5.嘘はいけない

 じっとりと手汗で濡れた手をズボンで拭いて、落ち着こうとする。

 けれど、この八ヶ橋相手だと妙に恥ずかしくて、変に焦ってしまって、拭けど拭けど手汗は消えない。

 本来の八ヶ橋なら、それなりの罵倒で、罵詈雑言で僕を捲し立てるけれど、この八ヶ橋はそんなことしない。

 けれど逆に、今の僕にとっては、それが一周回って不安になってしまう要素なのだった。

 性質が真逆になってしまった八ヶ橋廻凛。

 偽物の八ヶ橋廻凛。

「ごめんね、私から繋いだようなものなのに、最後にはこんなこと言っちゃって。意地悪だよね、あはは」

 微苦笑を浮かべて、両手を胸の前で合わせて、そう言った。

 自重するように、自分の行いを、別に咎められるようなことでもないことを、謝罪していた。

 別に僕は八ヶ橋に対してそういう負の感情というか、それこそ今八ヶ橋が言った言葉を借りるなら「お前から繋いできただろうが!」とか、そういう言葉を投げかけるつもりは一切ないし、それなのに八ヶ橋が心の底から謝ってきて、最後には自分を嘲笑っていて、本当に居た堪れなかった。

「いいんだよ、別に。必要なことだったし、お前は何も悪くないから、謝ることはないし、悪く思わなくてもいいんだって」

 僕はそうやって、薄っぺらな言葉で自分を納得させることしか、できなかった。


 それでは、解説に移ろう。

 今まで散々、当たり前のように吐いていた、一般教養では絶対に知り得ない、かといってどこかの誰かに聞いても、そいつがそれを持っていない限り答えてくれないような、下手をすれば持っていても答えてくれないような、そんな事柄の解説。

 僕と八ヶ橋、加えるなら輪廻も持っているもの。

「なあ八ヶ橋、お前さ、変な声が聞こえたりとか、今までに逢ったよな」

 僕はあえて、「逢ったよな」と、逢った前提で問いを投げかける。

「え、ああ、うん、あったよ。ほら、さっきの私の過去の話の中にも、幾度どなくってほどではないけど、そういう経験は、確かにあったね」

「なら、それが異能だよ」

「えっ?」

 さすがに簡易的すぎる説明というか、無理やり当てつけたような説明だけれど、ここから切り込んで、まずは八ヶ橋について整理して、その上で、僕の話を、輪廻の話をすればいい。

 その方が多分、ある程度のわかりやすさを保証できる気がするから。

「説明っぽくなるのは嫌だから、もう少しだけ、八ヶ橋の経験に当てはめて、解説すると、さっき、あの家の中で、僕と手を繋いだ時」

「ああ、部屋が暗いはずなのにライトを消しても明るかったり、過去の映像が映し出されてたとか、それのこと?」

「いや、合ってはいるんだけれど、それは僕の話だから、ちょっと違うな。今は、お前の話だよ。ほら、その過去を見ていた時、お前、両親の会話というか、言葉。それが聞こえてたんだろ?」

 確かに、八ヶ橋はあの時、両親の会話を聞きながら、聞こえた単語をぶつぶつと呟いていたはずだ。

「えーっと、ああ、あの時。確かに聞こえてたね、ってあれ? その言い方だと、君は聞こえてなかったって、そういうことなのかな」

「ああ、そうだよ、当たり。僕にはあの時、音は聞こえてなかったよ」

 あの過去に関わる音は、と付け加える。

「だからつまり、八ヶ橋、お前の異能は、聴覚だ」

 あまりにばっさりと、半ば無理やりとも思える言い方だけれど、僕はそう断言して、八ヶ橋に伝える。

「お前には音にならない音が聞こえるんだ、例えばなんだろうな、心の声とか、そういうのだと思うけれど、僕はあまりよくわからない。わかるのは、八ヶ橋の場合、聴覚が異能に繋がっているってことくらい」

「ふうん、なるほどって言いたいことだけれど、なんとなく、そうだろうなって気はしてたんだよね」

「えっ、そうなのか?」

「うん。とは言っても、本当に、なんとなくだよ。私の耳、おかしいのかなってくらい。普通じゃないなって、そう思うことが何度かあったってくらい」

「へえ、そうだったんだ。それならまあ、少しは理解というか、咀嚼しやすいのかな」

「まあ、本当に少しだけね。驚きが薄まったってくらいで、納得しやすかったって、それだけだよ」

「なら、このままもう少し話を続けるけれど、八ヶ橋。お前の方から質問というか、そういう類のことはあるか? いや、僕と輪廻のことは置いておいて、自分に関わることで」

 というのはシンプルに、僕がどこから説明すればいいのか、解説を続ければいいのかが正直分からなくなったから、頭脳明晰、聡明な八ヶ橋の導に沿っていけば、迷うことはなさそうだと、そう思ったが故の提案。

「うーん、そうだね。じゃあ、あれかな、私の、これ」

そう言って八ヶ橋は、自分の右胸に手を当てる。

「心臓、こっちのが動いてる」

「ああ、そっか」

 半ば僕が忘れかけていた──当たり前になりつつあったことを、八ヶ橋は遠回しに疑問として伝えてくる。

「なに、そのリアクション。信じてないの?」

血色のいい頬を膨らませて、なんだかよく分からない不満を伝えてくる。

「いやいやいや、そんなことないって、信じてるに決まってんじゃん、だってほら、僕も同じようなもんだからさ」

 何故か早口で断ってしまう僕に対して、八ヶ橋は。

「うーん、仕方ない、もう一人の私には内緒だからね?」

「もう一人のお前に内緒にできることなんてあるのか⁈」

「えいっ!」

「ま、待て! 引っ張るな! 僕の左腕をどこに持っていくつもりだ!」

「いいから力を抜いて! 力を抜くか、腕を抜かれるか、選ばせてあげるから!」

「その口調でおぞましいこと言うな! 変な気分になるだろ! ろくにツッコめなくなる!」

 八ヶ橋は僕の左手を引っ張り──自分の右胸に押し付けた。

「あっ」

 多分、僕の手のひら越しに、触覚を通して、八ヶ橋の右側の心臓の鼓動が伝わってきているはずだけれど、僕はそんなことよりも。

「どう? 柔らかい?」

「お前まで本来の目的を見失ってどうする! 本末転倒だぞ!」

「私からしたら、覆水盆に返らずだからもう少し堪能させてあげなくもないんだけどな」

「何が目的なんだよ、ほんとに! このままだと僕の理性が吹っ飛ぶぞ!」

「ほんと? いざそう言われると悪い気はしないな、身を挺した甲斐があるよ」

「いやだから、その挺し方は間違ってるっていうか、今する事じゃないっていうか、僕にすることじゃないって、絶対!」

「もー、素直じゃないなー。ちゃんと感想言ってくれるまで離さないし、次また抵抗するようなら右手も同じようにするよ?」

「感想ってどっちのですか!?」

「はい、右手もーらい」

「あっ!」

 気づいた時には、もう。

 僕の両手は、八ヶ橋の両胸にがっしりと押し付けられていた。

 不可抗力だけれど。

「で、どう? 感想は?」

「あ、ああ。確かに、左の心臓は止まってて、右の心臓が動いてるよ」

「違う、そんなのどうでもいい」

「どうでもよくなっちゃった!?」

 僕は両手を解放してもらうために、小声で、

「柔らかかったです」

 と感想を伝えておいた。

「うん、そっか」

 僕の両手を離した八ヶ橋は。

「それなら、よかった」

 頬を赤らめて、僕から目線を逸らして、そう呟いた。

 それで、結局。

「私の心臓、ううん、お母さんの心臓が、今は私の体を生かしているってことで、それでいいんだよね」

「あ、ああ、そうだな、それで間違い無いと思う」

「いい加減引きずるのやめて。私の方が恥ずかしいはずなんだから」

「そんなこと言われたって、並大抵の男子なら、それも僕みたいなタイプなら引きずるというか根に持つというか、そう簡単に吹っ切れることじゃないんだよ」

 それに、恥ずかしいのならわざわざそんなことをしなければいいものを。

「そりゃもちろん、恥ずかしいよ。でもなんていうのかな、今までのお詫び?じゃないけど、多分、そんな感じ」

「お詫び?なんだよそりゃ。僕は特に、お前から被害を受けたとか、そういった覚えはないぞ」

 というのは建前で、本音的には割と何回かしっかりと精神的ダメージを喰らわされている。今の八ヶ橋と話しているだけで、そのダメージが癒されるくらい。

「そんなこと言って。見え見えというか、聞こえ聞こえなんだからね。私の前で嘘なんてつけると思ったら、思い上がりもいいところだよ」

「思い上がりって…。嫌でも実際、別に詫びるほどのものじゃないって」

「え、何、マゾヒストなの?」

「違う! 違います! 僕の性癖はノーマルだよ!」

「だったら傷つくでしょ…」

「うん、まあ…」

 ああ、そうだ、忘れていた。

 今の八ヶ橋には、嘘も建前も通用しない。

 彼女に聞こえるのは、本音だけ。

 バレバレな嘘も、見え透けた建前も、彼女の前では無意味となる。

「だから、そのお詫びだよ。いつまたもう一個の私が出てくるかわからないし、いつまた私が出てこられるかわからないから、今のうちに保険を作っておきたいくらい」

「随分と殊勝なこと考えてるみたいだけれど、そこまでしなくていいよ。というか、これ以上の保険ってなると嫌な予感しかしないし」

「妊娠しない程度にお願いします」

「ほらやっぱり!」

 どう足掻いても、根底的な部分は八ヶ橋らしい。

「また話し逸らしちゃった、なんだっけ」

「お前の心臓が二つあるってことだよ」

「ああ、そうだったね、そんな話」

このままだと、言わなきゃいけないことを言いそびれたままもう一人にバトンタッチすることになるかもしれないな。

 まあ別に、どっちの八ヶ橋も理解力は変わらないし、頭脳明晰なのも、眉目秀麗なのも変わらない。それに、おそらく記憶が共有されないというわけでもなさそうだ。

 だったらどっちに説明しようと変わらないけれど、僕の私情を交えるなら、こっちの八ヶ橋なら精神的苦痛を与えてくることが少ない(あくまで少ないだけで、時折混ぜてくるあたりからも八ヶ橋廻凛という少女の本質が見えている)から、こっちの方が話していて楽だというのは、確かにある。

「嫌だなあ、褒めても何も出ないよ?」

「人のモノローグまで丸聴こえなのかよ!? これ僕、思考を止めるしか方法ないじゃん!」

 あと、何も出ないと言いつつ僕の方に体を向けて胸を強調するのはやめてほしい。

「あはは、素直だね」

「畜生! 誰か僕の脳に麻酔してくれ!」

閑話休題。

「それで結局、私の心臓は二つあって、今動いているのは右側の、恐らく、君が見せてくれた過去から推察するところの」

「ああ、お前のお母さんの心臓、ってことだよ」

 医学的に、というかそもそも常識的に、こんなことはあり得ない。

 あり得ないと言うと語弊があるかもしれないけれど、おおよそこんな話、誰かにしたところで馬鹿にされるだけだし、話しているこちらとしても、何を言っているんだろう、くらいの気持ちにはなる。

 八ヶ橋の母親の心臓が、八ヶ橋廻凛の心臓になる。

 ぱっと聞けばそれは、心臓移植に似たものだと思うかもしれない。

 心臓移植、と言えば確かに、それは医学としてあり得る話で、今もどこかで誰かの命を救うものだけれど、これは厳密には心臓移植とは違う。

 厳密にどころか、根底から違う。

 そもそも心臓移植は、脳死判定等でドナーになった人の心臓を、病で心臓を取り換える他ない患者に移植することで、患者を生かすもの。当然ながらドナーは心臓を失い、患者は自分の心臓の代わりにドナーの心臓を用いることで、生かされる。

 だが、この場合。この場合は、心臓が二つある。自分の心臓を失うことなく、もう一つ、心臓を手に入れること。

 それがどういうことなのか、詳しく僕は知っていない。

 知っているのは、八ヶ橋の父親、即ちそれは八ヶ橋輪廻。

 僕が生きている理由でもあり、僕の妹が生きている理由でもある。

 僕たちがこうなった理由でもあり、廻凛がこうなった理由でもある、そんな男。

「不思議だよね。どういう仕組みで、私の体の中に心臓が二つあって、片方動く代わりに片方止まる、なんてことが起こるんだろ」

「そういうことを考え始めたら、多分いずれ、悪の研究組織とかそういうのに捕まることになるだろうから、絶対にやめておいたほうがいいよ」

「あはは、こんな時にでも冗談が言える君ってすごいね。神経が図太いんだ」

「褒めてるのか貶してるのか、どっちなんだ!?」

「うーん、半々ってとこかな」

「余計にリアクションしづらい…」

「てことはさ、君もそうなの?」

「ん? ああ、まあ、一応はそうだよ」

「だとしたら、君も、もう一人いるってことだよね?」

「それなんだけど」

 僕は自分の両棟に手を当てて、改めて確認する。

 確認するまでもなく、あの日からずっとこうなのだから、疑いようも、変えようもないことだけれど。

「僕は両方とも、常に動いてるんだよ」

「それって…?」

「ああ、いや、これもすごくややこしい話になるというか、なんていうか。そんなにさらっと話せることじゃないからさ。先に八ヶ橋に直接かかわることを色々説明というか、解消というか。そうしておいた方が、僕たちの話も理解しやすいだろうし、僕としても説明しやすいかなー、なんて思うんだけど」

 意図せず長台詞で、早口気味に喋ってしまったけれど、言い訳してしまったけれど、要するに。

 僕にはまだ、このことを誰かに話すだけの勇気も、覚悟もなかった、それだけ。

「うん、そっか。じゃあまた今度、君が話す気分になったら、話せる気分になったら聞こうかな。今無理に聞いても、私の印象が悪くなるだろうし」

「そうしてくれると助かるよ。悪い」

「ううん、いいんだよ、別に。そもそも、私の問題を君に解決というか解消というか、どうにかしてもらおうとしてるんだから、私の方が、きっと悪いことしてる」

「そんなことないよ、ただ、僕は――」

「だとしたら、どうして君は、私に関わろうとしてくれるの?」

「そんなの、ただの成り行きだよ」

「嘘、そんなわけない。さっき、お父さんと話してたでしょ」

 ああ、確かに話してしまった。

 その会話内容を聞けば、誰でも、僕が八ヶ橋に接触したのが、ただの成り行きではないことくらい、分かってしまう。

「私のこと、私がこうなっていること、君は知っていたんだよね」

 その通りだ。事前に知って、その上で、僕は八ヶ橋に接触する覚悟をした。

「こんなややこしいことになるって分かっていたかは知らないけれど、それでも、私を助けようとしてくれている」

 違う、そんな殊勝なことじゃない。助けようだなんて、僕は──

「ありがとう、槇野くん。まだ感謝するには早いかもしれないけど」

 もうこれ以上、僕に嘘をつかせないでくれ。

「私は今の時点で、君に感謝してるんだよ」

「馬鹿かお前は!」

 怒鳴りつけてしまった。

「僕はお前を助けようだなんて、そんな殊勝なこと、考えてないんだよ! 僕はただ、自分が、そして妹が助かればいいってそう思ってるだけなんだ! あの男に、娘を“助けて”くれたら、お前ら二人も助かるって、そう言われたから! 僕は…っ」

 ああ、何を言っているんだろう。

 途中から、八ヶ橋の顔なんて、まともに見れていない。ただ、衝動に任せて、ただ叫んでしまっただけ。

 思っていること、思っていないことを、吐露してしまっただけ。

 無理に声に出さなくても、八ヶ橋なら聴こえていたであろうことを、わざわざ喋っただけ。

 それなのに、僕は──。

「…?」

 突然、目の前が暗くなった。

 もちろん、時間的にまだ暗いから、元々暗いというのはあるけれど、それでも、タクシーの中だし、ある程度の視界は確保されている。というか、僕はそもそも暗闇に強い。

 そんな僕の視界が暗くなると言えば、目蓋を閉じるか、目隠しをされるかの、どちらか。

 加えて言えば、顔全体が柔らかい感触を得ている。

 何かに包まれるような──とまではいかずとも、温かみを感じる柔らかさ。

「そっか、ごめんね、変なこと言って」

 その声は、僕の上から聞こえた。

「でもさ、それでも結局、君は私を助けようとしてくれていることには、間違いないし」

 僕とは対照的で、呟くような、それくらいの声量。

 ぼーっとしていたら聞き逃しそうなくらい、小さいけれど、澄んだ声。

「それに、私は君がどう思ってたって、感謝するんだよ。私が独りで泣いてた時、抱きしめてくれた。私が眠っちゃって、そのままじゃ先生に見つかって怒られそうになったから、わざわざ抱えて運び出してくれた。私が意地悪言っても、君は見捨てないでくれた。私のために、君は動いてくれたんだよ。それだけで、私は感謝したいって、そう思うの」

 目を開けているのに、相変わらず何も見えない。だから僕は、ただその声に耳を傾けるほかなかった。

 聞き逃してしまうと、きっと後味が悪いだろうし、僕は八ヶ橋と違って、音以外のものを聴くことはできない。だから、今は聞かなければいけない。

「私さ、こんなんだから──って、もう一人の方ね。友達とか、そういうの。ご存知の通りほとんどいなくて。家に帰っても独りでさ。慣れたつもりでも、寂しかったんだ。このまま私、ずっと独りなのかなーって、考えちゃうと夜中にたまーに泣いてたりもした。それくらい、独りって悲しいんだよ。でもさ、そこに槇野くんが現れてきてくれて、今私がしてるみたいに抱きしめてくれた時、どれだけ嬉しかったか、わかんないくらい。そりゃあ、びっくりしたよ? 多分、突き飛ばそうとか、一瞬は考えたと思うの。でも私は、そのまま抱きしめてもらうことを選んだ。君の腕の中で、泣くことを選んだ。今思えば、どうしてだろって思うの。でもね、今私は君を抱きしめながら、やっとこれで一つ、恩返しができたんじゃないかなって思って、少し嬉しい。散々お詫びだなんだって言ってたけど、やっと一つ目の恩返し。えへへ、少し恥ずかしいけどさ、君もこれに耐えてたのかなって思うと、やっぱり君って、すごいよ」

 全部きっと、八ヶ橋廻凛という少女の本音なのだろう。

 気高く、独りであることをものともせず、自分が親なら誇りに思えるくらい、立派な少女。

 けれど、結局は少女だったということだろう。一度失ったものは、取り戻せない。だけど、それに代わるものを得ることはできる。それを知っていながら、得ようとしなかった。

 その結果、気づけば孤独に泣いていたけれど、どうすればいいのかが分からなくて。

 今まで引きずり続けて、ついには決壊した。

 僕は別に、あのタイミングを狙ったとか、そんなことは一切ない。弱みに漬け込もうとか、そんなやましいことは、誓ってないと言える。

 だとしたら、何故僕は。

 あの時、八ヶ橋を抱きしめることができたのだろうか。

 八ヶ橋が突き飛ばさなかったことを疑問に思ったように、僕が八ヶ橋を抱きしめたことを疑問に思う。

 お互いに、らしくないことをしていたはずなのに。

 僕も八ヶ橋も、どこか安心して、身を預けて、同時に、感情も預けていた。

 そして、今も。

 身も心も預ける、だなんて表現は格好つけているようだけれど、おおよそそれに近いと思う。

 気づけば僕も、泣いていた。

「うう〜、生暖かい…」

「あ、ご、ごめん!」

 勢いよく両手を突き出して、八ヶ橋から距離を取る。

 と、取り終えてから気づいたけれど、押し飛ばしてしまったような…。

「う、ううん! こちらこそ! ごめんね、いきなり」

 仰け反ってすらいなかった。体幹、どうなってんの。

 大抵、こういうことがあるとしばらく気まずい雰囲気になって、沈黙が続いて、家に着いてもろくに挨拶も交わせなくて、そのままずるずると…というのが鉄板というか、あるある。

 だから僕も、あえて口を開こうとは思えないし、逆に言えば、口を開いても、糸口を見出せる気がしなかった。

 けれど、八ヶ橋はそうじゃないようで。

「私さ、色々と落ち着いたら、君に言いたいことができちゃった」

「なんだよそれ、罵倒とか? それなら別に、普段から言ってるだろ」

「実は君って私よりも意地悪だったりしない?」

「冗談だよ、じゃああれか、改めてお礼というか、感謝というか」

「あー、うん、それもあるのはあるけど、できれば日頃から感謝は伝えたいな」

「いよいよ候補がないな、僕はお手上げだよ」

「まあ、その時になればいずれ言うからさ。言わせて、もらうからさ」

「言わせて…なんだって?」

 最後の最後。小声すぎて、上手く聞き取れなかった。

 まあ、その時が来れば、いずれ。

「ううん、なんでもない! いやでも、このまま辛気臭いのは嫌だからさ、ええと、その、お話の続き、してもらえると助かるかな」

「そうだな、って言われても、正直何を話せばいいのか、全く分からないと言うか、全部飛んでしまった感じがあるんだけれど…」

「あー、うん、そうだね、確かに。私も実はどこまで話したか、よく覚えてないや」

 というわけで、シンキングタイム。

 ものの数秒だけれど、お互い脳味噌の中をかき回して、記憶を探る。

 結果、口を開いたのは。

「なあ八ヶ橋、今更だけど、本当にそれ、わざとじゃないんだよな」

「嫌だなあ、いきなり。わざとじゃないよ、ほんと。だとしたら私、ここまでボロなく演技してるの、凄すぎない? 女優志望でもここまでできないって」

「だよなあ。まあ、それは実際、ただの前置きなわけで」

「もっとマシな前置きなかったの!?」

「さっきさ、僕ももう一人いるんじゃないかって、そう言ってたじゃん」

「あ、うん。聞いたね」

「それの答えというか、まあ真相。実際問題、僕はお前みたいに、人格がもう一個生まれたりとか、そういうのはないんだ。だけど、代わりに、なのかな。妹が、そうなってる」

 さっきは語りたくないと思って口を噤んだけれど、今なら、言える気がしたから。

 言えるところまで、言ってしまおう。

「妹さん、名前は?」

「神酒柚子葉(みきゆずは)」

「えっと…名字、違うの?」

「うん、違うよ。あいつは確かに僕の妹だけれど、親が違うから」

「ってことは、つまり…」

 僕の家庭は、わりと複雑だ。

 僕の両親は離婚して、僕は母親に引き取られることになった。

 だから元々、僕の名字も神酒だったけれど、離婚後に母親の旧姓である槇野に戻った。

 それで、神酒の苗字を持つ父親は再婚して、柚子葉を生む。

 つまり僕と柚子葉は、異母兄妹。

 ならどうして、僕がこんなにも妹を気にかけているのかと言えば、一緒に住んでいるから。

 かと言って、両親とは住んでいない。

 僕と柚子葉の、二人暮らし。

「なるほど、ほんとにややこしい…」

「ああ、ほんとに。僕も何が何だか、当分わかんなかったくらいだよ。今こうして説明できているのが奇跡なくらいだし、そもそも説明できてる自信もないな」

「ギリギリ説明にはなっているかもだけど、まだまだ足りないかな。いや、説明力じゃなくて、情報量がね」

 それなら、柚子葉の両親はどうなったのかというと、また離婚している。

 柚子葉は父親に引き取られ、しばらくは二人で暮らしていた、けれど。

 その中で柚子葉は、虐待を受けた。

 なんでも離婚の理由が、母親が柚子葉を甘やかしていたから、だそうだ。

 それのどこがいけなかったのか、僕からしてみれば全く分からないけれど、あの男は僕を育てる時も、確かにろくな教育をしてくれなかった。

 結果、裁判で柚子葉は父親に引き取られることになった。

 僕の時も裁判はあったけれど、なんやかんやで僕は母親に引き取られている。

 多分、母親の祖父が権力者だから。そんな単純かつ逆らえない理由で、僕は母親に引き取られた。

 それで、柚子葉だけれど、虐待の中で、方々に助けを求めていたらしい。警察や、児童相談所。頼れるところは、全て頼った。

 けれど、誰もまともに取り合ってくれず、連絡をしていたことが父親にバレると、虐待はより一層、過激になった。

 その結果柚子葉は、壊れてしまった。

 あの時の八ヶ橋のように、と言っていいかは分からないけれど、それと似たようなもの。

「そんな…可哀想」

「ああ、本当に、本当に可哀想だと思うよ。肉体的にも、精神的にもダメージはきっと大きかったはずだし。なんでも、虐待も殴る蹴るの暴力に限らず、性的なものもあったそうだし」

「それって、まさか」

「いや、さすがに犯されてはいなかったよ。さすがに、そういう歳になっていなかったのもあるけれど」

 柚子葉が父親の元を離れたのは中学二年生の頃。そして今は高校一年生。

 どうやら、あの男もそこは弁えていたらしい。

「妹さん、今は一緒に住んでいるんだっけ」

「ああ、そうだよ。今度、お前にも紹介しておかないとな」

「うん、楽しみにしてるよ。でも、それはそうとして、どうして一緒に住むなんてことになったの? いわゆる、養子ってこと? 虐待がひどいから引き取ったとか、そんな感じ?」

「いや、そうじゃないよ。実際僕は、柚子葉を引き取るまで、いや、柚子葉を助けるまで、虐待に遭っていたことは知らなかったし、そもそも、柚子葉の存在そのものを知らなかった」

「えっ!? どうして…?」

「単純だよ。母親がそもそも知らなかったんだ。あんな男、二度と関わりたくないって」

「そっか、なるほど。それなら確かに、君が知っていないのも頷けるね」

「そういうことだ」

「じゃあさ、助けたって、どういうこと? 柚子葉ちゃんが酷い目に遭ってたこと、知らなかったし、知れなかったんだよね。だとしたら、どうやって柚子葉ちゃんを助けようって、そう思えたの? 切っ掛けというか、動機というか。それは確かに、兄としてっていうのはあると思うんだけれど、それだけじゃ説明しきれないことが、たくさんあると思うの。それってひょっとして、君の心臓が二つとも動いてることと、君と私のお父さんが知り合いだったことと、関係があるの?」

 八ヶ橋の推理、推察。流石という他ない。

 話し相手が八ヶ橋で良かったと思えるくらい、察しが良くて、理解が早い。

 もしここでよく分からない、と言われていたら、僕はこれ以上語ることはきっとなかった。

 八ヶ橋が八ヶ橋であるから、僕はこれ以上に踏み切ることができる。

 さあ、封を切ろう。二つ目の始まりに。

 僕と輪廻の出会いは、同時に僕と柚子葉との出会いでもあるから。

「全部おおよそ、お前の考えてる通りだ」

 あとは、答え合わせがてら、始まりに至る。

 すべての理由を、すべての原因を。

 洗いざらい、吐いてしまおう。

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