4.過去と因縁と偽物と

「これは…どういうことなの?」

「いいか八ヶ橋、間違っても目だけは開くな、あと手を離すなよ。この二つさえ守ってくれたら、動き回ってもいい。だけど、触れることは出来ないし、干渉することもできない。あくまで僕らは、傍観者だ」

「だから、それって…」

 目を瞑った僕らの視界。

 そこに映っているのは、在りし日の八ヶ橋家。

「嘘、どうして。どうして私の視界に、五年前の私が、生きているお母さんが、いなくなる前の父親がいるの?」

 五年前の、十五夜のあの日の、八ヶ橋家寝室の様子が映し出されていた。

 両親の間に八ヶ橋がいて、三人で川の字で寝ている。

 いや、両親は寝ていなかった。しばらく見ていると、示し合わせたわけでもなく、両親が揃って布団から起き上がる。そして立ち上がり、何か話をしていた。

「なんの話…?」

 僕の隣にいる八ヶ橋がそう呟く。

「心臓、二つ目、ぎせい、異能、五感、第六感…?」

 廻凛(便宜上、この場に於いてのみ、僕の隣にいる八ヶ橋のことを、そう呼称することにした)がぽつぽつと、恐らく両親の会話から聞こえているであろう単語を口にする。

「ねえ、私の両親は一体なんの話をしているの?」

 廻凛が僕に、純粋な疑問をぶつけてくる。

「さあ、僕にはさっぱり、全く分からないよ」

 そもそも僕には、聞こえていない。

 けれど、分からないというのは。

 その一点に関していえば、僕は廻凛に嘘をついている。

 そして、話し合い、というよりは、何かの確認のように見えたそれを終えて、母親がおもむろに、唐突に、急に上着を脱ぎ始めた。

「見ちゃダメ!」

 慌てて廻凛が僕の目を覆うように手を当てるが、残念ながら意味はない。

 というか当ててきた時、ごつんと音がした。痛い。

 そうして半裸になった母親に、父親が近寄っていく。

 本当に、この場で言うべきことではないと、重々承知の上ではあるが、しかしどうしても言いたいので言わせてもらうと、廻凛の母親は、廻凛とは違って、胸が大きかった。

「痛っ!何すんだお前!」

「なんか変なことを考えていそうだったから」

 図星だ──。

 普通ならこのまま夜の営みでも始めるのだろうとか、そういうことを思うけれど。

 僕らが目にしたのは、異様な光景だった。

 父親が右手を上げ、母親の左胸の前に差し出す。

 手刀のように細められた右手。

 肘を引き、勢いよくそれを突き出すと。

 当然のように血飛沫が上がり、部屋を赤く染める。

 そうして、父親の右手は母親の左胸に這入り──心臓を掴んで、出てきた。

 たくさんの血と共に。

「っっ!!!」

 どくん、どくんと、抜き取られてなお、鼓動を刻む心臓。

 気を失うことなく、さして何も無かったかのように立ったままの母親が、とても異様だった。

 痛みに顔を歪めさえせず、断末魔さえない。

 本当に、異様だった。

「お母さん!」

 廻凛は悲壮な声で母親を呼び、僕と手を繋いだまま、母親──とその心臓を掴んだままの父親のもとへ駆け寄る。

「お父さん! 何をしているの⁉ どうしてそんなことを!」

 幾ら娘が叫ぼうとも、過去の両親には届かない。

 そして今度は。

 父親は、寝ている八ヶ橋を見た。

 そして。

 右手に掴んでいる心臓を。

 八ヶ橋の右胸に押し付け始めた。

「何を、しているの──?」

 訳のわからない光景に、動揺を隠せない廻凛。

 これが普通のリアクションであり、これが異様な光景なのだから、仕方がない。

 でも、これをどうしても客観視して、傍観してしまう自分が、どこか諦めているような気がして、廻凛に対して後ろめたいと言うか、決して正しいとはいえない心持ちになってしまった。

 父親の右手にあった母親の心臓。

 今もなお、鼓動を続け、母親の体内で血液を回しているであろうそれが。

 八ヶ橋の右胸に、這入っていった。

「嘘、でしょ」

 母親の心臓は、八ヶ橋の右胸に、しっかりと収まり。

 それこそまるで、初めからそこにあったかのように。

 心臓が八ヶ橋の体に収まった瞬間。

 それまで立ち続けていた母親は力を失い、その場に倒れ。

 息絶えた。

 どばどばと血を流し。

 その場所で、正真正銘、死んだ。

 八ヶ橋の左側の布団。

 血塗られた布団の上、息絶えた。

「いや! 嫌嫌否否厭厭イヤイヤいやいや嫌否厭イヤいや!」

 気が触れたように叫ぶ廻凛。

 その場に蹲り、母親の亡骸に触れようとする。

 けれど、手は虚空を攫うことしかできない。

「どうして、どういうことなの…?」

 そんな廻凛を気にせず、そもそも気にする必要もなく、父親は。

 真っ赤に染まった右腕、血飛沫を浴びた顔と寝間着。

 八ヶ橋に母親の心臓を移植し終えて。

「■■■■■、■■■■」

 何か、呟いた。

 僕には聞こえなかったけれど。

 廻凛には、聞こえていたに違いないと、僕はそう確信していた。

 だって、その言葉を聞いた廻凛は。

 目を見開いて、涙に濡れた双眸で。

 見えなくなったはずの父親を、睨み付けていたから。

 そう。

 僕の無理で見せていた父親ではなく。

 ここに生きている、本物の父親を。

 廻凛と僕の目の前にいた、八ヶ橋廻凛の母親を殺し、その心臓を廻凛に埋めた男は。

「久しぶりじゃないか、廻凛」

 今を生きる八ヶ橋父は、五年前に別れた娘に。

「それと、槇野くん」

 因縁の相手と言ってもいい僕に。

 久しぶりと、見知った男はそう言った。


「君ならこうして、努めを果たしてくれると期待していたよ。それに、確信もしていた」

 平坦に、胃の底を掻き回すような声で、男は言う。

 中肉中背、身長も体型も僕とさして変わらない。ただ、全てを諦めたように濁った灰色の眼と、常に陰鬱そうな表情をしている部分に関しては、決して僕と──廻凛とは似ても似つかない。以前遭遇した時も、今と同じでスーツ姿だった。高そうでも、安そうでもない、普通のもの。それは多分、この男が普通に暮らしていた頃、会社勤めをしていたころに来ていた物なのだろう。

 僕は、この男を知っている。今こうして対面する前から。

 僕がこうなったのも、この男のせいで。

 僕がこうなれたのも、この男のせいだから。

「生憎だけれど、僕は自分のためにやったんだ。お前のためじゃない」

「ふむ、そうだろうな。だが実際、君の行動は私にとっても利が大きい。こうして私の娘を──そしてその母親の心臓を連れてきてくれたんだからね」

 まるで僕がこいつの言いなりになっているようだから、一応言い訳をしておくと。

 僕はこの男に、事実一度救われた。

 けれど同時に、この男に壊されたものがある。

 僕のこの目のことじゃない。もっと大事なものを、壊されている。

「どういうことなの…? どうして槇野くんとお父さんが、そうやって話をしているの?」

 今の八ヶ橋には疑問点が多すぎることだろう。なぜここに父親がいるのか。なぜ僕とこの男が見知った間柄なのか。なぜこの男はこういうことを言っているのか。

 逆に僕は、全ての答えを知っている。

 言わばこれは、取引みたいなものだから。

「ふむ。五年も経てば立派になるものだな。胸はそうでもないようだが」

 この状況でセクハラ発言とか、さては娘のあの性格は父親譲り、というわけなのだろうか。

「会えて嬉しいよ、廻凛」

 男は、微笑を湛えて、おそらく本心から、娘との再会を喜んでいた。

 けれど、娘の方は。

「どうして? 何が目的なの? 何をしようとしているの? どうして今更私の前に現れたの? どうして──」

 再会したことに喜びが少しはあるのかもしれないが、それ以上にやはりわからないことが多いせいで、相変わらず声は上擦って、繋いでいる手は震えていた。

 恐怖と疑問と喜びが入り混じった感情を、何と表現すれば良いのだろうか。

 けれど、手を繋ぐ力に関して言えば、明らかに強くなっている。

「まあそう警戒しなくてもいいさ。私は特別何をしようというつもりもない。少なくとも、今この時点ではね。むしろ言えば、今日この時間は廻凛、君のためにあるのだから。邪魔をしようという者が居れば──」

 男は、ついさっき見せられたのと同じ構えで。

 見せつけるような手刀で、言い斬る。

「例え槇野くん。君であっても、君の妹であっても消すよ」

「くそっ、ふざけやがって!」

 思わず怒りで、勢いで殴りかかりそうになったけれど、繋がれた右手が僕を引き止める。

「待ってよ、槇野くん。あなたと私のお父さんとに、どういう関係があるの? あなたの妹さんに、何があったの?」

 切実な声で、泣きそうな声で、八ヶ橋は僕に問う。

 この話をするのは、まだ早いと思っていたけれど。

 しないことには、進められないということか。

「僕は──」

「いや、まだ話さなくて良い。少なくとも、私がいる間は」

 そんな僕の逡巡を、男が制止する。

「私の前で話すようなことではあるまい。話している途中で、何度君が私を殺そうとするか、わかりかねないからね。それに、時間もない」

 冗談を言っている風ではあるが、相も変わらず平坦で、冷静で、冷酷。

 けれど僕は、素直に話すのをやめた。

 だから、と言うべきかも知れないけれど。

「ああ、わかったよ。だったらお前はお前の、当初の用事を果たせばいいだろ」

「ふむ、物わかりがいいね。とはいえ、私は一応君にその役割を預けたはずなのだが」

「確かに預かったし、それをこなす覚悟だってしたさ。だけど、今ここにはお前がいるだろ。だったら、お前がした方が──父親が娘にした方が、いいに決まってるだろ」

「それはそうかもしれないね。まあ、だけれど一任した以上、今更私がするつもりはない」

「冗談はよせ。娘の性格がお前譲りなのはなんとなくわかるけれど、今その冗談はタチが悪い。じゃなきゃ、お前は一体ここに何をしにきたんだ? この間言っていたことと、いろいろ違っている気がするぞ」

「まあ、予定なんてものは如何様にも崩れる。今回もただ崩れただけだ。君たち兄妹のときとは訳が違う。いや、正確に言えばあの時も全くの予定外だ。偶然だよ。予定と言うのは案外、偶然のことを先に予言するだけなのかも知れないな」

「まどろっこしいな。何が言いたいんだよ、お前」

 流石の僕でもこれ以上の茶番は付き合いきれない。時間だってもったいないし、なにより、震えながらも僕の横でしっかりと立って、あくまでも冷静に、努めて冷静であるように、僕と男の会話を聞いている八ヶ橋が心配だ。

 まだ、開華していなければいいと、ただ今はそのことだけを考えている。

「要するに、だ。私では廻凛の異能を開華することは出来なくなったということだ。単純だろう?予定が狂った、準備を間違えたんだ。君の動きはそれこそ思っていた通り、というか文句なしの動き、といったところだが生憎、廻凛の方がそうでもなかったらしい」

「どういうことだよ、もっと簡潔に言えないのか」

「仕方がない、ストレートに言おうかね」

 男はこほん、と一つわざとらしい咳払いをして。

 僕の横に立つ廻凛を一瞥してから、こう言った。

「私でも予測できなかった異能が、廻凛にはある」

「…っ⁉ それってどういうことだよ!」

「私の方が聞きたいさ。なかなかどうして、そんな余計なものまでついてきたのか。それが君の言っていたおかしなところに繋がってしまった」

 男は一つため息をつく。これはわざとらしいものではなく、心の底からのため息だろう。

 そして、一瞬で僕との距離を詰めて、耳元で、あくまでも廻凛に聞こえないように、聞かせてはならないと、囁いた。

「廻凛の得た副作用もとい副産物。それは事象改変だよ、槇野くん」

 そんなことが、あって良いのか。

 それを聞いた僕が、どんな顔をしていたか。それはもう、語るまでもなく、ひどい顔だっただろう。

 暗闇で良かったと一瞬思ったけれど、八ヶ橋とは今もこうして手を繋いでいるから、ひょっとすると見えていたかもしれない。

 あるいは、聴こえていたかもしれない。

 そんなの、魔法じゃないか。

 事象改変。

 僕が知る異能の中で、最も危険度が高い、最上位に位置するもの。

 それは即ち、世界を変えるとまでは行かずとも、そこにある現実を変えることができる能力。

 だから。

 だからつまり。

 八ヶ橋の記憶にあった、血一つない殺人現場というのは、八ヶ橋が作り上げた、でっち上げた嘘だと思っていた。

 もしくは、嫌な記憶から逃げようとする防衛反応から来た記憶の改竄。

 でも実際は逆だった。

 事実、この部屋では血飛沫なんて上がっていなかったはずなのに。

 八ヶ橋はこの家にたどり着いて──どのタイミングかはわからないけれど、部屋で起こったことを改竄した。

 そして、僕の持つ異能の主作用。過去投影で僕と一緒に過去を観たときにまで、その効果は及んでいた。

 部屋の有様だけではなく、過去そのものを変えた。

「予定が狂ったというのはもう一個あってね。私から発せられているあれが今日は強めなんだよ」

 だから、僕はいつも以上に暗闇に強かったのかと、このときようやく納得がいった。

 基本、異能を誰かと共有するとその効力は分配される。だから、手を繋いでいるこの間、僕の視界はもう少し暗いはず。

 なのに、変わることはなく、外からの光が一つもないこの部屋でも、真昼の如き明るさに見えているというわけだ。

 それはおそらく、共有されている八ヶ橋も。

「私を中心に発生している、異能の言わば磁場のようなものが、今は非常に不安定でね。主作用を自覚していない、開華させられていない廻凛の精神状態は、その影響で非常に不安定になっている」

 だからつまり、と男は続ける。

「今の廻凛は、この世界の誰より、何よりも──私よりも危険な存在と言えるのだよ」

 それを聞いた八ヶ橋は。

 ついに膝から崩れ落ちて。

 そのまま、ぷっつりと意識を失ってしまった。

「潮時ということかな。目覚めたとき私がこうしてまた近くにいれば、きっと懸念が現実になる。悪いが槇野君。娘を連れ帰ってはくれないか。ああ、自転車で来ているのだったか、ふむ。なら、これを受け取ると良い。釣りが出ても返さなくて結構だよ。自転車はこの家にでも置いておいて、タクシーで帰ると良い。多分その額なら、あと三台は自転車が買えるだろう。まあ、釣りは今回の手間代ということにしておくさ」

 じゃあ、と言って男は、僕にずっしりと重くて分厚い封筒を投げ渡し、闇に紛れて消えた。

 残されたのは意識を失った八ヶ橋──呼吸はしているし、脈もあるから多分、寝ているだけだろう──と、情報の多さと受け止めきれない現実とで、唖然としている僕だけだった。

「ああ、そう忘れていたよ」

「いやまだいたのかよ」

「いやはや、今後またこういうことがあると、君も私も不都合で、世界にとっても不利益だからね。その封筒の中に私の携帯の番号を入れておいたよ」

「そんなこと、入れてあったならわざわざ言わなくても良いんじゃないのか?」

「いやいや、そうじゃない、それは、勘違いだよ。まあ確かに、無言で、電話番号を書いた紙を、その現金の入った、それなりの額の現金の入った封筒に入れておいたから、万が一、お金に気を取られて気づかずスルーされるだとか、あるいは君が拒んで番号を登録してくれない可能性だって、あったわけだ。その懸念、というか念押し、で言ったというのも、ないわけではないが、私は今、ついさっき書き込んだんだ」

「どういうことだよ。お前が僕に渡す前のあの一瞬か?」

「いいや、だからそれが勘違いだと、そう言っているのさ。君に渡した直後に、書き込んでおいたんだ」

 ああ、なるほど。

 この男なら確かに、そういうことだって出来るのかもしれないな。

 この男の求める異能なら。

「というわけで、今度こそさようならだ。まあ、どうせ時間の経たないうちに、どちらともなく電話を、話をしたくなるさ。話のすり合わせが、解説が必要になるだろうから、また後で、とでも言うべきなのかな」

 そう言って、今度こそ。

 寝顔を存分に晒す八ヶ橋と、呆気にとられている僕だけが、このボロ家に、意図せず血が舞ってしまった部屋に残されてしまった。

「…どうしたものかな」

 僕はそう呟いて、右手に持っている、福沢諭吉の肖像が印刷された長方形の紙、すなわち壱万円札が五十枚入った封筒をしげしげと眺めていた。


 太陽も顔を出し、夜が明けてきた頃。

 僕と八ヶ橋は、帰りのタクシーに乗っていた。

 僕はこうして、窓枠に頬杖をつきながら、色々と考えていたけれど、目覚めた八ヶ橋に、何を言うべきか、何を説明するべきかを考えていたけれど、八ヶ橋はやっぱり、僕の隣で、相変わらずすやすやと寝息を立てて、可愛い寝顔を晒していた。

 正直、先の出来事について──八ヶ橋廻凛の父親、八ヶ橋輪廻に遭遇したことについて、僕はあまり驚いてはいない。というか、来るだろうと、正直思っていた。

 殺人現場の有様に関して言えば、散乱していなかったはずの血が舞っていたことに関しては八ヶ橋の異能の副作用、と考えて良いかもしれないが、窓に板が打ち付けられていたのは、恐らくあの男、輪廻の仕業だろう。

 輪廻にとって、満月というのは非常に都合が悪い。だから、あの家の中に少しでも月光が入らないようにと、昼のうちにでも板を打ち付けておいたと考えるのが妥当だろう。

 なぜそうしたのか、と言えば、今日、僕と八ヶ橋があの家に行くということを、輪廻は事前に知っていたからだ。

 けれどそれでも、輪廻の放つ異能の磁場は不安定なままだったというあたり、他にも不確定要素が関わっていた可能性は十分にある。

 いや、厳密に言えば知らなかったのかもしれない。僕も八ヶ橋も、あの家に行くことを決めたのは昨日の夕方のことで、二人とも輪廻に伝えたりはしていない。そもそも、電話番号を得て、連絡手段が出来たのはつい先程のこと。だから、言い換えるとしたら、来る気がしていた、というところだろうか。輪廻の一方的な連絡手段で、来ると勘付いただけなのだと思う。

 だから、一番の想定外、予想外、意識外だったのは八ヶ橋の副作用。

 事象改変。

 僕が昨日の夕方、『事象改変、粗探し』だなんて言ってしまったせいで、変なフラグを立ててしまっていたような気がしてならないけれど、それはそれとして。

 文字通り、そこにある、もしくはそこにあった事象を、現実を、過去までもを変えてしまうもの。

 改竄ではなく、改変。

 誰かが気付くまで、気づかれない。だから、改変。

 改竄すれば、どこかで矛盾が生じてしまう。けれど、改変なら、元々そうだったということになるのだから、誰にも気づかれることはない。

 今回は、八ヶ橋が過去の正確な記憶を、本来あったはずの過去を語った後に、家にたどり着いて改変を行ったから気付くことができた、というそれだけのこと。

 本来なら、八ヶ橋が語っていた通り、母親は血を流さずに、八ヶ橋に心臓を譲ったはずなのだろう。僕の時も、血は流れなかったから。

「…ん、ううん」

 色々と説明しなければいけないことが多すぎて、全く論点が、構成が決まっていない中、頭の中がこんがらがっている中、八ヶ橋が身をよじって、覚醒の兆候を示す。

 そのまま数秒もすれば、八ヶ橋は重い瞼を上げ、目を覚ました。

「ここ、はぁぁわ」

 多分、ここはどこ? とか言おうとしたのだろうけれど、眠気に邪魔をされて、言葉の途中であくびをしていた。どことなく緊張感がなくて、いつもの八ヶ橋とは違う雰囲気を、僕は感じていた。

 と言うほどに、僕はいつもの八ヶ橋を知りはしないけれど、まあ、それでも、違和感だったのは間違いない。

 オーラに欠けると言うか、どことなく威圧感がなくて、見た目は同じだけれど別の人物のような、そんな気持ち悪さを感じていた。

「あれ、槇野くん…ええと、どうして私はタクシーに乗っているのかな?」

「は?」

 僕は素っ頓狂な返事をしていた。おおよそ、返事と言うよりは漏れ出た声かもしれないけれど。

 いや、だって。

 こんな可愛い女の子に──こんなに角がなくて口調が柔らかくて目も丸くて女の子らしい子に、要するに僕がついさっきまで一緒にいた八ヶ橋廻凛とはおおよそ性質が真逆の女の子に名前を呼ばれたら。

 そりゃあもう、顔が赤くなるに決まっている。

「あれ、槇野くん、どうしたの? 顔、朱いよ?」

「だとしたらお前のせいだよ!」

「ええ! 嘘⁈ 私のせいなの⁈ どうして⁈」

 この有様である。

 こんなことになるだなんて、誰が予想しただろうか。

 多分、こいつの父親でさえ、このことは予測できなかったに違いないと、僕はそう思った。

 というか事実、さっきあいつは何も予測できていなかったようなものだし、今更この事まで勘付いているとは、到底考えられない。

「それでさ、槇野くん。私たちはどうして今、こうやって二人仲良くタクシーに揺られているの? さっきまで、私が生まれた家にいたはずじゃなかったっけ」

 どうやら、記憶自体は消えたりしていないらしい。それだけでもかなり助かるというか、最悪の事態からは遠ざかったということ。

 けれど、それでも。

 このキャラはいくらなんでもおかしすぎる!

「ああ、そうだけど、そうだけれど八ヶ橋、お前、どうしたんだよ。その喋り方といい声といい、まるで別人じゃないか」

「ううん、そうなのかな…?」

 可愛らしく華奢な顎に細い指を当て、小首を傾げて、何かと思案する八ヶ橋。

 正直に言うけれど、本当に可愛い。

「確かに、さっきまでの私はこんなんじゃなかったような…気がするかも。よくわかんないけど、すごく高圧的で女王様っぽかった。私だったら正直あんまりお話はしたくないタイプかな」

「その言葉、自分に言ってるんだよなそうなんだよな⁉」

 なんていうか、こう。

 一番似合う言葉としては、二重人格──解離性人格障害。

 一つの体の中に二人の人物がいて、二つの人格があって、何かをきっかけに、もしくは時間周期で人物が入れ替わる。

 しかし大抵は、人格どうしで記憶の共有はなされない。

 だから、二重人格という言葉は違うと、そう思った。

 じゃあ、思い当たるのはあともう一つ。

 僕の妹と、同じだとすれば──。

 これが、偽物の八ヶ橋廻凛だと、そういうことになる。

「ねえ、槇野くん。さっき、私のお父さんと話してたみたいだけど、何の話をしてたの?」

 ああ、そういえばそうだった。

 聞かれるとはわかっていたし、どう答えるかの準備だってしていたはずなのに、こうなってしまってはそれも無駄というか、気負いに終わる気がした。

「それについて答えたい、話したいのは山々なんだけど…なあ、八ヶ橋。それってわざとじゃないんだよな?」

「え、急に何を言うのかと思ったら…。こんな小芝居をして、私に得はないでしょ?」

「確かに、それはそうだけれど…」

 いっそわざとであって欲しかったとすら思ってしまった。

 見た目は何一つとして変わっていない。八ヶ橋廻凛そのものだ。強いていうなら少しだけ目が丸く、眼差しが柔らかくなっているくらいで、あとは八ヶ橋廻凛そのものでしかない。

 こうして接してみないと、近くで見ないときっと仲のいい友達がこいつに居たとしても気づいてはくれないくらい。

 けれど、中身が全く違う。正反対。だから、偽物。

 さっきまでの高圧的で、上から目線で、僕を脊髄反射で詰るようなやつじゃない。

 温厚で、柔和な少女になっていた。

「それで? 私は説明して欲しいってお願いしてるんだけど、どう? 説明してくれる?」

「ああ、もちろん、お前が寝てた間も、ずっとどう説明するかを考えてたんだよ」

「そうなんだ、わざわざありがとね、うん。それと、ごめん」

「いや、感謝することでも、謝るようなことでもないって。勝手に首を突っ込んだのは僕なんだからさ」

「それはそうだけどさ、うん。私がそうしたかったから、感謝もするし、謝罪もするってだけだよ。だから、とりあえず受け取ってくれたら嬉しいというか、助かるかな」

 やめろ、その潤んだ目で僕を見るな!

 理性が働かなくなる一歩手前で、わかったよ、と一つ返事をして、目を瞑ってさっきまでの出来事を──過去を思い出し、映し出す。

 頭の中で記憶を整理しているだけのように周りからは見えているかもしれないけれど、僕個人としては、閉じた目蓋に、さっきまでの出来事が鮮明に映し出されていた。

 けれど、映し出されただけで、音はない。

 聴くことは、僕に与えられた異能ではないから。

「あれ、槇野くん? 寝ちゃったの? ううん、これは困ったな」

「いや、寝てないから! 超ピンピンしてるから!」

 正直寝そうになったのは間違いないけれど、仮に寝てしまったら、今の八ヶ橋なら、きっとタクシーが止まるまで僕を起こすことはないと、そう思う。

 だから、寝てしまってはダメだと自分に言い聞かせて、ある考えに至る。

「そうだな、八ヶ橋、とりあえず、もう一度僕と手を繋いでくれないか」

「え? さっきからずっと繋いでるけど」

「えっ⁉ いつの間に! 全く気づかなかったぞ⁈」

「槇野くんが目を瞑って考え事してる時にだよ、なんとなくそうしたくなって」

「なんとなくってお前…」

 そういう無邪気な行動が、多くの男子を勘違いさせ、結果、死地へ送り込むことになる──だとか言っていた人物がいた気がしなくもないが、今の僕はまさに同じ気持ちだった。

 しかも、指の間に指を絡ませる、俗に言う恋人繋ぎだし……。

「まあ、それなら話が早いな、とりあえず、目を瞑って──」

「もう瞑ってるよ」

「準備が良すぎないか⁈ その学習能力、僕にも分けて欲しいよ!」

「ついさっきも同じことしてたじゃん。それくらい察せるから。馬鹿にしないでよ」

 最後の一文、超可愛いから以後厳禁。

 八ヶ橋に遅れて僕も目を閉じて、さっきまでの僕と輪廻の会話を、そのまま見せる。多分八ヶ橋は、僕の異能で情景は見えているし、おそらく自分の異能で音も聴こえているはず。

 と、思ったけれど。

「あれ、僕も聴こえて…?」

 そう、なぜか八ヶ橋の異能が、僕にも共有されていた。

 さっきと条件は同じはず──いや、そんなことはない。

 今僕と手を繋いでいる人物、そこにいるのは八ヶ橋廻凛であり、八ヶ橋廻凛ではない。そういう人物なのを、忘れていた。

 ここで僕と手を繋いでいる彼女は、偽物なのだから。

 だったら、僕にもその音が聞こえていても、何一つ不思議ではないこと。

 この辺りも、ちゃんと説明をしておかないとな。

 そうしてしばらく、八ヶ橋についさっきの邂逅を見せて、聞かせて、僕はそのおさらいをした。

 多分きっと、タクシーの運転手にはさぞ不思議な絵面に見えていただろうけれど。

 一通りおさらいが終わると、八ヶ橋は、ふうん、なるほど、と言って、軽く首肯して、理解をした風にしていた。

「色々と聞きたいことがあるけど、できちゃったけど、それはおいおい訊くとして、とりあえず、槇野くんが言うべきだと、言っておくべきだと思って、考えていることを、先に聞きたいな」

 こうして素直に僕の話を聞こうとするあたり、話を促そうとするあたり、なかなかどうして、別人物としての影を濃くしている気がする。

「ああ、そうだな、そうさせてもらうよ」

 僕は少し上を向いて、少しだけ、目を瞑る。

 そうして記憶の整理を、情報の整理をして。

 言わなければいけないことを、言う覚悟をした。

「えっと、覚悟を決めているところ申し訳ないんだけど」

「ん、どうした?」

 八ヶ橋は可愛らしくもじもじしながら続ける。

「この手は、いつまで繋いでいたらいいのかな?」

 焦って手を離したとき、すでに僕の手は手汗で塗れていた。

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