3.暗闇の中の偽物

 事の顛末は、真実は、こうだ。

 八ヶ橋は中学二年生の秋、十五夜の夜に、母親を亡くし、父親を無くした。

 それが全てで、それが一部ともいえるこの事件が、八ヶ橋廻凛という人物を作る、一番のピースで、同時に、八ヶ橋廻凛という人物を紐解くための鍵でもあって、八ヶ橋廻凛を縛りつける縄そのものでもある。

 だったら、その事件について、実際に“観て”来るのが早いに決まっている。

 だって、こういう諺があるだろう?

「百聞は一見に如かず」

 街灯が百メートルに一本、あるかないかの夜道を、自転車で走り抜ける。

 走り抜ける、だなんて格好いい表現をしてみたけれど、実際の僕“達”は、そんなにスピード感に、疾走感に溢れた状態ではなかった。

「なによ、私が“重い”とでも言いたいの?」

「お前、その発言も狙ってるんだろ? まさかお前の家に──お前の生家に、でかい蟹なんかがいるってんじゃないだろうな。趣味悪いぞ、それこそ。生憎僕の知り合いに、アロハ服を着た中年男性なんて居ないから、その場合解決に至ることは難しいと思うぞ」

「狙ったつもりがなくても、自然とそういうことを言ってしまうのよ。なぜかしらね。強制力でも働いているのかしら」

 自転車の荷台に腰掛ける八ヶ橋とそんな軽口を交わしながら、目的地へとペダルを漕いでいた。

 目的地。それは即ち、八ヶ橋廻凛が中学二年生まで過ごしていた、言うなら元八ヶ橋家。

 事件が起きた、八ヶ橋廻凛を生み出した、その場所。

「それにしても本気で自転車で行くつもりなの? ここからかなり遠いわよ。あなたのその脚で、到底たどり着けるだなんて思っていないのだけれど」

「ああ、そうだな。だけど、仕方がないだろ。お前が家に帰ってシャワーを浴びたいとか言うから、それに付き添っていたらお腹が空いたとか言い出して、晩ご飯の買い出しに行って、お前の手料理を戴いて、それは確かに旨かったけれど、その後でお前が身支度するのを待って、ついでのように僕もシャワーを浴びることになって、そうこうしていたら終電に間に合わなくなりそうだったのがいけないんだろ」

 短い時間だったけれど、それはもう、永劫にも思える時間だった。

 誰とは言わないけれど、彼も。こういう気持ちだったのだろうか。

 要するに、八ヶ橋の“今の”家で時間を食った結果、田舎の生家へ向かう電車の便があと数本で、下手をすれば帰りの便が、終電がなくなる可能性があったから、仕方なく、こうして自転車で遠い田舎の地まで出向いている、というわけだ。

「それで、百聞は一見に如かず、と言っていたけれど──キメ顔で言っていたけれど、どういう意味よ。今更あの家に、殺人現場に出向いたところで、証拠になるようなものは警察が持ち去っているだろうし、ある程度掃除くらいはされているだろうし、めぼしいことなんて、ないはずだと思うけれど」

「別に僕はキメ顔なんて作っていないからな! どういう意味もこういう意味も、そのままだよ。一度生家に帰ってみれば、また何か思い出すかもしれないだろ。その一縷の可能性に、望みに、八ヶ橋に賭けてるって、それだけの話だよ」

 否、それだけでは、決してない。

 僕が“普通じゃない”からこそ、その可能性に賭けての、生家訪問。

 そして、八ヶ橋が普通かどうかの答えも。

 そこに行けば、必ずわかると踏んだから。

 それがたとえ、八ヶ橋を傷つける物だったとしても。

 それを受け入れる覚悟が、彼女にあるかは分からないけれど。

 僕が受け入れなければならないことも、また確かにあるから。

「ふうん、そう。一般論みたいなことを言うのね」

「嫌だったか? …って、まぁそりゃ、好き好んで行きたくはないよな。わざわざ足を向ける、足を運びたくはないような所だよな、お前にとっては」

「そうね。私が今こうしてセンチメンタルになっているのも、それがやはり関係していると思う。どうしようもないもの。そうしたくなくても、そうなってしまう」

 あの日のように、と八ヶ橋は続ける。

「でもいいわ。せっかくの機会だもの。何もなければ何もないでいいし、何かあるなら何かあるで収穫になる。どちらにせよ、望むにせよ望まないにせよ、私たちは成果を得られるということなのよね」

「まあ大方、その理解で間違いないよ。その気持ちで行けば、なんとかなるようなことだと思うよ」

「なんとかなる、ね」

 しまった。

「なんとかしようと、そう思っているから、あなたはあそこへ行こうだなんて言っているの。ふうん」

 これは失言だった。

 別に僕は、なんとかしようとしているわけではないのに。

“なんとかなる”ように、仕向けようとしているだけなのに。

「でも、それは確かに嬉しいけれど」

「けど?」

 いつもならなんでもきっぱりと言い棄てる八ヶ橋が珍しく口籠る。

 どう見てもその先を言うことを躊躇っている。

 まぁこの流れで言いとどまるとなると、なんとなく言いたいことというか、これから言おうとしていることは見えてくる。

 自ずと。

 図らずとも。

 勝手に。

「あなたにできることなんて、やっぱりないと思う」

 きっぱりと。

 それはきっと、唯一縋ろうとした自分を、甘えようとした自分を制するように。

「そして、私にできることも、ない」


「初めから、私にできることなんて、何一つないはずなのよ」


「そうかもしれないな」

 確かに、前までの、ついこの間までの僕にできることは、せいぜい横で茶々を入れて、適当に誤魔化すように、励ましとか慰めとか、そういう言葉を投げかけるくらいのことしかできなかったはずだ。

 だけど。

 今の僕は、“前の”僕とは、本質から違っている。

 僕の場合、それは“母親の心臓”ではなかったけれど。

 それは確かに、言い切れるくらいに、八ヶ橋と“同じこと”が起きていたから。

 きっと、八ヶ橋もそうなんだろうという、確証のない推論から、僕はこうしているわけで。

 いざ八ヶ橋がそのことに気づいた時──気づかされた時、どういう反応を示すのだろうか。

 本質的に、前までの“八ヶ橋廻凛”じゃなくなっていることを知ったら、彼女は。

 僕のように、なってしまうのだろうか。

「まあでも、できるできないは別に、今決めなくても良いんじゃないか」

 口をついて、自然と、勝手に、自ずと、そんなことを言っていた。

「……そうかもしれないわね。早慶だったわ。やってみないとわからないこと、ってことなのよね。そんなこと、私は思わないのだけれど、今この状況で、私一人の独断と偏見で物申してどうにかなる問題じゃないもの」

「いやどうしてそこで私立大学トップの二校が出てくる…、発音だけだと存外わかりにくいからな、それ。気づいて突っ込みを入れられているのを褒めて欲しいくらいだよ」

 早慶、関関同立、MARCH。大学にあまり興味のない僕はこれくらいしか知らないけれど。

「だから今は、大人しくあなたの判断に、指示に従うことにする。だからと言って、破廉恥な指示をしたら許さないわよ。従った上であなたを滅多刺しにして、私も死ぬわ」

「判断に従うのはいいけれど、そこはちゃんと断れ! っていうか、僕はそういう指示はしないからな! あとなんで従った上で殺すんだよ、最後にいい夢見せてんじゃねえよ! あとお前も散ろうとするな!」

「何よ、私なりの粋な計らいが気に入らないって言うの。メイドの土産よ。そして私もあの世に行って、あなたが持っているその土産を返してもらうわ」

「また誤植するな! メイドの土産ってなんなんだ⁉︎ 逆に気になってきたぞ、それは!」

 メイド×八ヶ橋という、想像してはいけない、想像しては戻ってこれないだろう底なしの欲望に蓋をしつつ、唐突にシリアスから切り替わってしまった空気についていこうとする。

 何かにつけてこの女、ボケようとしている節があるからな……。

「それで、この道で、この方向で間違い無いんだよな」

「ええ、間違いないわ。通ったことのない道、見たことのない景色だけれど、大丈夫よ」

「一気に不安になる情報を付け足すな!帰れなくなったらどうする!」

「大丈夫よ。ちゃんとグーグル先生に尋ねつつ、懇切丁寧に仕立てに出てお教え願っているのだから、絶対に間違えることはないわ」

 懇切丁寧って…。

“グーグル先生。〇〇への行き方を、教えてくださらないでしょうか。もちろん、ただでとは言いません。当然お礼はいたします。この身体が欲しいのなら、それでも構いません。なので、どうか、この迷える仔羊に、道程を示してくださらないでしょうか”とか、検索欄に打ち込んでいるのか、こいつ。

「どうしてそこまで一言一句違わずに私の検索ワードを言い当てられるのか、私には分からないわ」

「はあ⁉︎ 当たって…どころじゃなく、そっくりそのままだってのか!?」

「ええ、そっくり、そのまま、一言一句、違わず」

「だとしたらお前、色々と間違えてるぞ…」

「知っているわ。私の人生は間違いだらけよ」

「そこまでは言っていない」

「あなたに出会ってしまったこととか」

「そこまで言わんでいい!」

「嘘よ。むしろそれだけは幸福なことだと感じているわ」

「そうかよ。僕は正直な話、命が何個あっても、体の替えが何個あっても足りないと思っているよ」

「酷いわ。そんなに私とのプレイが気に入らないの?」

「一方通行の好意は相手を傷つけることだってあるんだぞ、お前の場合好意じゃなくて悪意だから尚更の話だ」

「なら、好意のある行為ならあなたは喜ぶの?」

「そういうことじゃ、ないんだけど」

「行為のある、好意なら?」

「それは一体どういう行為なんですか⁉︎」

 そういえば。

「さっき、お前の家にお邪魔したわけだけれど、なんというか、話が違うってんじゃないけれど、お前が高校に上がったときに、祖父の親友の不動産屋から紹介された、例の豪華絢爛な豪邸はどうしたんだ?」

 こんなことを言っては悪いけれど、豪邸、とは到底形容のし難い、普通のマンションだった。いや、高校生がマンションで一人暮らししているのも、そこそこ違和感のある話だけれど。

「ああ、あの部屋なら三ヶ月もしないうちに返したわ」

「え、もったいないじゃないか。折角あれだけ良い部屋なんだろ?」

「そう、もったいないのよ。私が使うには」

「ん? あー、なるほど、そういうことか」

「掃除だって手が行き届かないし、広すぎて落ち着けないの。どうしても人肌が恋しくなってしまうような部屋だったわ、本当に」

「そっか。それで今の部屋を代わりに紹介してもらったとか、そういうことか?」

「そうね。返した時に、これじゃ君のお祖父さんに申し訳が立たない。あの人には大恩があるから、そのためにも、どこか別の部屋を、もう少し落ち着いた部屋を提供するから、そっちにせめて住んではくれないか、と懇願されたものだから」

「懇願されたのかよ…」

 何があったんだ、不動産屋と八ヶ橋祖父。ただならぬ関係性を感じる。

「だから、学校からもう少し近めの、ここに移住…移転?ええと、引っ越し?してきたというわけなの。これでも正直、もったいない気はするけれど前に比べたら遥かにマシね。掃除もできるし、広すぎず狭すぎず、ちょうど良いより少し広いくらいだと思っているわ」

「どうしてそこで“引っ越し”がすんなりと出てこなかったのかはわからないけれど、ふうん、良かったじゃないか。ちょっと余裕あるくらいの方が、何事も安心だと思うぜ」

「確かにそうね。財布も心も余裕のない槇野くんに言われると説得力があるわ」

「また変なキャラ付けを! 僕は別に一駅分歩いてから電車に乗ったりはしないし、他人にちょっとやそっと言われたくらいで激昂したりはしないよ!」

「貧乏アピールをやめて。童貞が感染るわ」

「その二つに相関は絶対にない!」

「ほら、心に余裕がないじゃない」

「今のは至極当たり前の反応なんだよ!突っ込みができるくらいにはむしろ心に余裕があるはずだからな!」

「ふむ、それは確かにそうね。私は突っ込みなんてできないもの」

「心に余裕がないことを自白した⁉︎」

 そんなやりとりをしながら、何分──何時間くらい経っただろうか。

 八ヶ橋のスマートフォンから、目的地付近ですという声が聞こえてきた。

 当然、辺りは真っ暗で、道中誰かとすれ違ったりもしなかった。田舎なのと、深夜なのとで、より一層人気を感じない。数少ない民家にも灯りは点っておらず、揃ってみんな夢の中、なのだろう。

「懐かしいわ」

 そう言っている割には、懐かしんでいるようには見えない。無表情で、ただ目の前に広がる景色──百メートルに数本の間隔で並ぶ街灯の光で、辛うじて景色と言えるものを眺めながら、過去の記憶と照らし合わせているのだろうか。

「ここの辺りはやっぱり──」

「変わったって、そう言いたいのか?」

 廻凛がこの街を出たのは中学二年生、単純計算して約五年前。五年もあれば、街は変わる。そして、人も。

「いいえ、変わっていないわ。あの時の、まま」

 まるで時が止まったかのように、と八ヶ橋は付け加える。

 田舎だからなのだろう、特に開発も行われず、景色がそのまま、というのは。

 そうして、さらに数分、今度はグーグル先生ではなく、八ヶ橋の記憶を頼りに進んでいく。

 そして──

「ここよ」

 なんというか、まさに、という家だと思った。

 入り口には“立ち入り禁止”と書かれた黄色い帯が、所謂規制線が朽ちたまま放置されて、玄関前には、“売家”と言う文字と電話番号、皆川不動産と書かれた看板(これも帯と同じように朽ちていて、錆や塗装禿げが目立つ)が置かれていた。

「久しぶりね、五年も経ってしまっているもの」

 誰に語るでもなく、独りごちる八ヶ橋。

 ただしこれでも、懐かしんでいる様子は本当に見受けられない。

「それで。私を今更こんなボロ屋に連れてきて、どうしようと言う訳なの」

「まあ、いいからとりあえず這入ってみようぜ。“何か”あるかも、見つけられるかもしれないし」

「その口ぶり、まるでその“何か”を知っているみたいに聞こえるのだけれど、もしそうなら今ここで吐いてくれた方が、私としてもあなたとしても冥利に尽きるというか、一番手っ取り早いし、お互い得をすると思うの。そしてあなたは徳を積める」

「残念だけれど僕は何も、これっぽっちも知らないよ。そして、お前も知らないようなことを“見つける”ために、“見出す”ためにここに来たんだ」

 それに。

「もし僕が元々何かを知っているなら、わざわざ粉骨砕身してここに来る必要なんて、どこにもないだろ」

「それはあれよ。雰囲気作りよ」

「こんな面倒な雰囲気作り誰がやるってんだ!」

「あなたにしては珍しく──と言うほどあなたのことなんて知らないけれど、場を弁えようとしているものだと、少しばかり感心したというのに。私の関心を返しなさい」

「いやいやいや、勝手な推察を押し付けておいてそれはないだろ…って、お前、最後のそれだと、まるで僕に関わったことそのものを無かったことにしたいって、そう言っているような気がするんだが」

「さあ、なんのことかしらね。韓信でも分からないことよ、それは」

「ここで中国の武将を出してくるな! なんだお前! 頭のいいアピールがしたいだけなのか⁉︎ 同音異義語ばかり出してくるな!」

「はあ、こんなところに連れてこられて、寒心している乙女になんて酷い扱いをするの、このケダモノ。観心しなさい」

「畜生! 僕の負けだよ!」

 ともかく。

 一通り軽口を叩いてから、それはひょっとすると、八ヶ橋の心の準備のための時間というか、手続きというか、ルーティンのようなものなのかもしれないけれど、それを終えて、やっと、黄色い帯を潜って、玄関の扉の前に立つ。

 やはりどこか、重々しい雰囲気を纏っているように感じるのは、朽ちた規制線が入り口にあって、玄関先に売家の看板が置いてあったからか。

 それとも。

 ここでなにがあったのかを、おおよそ僕は知って、今の間に、“観て”しまったからか。

 横にいる八ヶ橋が、一つ深呼吸をして、改めて扉と向き合う。

「じゃあ、這入るわよ」

「ああ、お前のタイミングでいいから」

 八ヶ橋は僕を一瞥して、軽く頷いてから、ドアノブに手を掛ける。

 ここでまた、さっきよりは小さめだけれど、深呼吸をしていた。やはりよほど、気が張り詰めているのだろう。

 ゆっくりと、ドアノブを動かして、そのまま手前に引っ張って、扉を開ける。

 扉は左開きだから、左側に立っていた僕はドアに合わせて一旦後ろに下がり、八ヶ橋に続いて建物に這入る。

 当然と言うか、真っ暗だった。

「さすがに暗いわね。スマホのライトでも点けていこうかしら」

「ん、ああ。そうだな。確かに、暗い」

「何、その不自然な間は。ただでさえ間が抜けているんだから、もう少し神妙にしたらどうなの」

「誰がうまいことを言えと…ていうか、そう言うお前も神妙さが足りないだろ。こんなこと言っている場合じゃないと思うぞ」

「神妙極まりないわ。いつもなら口をついて出てくるあなたへの罵詈雑言一つに、今私は脳を使ってしまったもの」

「嘘だろ!?あのクオリティを脊髄反射のようにやってたのか!?」

「当然よ。あなたの相手なんて、片手間でいいわ」

 ちょっと気を抜けばこれだ。

 というかこの場合、気を抜いていた僕の方が全面的に悪いって、それだけなんだけど。

 僕と八ヶ橋は揃ってスマホを取り出し、ライトをつける。窓から月光が入り込むはずだと、そう思っていたけれど、この家、そもそも窓の数が少ない、というか。

 窓が“なかった”。

 正確に言えば、窓はあるのだけれど、その窓が、窓としての役割を到底果たしていない。

 窓の役割といえば、風通しとか、陽の光を入れるためとか、家の中から外を眺望するため、とかそういうものだと思うけれど、この窓は、そのどれもを放棄していた。

 家の中の窓全てに、板が打ち付けられていた。

「こんなもの、私がここを去った時には、あの日の夜にはなかったはず」

 八ヶ橋は、“残っている”記憶と照らし合わせてそう冷静に分析していた。

 だからこんなに暗いのかと。そう続けた。

 今日は満月だから、外も夜とはいえ、何も見えないと言うほど暗くは無かった。

 けれど、この家は外よりもずっと暗く、そして寒い。

 雰囲気というのはこういうことなのだろうか。だとしたら、こんな雰囲気、僕は望んでいない。

 それに、満月の夜でなくても、僕はある程度、暗い場所でも目が見える。見えてしまう。

 それはおおよそ、そんじょそこらの人間が、暗い場所でも割と見えるんだよね、とか言っているそれより、それとは、比べ物にならないくらいに。

 僕の目は、おおよそ光源の一切ない空間でも、真昼のように、太陽の下のように。

 景色が見えてしまう。

 けれど、そのことを今言う必要はない。

 これは言って仕舞えば“副産物”で、“副作用”のようなもの。

“主作用”を使うようになってから、伝えても。それはきっと、遅くはないだろうから。

「ということはつまり、あの日以来、誰かがこの家に来て──警察とかそういうのじゃなくて、それ以外の誰かが、こうして窓に板を打ち付けたって、そういうことになるのか?」

「そうね。それしか、あり得ないわ。でも、誰が、なんのために──」

 多分、ここで八ヶ橋は。

“あの人”だなんて考えているのだろうけれど。

 残念ながら、それは違う。

「まあ、とりあえず、その事件があった、発端というか、きっかけというか、その部屋に行ってみようぜ。そこにひょっとしたら、何かあるかもしれないし」

「ええ、そうね。こっちよ」

 五年前とはいえ、流石に住んでいた家となると、間取りくらいは覚えているらしい。まあそもそも、この女は頭がいいだろうし、記憶力というのも、それなりにいいのかもしれないな。

 そこまで広くはない、平屋だった。

 ざっと見た感じ、古い造りの家で、部屋もダイニングキッチン、リビングと思しき(朽ちているために見分けがつかない)部屋、御手洗と浴室、そしてあと一部屋。それくらいしかなかった。

 広くはないというか、僕の家からすると、狭いくらいかもしれない。

 八ヶ橋に兄妹の類いが居るという話を聞いたことはないから、多分おそらく、両親との三人暮らしだったのだろう。それなら、この広さでも特に不自由ない、とまでは言わずとも、暮らしていけるくらいの、そういう広さだった。

「ここよ」

 そうして思案しているうちに、目的の場所──その部屋の前にたどり着いた。

 所々破れて(破れるどころか枠も折れている)、ボロボロになった障子。

 残っている紙には、赤黒いものもあった。

「いざこうして相対すると、どうしても竦んでしまう。情けない話だわ」

 冷徹な声音で、自分に言い聞かせるように、自分を叱るように、八ヶ橋は言った。

「ただの過去のはずなのに、その過去が目の前に来ると、いざこうして、何かしようとすると、どうしても、思い通りにできない。克服して、乗り越えたはずなのに、一度はそうしたはずなのに、二度目が怖くて仕方がないなんて。一度目はどうやって乗り越えたのやら、全く、皆目見当もつかないわ。あの時より自分は成長したと、そう思っていたけれど、まやかしで、言い訳でしかなかったのかもしれないわね」

 言い訳ですら、なかったのかもしれない、と。

「ごめんなさい、また辛気臭い話をしてしまったわ。もう大丈夫。這入りましょう」

 無理をしているだろうというのが、おおよそ手にとるようにわかってしまった。

 けれど多分、この後さらに無理をさせてしまう。

 もしも八ヶ橋が無理を通り越して、どうにかなって仕舞ったら。

 僕は何か、できるだろうか。

 乾いた音を立てて、障子か左にずれていく。

 スマホのライトに照らされ、顕になった部屋は。

「……っ」

「おい! 大丈夫か」

 急に力が抜けたように倒れそうになる八ヶ橋を、すんでのところで抱き留めた。

 何か柔らかいものに触れてしまうような状況なのに、残念ながらそういう感触には恵まれなかった。

「え、ええ。大丈夫。ちょっと、貧血なのかしらね」

「この光景を前にして貧血とか言うな、ぞっとするだろうが」

 この光景、というのは即ち、そう。

 部屋の至る所に赤黒い液体が散り、乾き、染みになって、滲んで。

 グロテスクと表現していい、そんな光景だった。

 この場所で誰かが殺されたんじゃないかと、一眼でわかるような光景。

 けれど、これだとおかしい。

 まず最初の、“おかしなところ”。

 八ヶ橋が言うには、母親は一切の出血なく、ただ“そこ”から心臓が抜き取られて、まるで初めから“そこ”になかったかのように消えて、倒れていたはず。

 なのにこの部屋には、こうして、血が飛び散った跡があって、乾いて、滲んで、こびりついている。

「どうして…?」

 ふらふらと立ち上がりながら、八ヶ橋はそう漏らす。

「私はこんな光景、知らない」

 見たことがない、と。

 まだもう少し、粘るつもりで、我慢するつもりで、頑張ってもらうつもりだったけれど。

 どうやらこれ以上、八ヶ橋に無理をさせるのは危険らしい。

 現に八ヶ橋は、わなわなと震え、血色のいい白い肌は青ざめ、いつ倒れてもおかしくないような有様だった。

 恐怖に駆られた人間は、やはりこういうリアクションをとるものだと。あの日の僕と同じように。

 八ヶ橋にこれ以上無理ができないなら、今度は僕が無理をする番、なのかもしれない。

 どっちにしろ、八ヶ橋が音を上げようと上げまいと、僕が無理をするのは避けられないことだけれど。

「なあ、八ヶ橋」

 努めて優しく、せめてこの間は落ち着いてもらおうと、細心の注意を払う。

「一旦、ライトを消さないか」

 それに対し八ヶ橋は、震えた声で、

「どうして…?」

「一旦ライトを消して、この景色から離れよう。真っ暗になるけれど、隣に僕がいるから大丈夫だろ」

 自分でも何を言っているのか分からなかったけれど、それこそ脊髄反射で出てきた言葉がこれなのかもしれないから、今はその言葉が功を奏すことを信じるほかない。

「そうね、そう、しましょう」

 言って、八ヶ橋がスマホのライトを切る。

 少し遅れて、僕もそうした。

 本当に、真っ暗。

 八ヶ橋の目には、何も映っていない。

 ただ、出処のわからない恐怖に怯えている。

 けれど、僕の目は。

 暗闇の中でこそ、“よく見える”。

 それはきっと、より残酷な真実かもしれないけれど。

 僕の目に映る真実が、八ヶ橋の求める“何か”かどうかはわからないけれど。

 ここまで無理をした八ヶ橋に応えて、僕も無理をしよう。

「…えっ⁈」

「いいから、落ち着けって」

「どういうつもりなの、どさくさに紛れてそういうことを──」

 今僕は、八ヶ橋と手を繋いでいる。

 手を繋いで、落ち着けようとかそう言う甘い理由ではない。

 こうしないと、“見せられない”から。

「落ち着いて、目を瞑るんだ」

「一体何が──」

「頼む、八ヶ橋」

 僕は縋るように。

 心の底から、お願いした。

「もう過去から、逃げるのはやめよう」

 さて、答え合わせと洒落込もうじゃないか。

 逃避行の果てにたどり着くものが何か。

 起承転結一点も欠くことなく、“見せて”やろう。

 それが、僕にできる唯一の無理なのだから。


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