身の推察力とか、説明してもらえた部分をつなぎ合わせて事実を組み上げることができるんだけど」
自重気味な苦笑を残したまま、俯き加減に続けた。
「なんか、段々と頭が働かないというか、ぼーっとしてきたんだよね。眠いとか、疲れたーとか、そう言うわけじゃ、ないんだけどさ」
そう言う廻凛は確かに、どことなく力なさげに見えた。肩は落ちているし、少し猫背気味。笑顔にも力がないというか、無理して笑っている感じ。表情を取り繕っているとか、そういう無理ではなくて、笑いたいけれど、笑うだけの、笑顔を作るだけの余力がないような、そんな風に見える。
生温く感じた視線は、単純に疲れでよくわからない感情が宿っていたからかもしれない。
それかもしくは、そこだけは意図しているのか、八ヶ橋廻凛相手には、そのあたりの考察が難しい。
「えっと、だから……そうだね、続きは、あっちの私にお願いしてもいいかな? 私はこれ以上、持ちそうにない、かも」
そう言えばそうだった。あまりに自然に会話をして、慣れてしまったものだから忘れていたけれど、この廻凛は、言うならもう一つの八ヶ橋廻凛であって、本体ではあるけれど、本物だとは言えない。そんなものだった。
だからつまり、廻凛の言葉から察するに、交代の時間が、力なく倒れたきりの八ヶ橋が、お目覚めだということなのだろうか。
僕がそうこう思考を巡らせているうちに、廻凛は船を漕ぐように、かくん、かくんと頭を揺らす。
どうやら、限界はもうすぐそこらしい。
「あはは、ごめんね、槇野くん。じゃあ、あとは、よろしく……」
力なく僕に謝罪をして、本物に役目を託すと、八ヶ橋の体から、正真正銘、力が抜けた。
「うおぉっと⁉︎ 廻凛さん⁉︎」
重力に従って、前傾姿勢で倒れそうになった八ヶ橋を、柚子葉がすんでのところで抱き留めた。
このまま倒れていたら、テーブルにごん、と額を打ち付けていただろうから、妹の働きには感謝でしかない。
目覚めと同時に、快音が響くのはもう勘弁だ。
そのまましばらくすれば起きるだろうとか思っていたけれど、思っていたより、というか、あり得ないほどに早く、八ヶ橋は起き上がった。
言うなら、倒れて柚子葉に抱き留められて、一秒と経たないうちに、すっと起き上がり、背筋をぴん、と伸ばしてソファーに座り直した。
まるで、何事もなかったように。けれどそれはあくまで、姿勢だけ。
顔は耳の先まで、真っ赤だった。
ぱんっ!
結局のところ、目覚めと同時ではなかったけれど、快音は槇野家のリビングに響き渡った。
何故か柚子葉は「はえ〜」と感心したように八ヶ橋のお目覚めビンタを見ていたけれど、しばかれた僕はやはりと言うべきか、抗議の目を向けていた。
「またか! なんなんだよ、本当!」
こいつ、絶対に毎朝、目覚まし時計ぶん殴ってるだろ。
目覚めの挨拶代わりにビンタするJKとか、流石にご遠慮申し上げたい。
添い寝とかできんやん、うん。
「いえ、目覚まし時計だと思ってしまって」
本当に殴ってた……。
僕は相も変わらず、その言葉にも抗議する。
その、わーわーという会話の内容を、ダイジェストでお伝えすると。
「いい? 槇野くん。ここ二、三時間の記憶を消しなさい」
「目覚めて早々無茶振りはやめろよ。無理だって、そんなの。良くも悪くも、覚えてるよ」
そう、色々と。
「そう……、仕方ないわね。なら、どうにかして、消す手伝いを私がしてあげるしかないということね」
ぎょっと目を剥く僕を他所に、八ヶ橋はソファーに座る僕に馬乗りするような体勢を取って、至近距離で僕を見つめる。
互いの呼吸が感じられる距離。そんな中僕は、恐らく場違いな感想を抱いていた。
長い睫毛で縁取られた眼の真ん中には、濁りを感じさせない大きく見開かれた灰色の瞳。毛穴どこだ? と思わざるを得ないくらい、きめ細やかで、質感の良い、真っ白な肌。すっと通った鼻筋に、恐らく化粧はしていないはずなのに、紅く艶かしい潤いを溜めた唇。
俗に言う美少女表現というやつを、僕は心の中で飲み込んでいた。そして八ヶ橋は、何故か、どこか満足げに、そして同時に恥ずかしげに、僕から距離を取る──と見せかけて。
「なら、物理的に記憶を消すしか、ないわね」
覚悟を決めた眼で、八ヶ橋は細く華奢な右手を挙げる。
ここでもまた場違いに、美しさに目が眩んだ僕だけれど、一瞬で理性を取り戻して(というか自己防衛本能で呼び戻して)、眼前に迫りつつある謂れなき暴力に待ったをかける。
「ま、待て八ヶ橋。早まるな──」
けれど、それはもう遅かったようで、僕の口が閉じるより先に、八ヶ橋の右手は弧を描き、綺麗な挙動で、僕の左頬を吹き飛ばした。
「どの辺がダイジェストなのよ、それ。あなたの私情、交えすぎなんじゃないかしら」
本物に戻った八ヶ橋が、あからさまなため息を吐いて、僕のモノローグに毒を吐く。
独白だけに。
「ああ、兄さん、そういうのいいから」
何故かは分からないけれど、さっきまで僕に甘々だった柚子葉も、すんと澄ましてスマホを弄っていた。
え、なに? あれなの? 廻凛と柚子葉で共鳴でもしてんの? というよりは、柚子葉って廻凛もとい八ヶ橋に完全に左右されてんの? 奴隷か何かなの?
そんなことを考えていたら、正面と右の二方向から鋭い視線を感じて、僕はしゅんと肩を竦める。
気を紛らわせようと、机の上にあったグラスを口元に運ぶけれど、喉は潤わない。何を隠そう、グラスは空だったのだ――!
「「はあ」」
やれ、居づらいことこの上ない。
「心配しなくていいわ。槇野くん。良くも悪くも、私の記憶はばっちり残っているわ」
あなたの記憶は消えたかもしれないけれど、と加えた。
いや、消えたとしたらそれ、お前のせいだからな。
「廻凛さん、それって」
さっきまで我関せず、といった感じでスマホに意識を向けていた柚子葉が、唐突に八ヶ橋に呼び掛けた。
「わざとってわけじゃ、ないんですよね?」
どことなく遠慮がちに、柚子葉は自分が感じ得た疑問を、率直に伝える。
それは僕も、最初は感じたような疑問で、事実何度か、直接訊いたこともある。
けれど、柚子葉は、訊いている相手が違う。
僕が訊いたのは、偽物の方。
柚子葉が訊いているのは、本物の方。
正直、今の時点で、柚子葉からしてみれば、どっちが本物で、どっちが偽物なのかについて、判断がついているかどうかは、わかっていない。
それもそのはずで、柚子葉の知る八ヶ橋廻凛という人物は、さっきまで相対していた物腰柔らかな人物で、目の前にいる険のある人物は、あくまで初対面。言うなれば、知らない人。
確かに偽物の方も初対面は初対面だけれど、という話は置いておいて、要するに、真実を知らないと、二択という二分の一の話でも、得てして困惑するものである。
それに対して八ヶ橋は、迷いなく、
「いいえ。わざとじゃないわ」
と、ぴしゃりと言い切った。
「わざとだったら、ああして恥ずかしがったりはしないもの」
あ、やっぱあれ、そういうことだったんだ。
僕は、入れ替わって直後の八ヶ橋を思い出し、勝手にそう納得した。
「んぐふぅ!」
そんな僕の脇腹に、八ヶ橋の肘が突き刺さったことを付け加えておく。
「そう、なんだ……、こんな感じなんだね、偽生って」
言葉でこそ納得した風だけれど、実際の柚子葉は晴れない表情をしていた。
それも無理はない。なぜなら柚子葉は、本当に偽生を理解しているわけではないからだ。
偽生してこそいるものの、自分にその実感がない。今の自分は正真正銘の自分であって、本物とか、偽物とか、そういう区別がつかない。
今、僕の目の前を生きている柚子葉は、偽生している。つまり、偽物の槇野柚子葉だ。それは紛れもない事実で──けれど、僕たち兄妹には、実感できない事実でもあった。
そうやって、当惑する柚子葉に対して、今度は逆に八ヶ橋が疑問を呈する。
「あなたも、偽生をしているのよね? なのにどうして、そういう疑問を抱くのかしら。あなたも私も、槇野くんも、その当事者なのだから確かに、理解し難い部分は多いわ。だけど、実感できない、なんてことはないと思うのだけれど」
あくまで、八ヶ橋が自ら感じたこと、実感したことを根拠に、八ヶ橋は疑問を呈した。
それに答えたのは、妹ではなくて、僕だった。
「確かに、僕も柚子葉も、偽生者だよ。それは間違いない、紛うことなき事実だ。だけれど、その事実に、僕たち二人は実感が伴ってないんだ」
どうして? と小首を傾げる八ヶ橋に、僕は説明するようにこう続けた。
「八ヶ橋、お前は今みたいに、二つの人格、つまり本物も偽物も共存してるっていうか、その区別がつくだろ? でも僕たち兄妹は、その区別がつかないんだ。厳密に言えば、柚子葉は区別がつかなくて、僕は区別がないんだよ」
その言葉に、八ヶ橋ははっとした表情を見せる。そして、顎に手を当てて、思案げに、今の話から導いた持論を展開していく。
さっき、もう一人の自分から、偽物の自分から託されたことを、遂行していく。
「つまり、それって、あなたたち兄妹には、本物と偽物の区別がないってことなのかしら? それも、槇野くん、あなたの言い分から、付け加えからするに、妹さんの方──柚子葉さんは、区別がないのではなくて、区別ができないって、そういうことなのかしら?」
さすが八ヶ橋だ。引き継いだ情報と、僕から加えられた情報を掛け合わせて、整理して、含まれた事実を繙いていく。
そしてその事実は、僕が意図していた事実そのものだ。
僕は付け加えるように、補足説明を、あくまで八ヶ橋の理解を助けるための追加をする。
「ああ、そうだよ。大凡、九分九厘、その通りで合ってる。僕は見てのとおり、僕のままだった。偽生しても、僕の人格は変わらなかったよ。でもその代わりと言っていいのかは分からないけれど、柚子葉が、人格を失ったんだ。でも、失ったことを、柚子葉本人は気づいていない。どうしてかはわからないけれど、それは多分、気づいていないんじゃなくて、気づけなかったんだ。お前が言った通り、区別がつけられない。知っている自分が今の自分だけだから、今の自分が何なのかを、主観では捉えられない。強いて言うなら、自分は自分だと、それしか分からないんだ」
「それは俗に言う、記憶喪失のような、そういうものだと?」
「ああ、その通りだよ。柚子葉は自分がこうなる前を知らない。というか、こうなってからしばらくの記憶も、残っていないんだよ。なんて言うのかな、偽生してから三日間くらいだったとは思うけれど、そのあたりの記憶が残っていないというか、そもそも、記憶していないんだと、僕は思うよ。パソコンで例えるなら、メモリは動作しているけれど、ストレージは機能していない。あるいは、三日分、確かにそこに記憶はあったけれど、何かの拍子に消去してしまったとか、そういう憶測しか、僕にはできないんだよ」
それも当然のことだ。当事者がそのことを覚えていないのに、他人が覚えているはずは、知っているはずはない。それに、僕が柚子葉を知ったのは、僕のもとに来てすぐのこと──偽生する直前のことだったから、それ以前の柚子葉を、僕は知らない。
このことについてはついさっき、タクシーで話すまいと、まだ言えないと濁らせた部分だから、八ヶ橋には理解できないかもしれない。だからと言って、僕はまだ、このことを話すわけにはいかない。何故かと問われたら、逆に僕も、何故今このタイミングで話す必要があるのかと、そう問いたい。
だって、この事を話すことで、八ヶ橋に不利益を齎(もたら)さないとは、限らないだろ?
「そう……、そうだったのね。柚子葉さんは……」
恐らく、はっきりと自覚している自分と違うことに、違和感を覚えて、困惑しているのだろう。けれど、それも無理はない。どちらかと言えば、八ヶ橋の方が、正しい例、本来あるべき偽生の形。僕たち兄妹は、イレギュラーの塊。
それというのも、イレギュラーをイレギュラーしたような、あの男がややこしいことをしたからで、そのややこしいことというのも、言い換えてしまえば人助けだけれど、それはそれとして。
「だからまあ、なんだ。柚子葉について、僕については、あまり気にしない方が、八ヶ橋のためになるっていうか……、八ヶ橋にとって、楽な選択肢になるから──」
僕が言いかけたところで、八ヶ橋が口を挟む。
「あなたのためにも、柚子葉さんのためにもなるって、そういうことよね」
はっきりと、僕の目を真っすぐと見据えて、理解を示すというよりは、自分の意見のように言った。
「……まあ、そんなところだな。悪い、有耶無耶で」
僕は苦笑しながら謝罪の意を示すと、八ヶ橋もまた苦笑しながら、
「いいのよ。難しい話だもの。それに、これ以上こじらせて、私の解決が遠のいてしまったりしたら、私にとっても、あなたにとっても損になるのでしょう? なら、私は構わないわ。それに、あなたはいつか話すと、そう私に──もう一人の私に約束したのだし、それを果たすまでは待ってあげる。善意に感謝することね」
いつも通りの大きな態度に、僕は思わずはあ、とため息をつく。
そのため息は安堵からきたものなのか、呆れからきたものなのか、それは定かではないけれど、
「私に言わせてみれば、それは好意によるものね。ごめんなさい。まだ早いわ」
「……! また勝手に他人のモノローグを解釈しやがって! なんだよまだ早いって、次期さえ来ればオッケー出るのかよ⁉」
「そうね……、私の問題がどうにかなれば、考えてあげてもいいわ」
僕は思わず目を瞬(しばたた)かせてしまったけれど、それを見た八ヶ橋は満足げに笑うと、
「ええ、友達にね」
なんて蠱惑的に笑うものだから、その答えの内容なんてどうでも良くなった。
友達って、友達だよな……? 将来的には友達じゃなくなるタイプのあれ、だよな……?
なんて間抜けにも妄想していた僕の思考を中断させたのは、八ヶ橋ではなく、妹で。
「そっちか──!」
だなんて、そっちってどっちだ? とか聞きたくなるようなツッコミをかましてきた。
「おい、柚子葉! 今までだんまりだったのに、急に元気に首突っ込むなよ! しかもタイミング!」
「えへへ、バッチリでしょ?」
柚子葉はにへらっと可愛らしく笑いながら、指をピンと立ててピースサインを作る。
そのピースサインを八ヶ橋にも押し付けるようにするものだから、さすがの八ヶ橋も「え、ええ……」と困惑しながらもピースサインを作るけれど、笑顔は張り付けたようだし、指もしなっていて、全体的に締まりがない。
というか、こいつ、八ヶ橋がチェンジしてること忘れてないよな──?
八ヶ橋のノリの悪さを見て、軽く「う~ん?」と唸る柚子葉だったけれど、数秒後、はっと気づいた顔をして、段々と血の気が引いて行って……、
「ご、ごめんなさい」
今にも泣きだしそうな声で、そう言った。
八ヶ橋さん、この妹の泣き顔に免じて、今は許してください。
「じゃあ、代わりに」
「いたいいたいいたいいたいいたい」
八ヶ橋は、どこか嬉しそうに僕の右腿を抓っていた。
こいつの感情、いよいよわからん――!
八ヶ橋廻凛は嘘がつけない The Lie of 6th Sense 結月虹乃 @niina_217
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