2.向き合うべきもの

「ここで一旦、話を切ろうと思うのだけれど」

 長々と自らの過去を、あまり他人に語って聞かせたくはないであろう過去という、ある種一つの歴史を。

 赤裸々に語ってみせた、聞かせてみせた八ヶ橋が、小さな溜息と一緒にそう言った。

「ああ、そうだな。まず一旦、ここまでで、“おかしなところ”を整理した方が、効率が良いというか、後先楽になるというか、まぁ要するに、お前の、要点が纏められて、簡潔な完結を目指した話が、もっと簡潔になるように、もっと終わりに──始まりに近づけるように、もう少し、掻い摘んでみることにするか」

 そう言って僕は、制服のポケットから手帳を取り出す。

 進級して間もない四月、そこそこ暖かくなってきているが、僕は詰襟の学ランを着用している。シンプルに、衣替えに間に合っていないというか、追いついていないというか、“それどころではなかった”から、こうして、まだ、学ランの下に、長袖のカッターシャツを着て、下半身には、少し生地の厚い、謂わば冬用のズボンを履いている。

 学ランというのはポケットが多く、とても便利に思う。

 スマホだって、手帳だって、その他小物を仕舞うことができる。

 誰だったかは忘れたが、二年の頃のクラスメイトの一人が、内ポケットに文庫本を忍ばせている、という話をしていた。

 理由を訊ねてみれば、いつか、通り魔に遭って、刃物で胸を刺された場合、もしくは銃で胸を撃たれた場合、この本が身代わりになって護ってくれるから、だとか言っていた気がする。

 常日頃、普段から通り魔に襲われた時のことを考えて過ごすというのは滑稽な話のような気がするけれど。

 しかし、刃物はまだしも、正直、銃で撃たれた場合、そんな薄っぺらな文庫本じゃ貫通してしまうのではないか、というのが僕のもっともらしい感想で、そもそもの話、立ち返った話、そいつは学ランの左ポケットにそれを収納(あるいは装着)していたのだが、それは確かに、心臓の正面に当たる位置ではあるのだが、そう正確に、ましてや通り魔が、人を“刺す”ことしか考えていないような、下手をすればそれすら、何も考えていないような通り魔なのだから、そう正確に心臓を狙ってくるとは、考えにくい。冷静に、相手を殺す気で、それこそ、怨み、嫉み、嫉みなどという負の感情が、特定の誰かに向いていて、その刃先が、銃口が、特定の誰かに向けられているのなら、それは確かに、心臓を狙うだろうから、御守り程度にはなるのかもしれないけれど、それも結局、御守り程度なわけで。

 本当に、御守り程度にしかならない、御守りだと、僕は思った。

「それは違うわよ、槇野くん」

 そう言って彼女は、八ヶ橋は──僕の首元に、手刀のように、その細い腕を、斜め下から、頸を貫通して、後頭部を狙うかのような、低い、低い軌道で、首の皮一枚、それくらいのところに手を伸ばし、本当に、首の皮一枚の距離感の位置に、爪を立てていた。

 一瞬の出来事だった。

 僕がこうして、咄嗟に仰け反っていなければ、顎を上げていなければ、おそらくきっと、少なくとも、僕の首に、爪が刺さって、刺し傷──とまでは行かずとも、切り傷ができていただろうと、そう、ある種の危機を、今までで一番身に覚えのない危機を目の前にして、のんびりと、考えていた。

 いや、全然のんびりしてない!

「何をするっ!」

 僕は仰け反ったまま後ろに下がり、自分の首を摩って、怪我がないか、要するにあいつの爪が届いていなかったかを確認する。

 幸い、手のひらに赤い液体は、鉄の味のする液体は付着していなかった。

 本当に、ギリギリセーフと言わざるを得ない、すんでのところでの回避だった。

 八ヶ橋は腕を引き、姿勢を直し、言い放つ。

「本当に殺す気なら、刃物も、銃も、そんなまどろっこしいものは要らないわ。こうやって、相手の首を狙えば、かなり高い確率で、相手を屠ることができるもの」

 だから、そんな御守りは、御守り程度にすらならない、と言い棄て、ベンチに腰を下ろす。

 いや、だから。

 怖すぎるだろ──!

 一体僕が何をしたっていうんだ! 無罪だぞ僕は! 何かにつけてこいつ、僕のこと殺そうとか、屠ろうとか、そういうことをしているんじゃないのか⁉︎ だったら僕は、年中厚手のマフラーをして過ごさなきゃいけないっていうのか⁉︎

「それも無駄よ。マフラーなんて長いものを首に巻いているのなら、そのマフラーで首を絞めるだけでいいもの」

 こう、きゅっとね。と言い、空中で一本の紐を引っ張る素振りをする。けれど、それが妙にリアルで、今までに何人か本当に絞めてきたのではないかと、そう思わされる、思わざるを得ない、洗練された動きだった。

 無駄に洗練された、無駄のない無駄な動き。

 そう評するに、値するのかもしれない。

「それで、歓談ついでみたいになっているけれど、槇野くんの言う、“おかしなところ“というのは、一体、なんなのよ。この話を簡潔に完結させるにあたって、見逃しちゃいけない、大事なピースになるのは、一体、なんなのよ」

 本当に急だと思わざるを得ないけれど、まあそもそも、僕の『学ランの内ポケットに仕舞われた文庫本が、御守りになるかどうか』だなんてどうでもいい話の方が、急だし、唐突だし、脈略のない話だったと、思わざるを得ないけれど。

 というか事実、どうでもいい話だった。

 こんな話をしてしまったから、僕は肝を冷やしてしまったのだから。

 くわばらくわばら。

 閑話休題。

 先ほどまでの八ヶ橋の話の中の、おかしなところ、言い換えるなら、話の中の、人生の中の、“異物”。

「ふむ、遺物ね。確かに、私の人生そのものがおかしなものだとは、私も思っているけれど、なかなか、言い得て妙ね」

「いや、その遺物じゃなくて、異物だから。たしかに、お前が遺してきた、歴史みたいなもんだから遺物なのかもしれないけれど、その異物が、遺物なわけで──」

「言っている槇野くんの方こそ、こんがらがっているじゃない。あなたは私に、いいように毛玉に取られているのよ」

「毛玉⁉︎ 僕は猫科の動物だったのか!?」

「にゃーん」

「その猫の手のポーズをやめろ! 心なしか、お前の頭に猫耳が生えて見えるだろうが!」

「それだけじゃないわ、見なさい」

 そう言って、くるりと後ろを向く。

「尻尾も、生えているわよ」

 その八ヶ橋のスカートの裾からは──

 くねくねと動く、しなやかなふさふさとしたもの。

 思わず手を伸ばして、掴みたくなる、逆らい難い欲望を掻き立てるもの。

 猫の尻尾が、生えていた。

「わけがあるかあああ‼︎」

「流石は槇野くん、ノリツッコミに定評があるだけのことはあるじゃない。モノローグ含め、なかなか、良いテンポだったわよ」

「そんな定評はないし、何よりお前に評されるのが納得いかないんだよ! どこまで話の腰を折るつもりだ⁉︎ これじゃあ話が進まないだろうが!」

「いいえ、話は進んでいるわ。あなたから私への、一方通行だけれどね」

「くそっ、この女…」

 一度、それこそ絞めた方が良いんじゃないか。

「それと、槇野くん。この話だって、一切合切が、全てが、余すところなく無駄だった、だなんてことは、私は思っていないのよ」

 視線を上に向け、ついさっきまで紅かった空を、今は闇に覆われつつある空を見つめながら、八ヶ橋は言う。

「あなたも存外、あの作品のことが好きなことが、よく分かったから。よく伝わってきたから」

「ああ忘れてたよ、本当に。いつ怒られるか、いつ絞められるかわからないような、吊り橋を渡るようなそんな話だったけれど、それでもまあ確かに、こうやってお前と僕との間に、こういう共通点というか、共通の話題というかがあって、少しは気が楽になったのは、あるかもしれないな」

「何を言っているの、気持ち悪い」

「なんでここで罵倒されなきゃいけないんだ⁉︎」

「私が言っているのはそういうことじゃないのよ。もしも仮に、これがあの作品の世界なら──赤本の中なら、きっとあなたは私を助けてくれるし、私を助けようとするあなたを助けようとする誰かがいて、そして私はきっと、二番目──もとい三番目ということに、なるのでしょうね」

 だから、だからつまり。

「私は確実に、助かるということなのかしら。私はまだあなたに、私の辛いところを、私の思うところを伝えてはいないけれど、ただ悲惨だった過去を、そこにあった事実を述べただけだけれど。それもまだ一部でしかない。それでもあなたは、そこからあなたは、私を、救い出してくれる、底から掬い出してくれると、期待してしまっても、いいのかしら」

 それは、さながら切実な叫びで。

 八ヶ橋の、本心とも呼べるべきもので。

 いささか心を許すには早すぎる気がしなくもなかったけれど、実際そうなってしまうくらいに、八ヶ橋は滅入っていると考えても、いいのかもしれない。

 救い出す。

 底から掬い出すこと。

 巣食うものを、追い出すこと──。

 僕にそんなことが、出来るのだろうか。

 僕一人の力で、八ヶ橋一人を助けるなんてことは、出来るのだろうか。

「わからないよ」

 だから、僕はそうやって曖昧な答えを返した。

「そもそもここは、あの世界じゃないし──僕達の世界であるわけだし、あの通りに、そのままに〈物語〉が進んでしまったら、それこそ、二次創作な世界でしかなくなってしまうだろ」

 ここはここ。

 そこは、底。

「だから、お前が何を懸念しているのか、お前が何を思って僕にそういうことを告げて、どういうことを望んでいるのかは、まだわからないけれど、まあとりあえず話してみろよ。話すだけで楽になる、なんてことは言わないけれど、抱え込んでいたものを離すことで、手放すことで、軽くなるなんてことは往々にしてあるわけだから、とりあえず、やるだけのことはやってみろよ。その後で、僕に出来ることを、僕にだってできることを、やれるだけやってみるからさ」

 言い訳なのかもしれない。自分に対する、八ヶ橋に対する、言い訳。

 八ヶ橋には話すことを強要する割に、自分は出来ても出来なくても恨みっこなしだと、そう言外に告げたようなものなのだから。

 だから、やってみるだけ、やってみよう、と。

「そうね。私の話の続きの部分が、それにあたるかは分からないけれど、とりあえず、駒を進めましょうか。コマ送り、してみましょうか」

「ああ、進めよう。ただその前に、やっぱり一度整理した方がいいと思うんだよ。その上で続きを、お前の抱えている物の、残りを聞かせてくれ。そうすれば僕にでも出来ることが、もう少し見えてくるだろうから」

 僕にでも、出来ること。

 それは即ち、誰にでもできることなのだと、自分に言い聞かせてきた。

 何ら特別じゃない、誰にでも出来るから僕にでも出来るし、その逆も然り。槇野聖音に出来ることは、八ヶ橋廻凛にだって、そうじゃない誰かにだって、出来るはずの事だと。

 僕にしかできないことをやる日なんて、来なければいい──と。

「ええ、そうね。わかったわ。ただ、こうして無駄話をしている間に、槇野くん含め読者加えて作者までもが私の話の内容を忘れていそうなものだけれど、どうなのかしらね」

「確かにそうだ、ご最もだ。僕は確かに忘れているし、読者は右往左往する話の内容に目が回っているだろうし、作者はきっと、未だに“次にふざけられるのはどこだろう”とか考えて、シリアスシーンをさっさと終わらせようとしているだろうからな」

 全く迷惑な作者だ。

 僕達の青春を、それまでの足跡を、なんだと思ってるんだ。

 それはそれとして、今度こそ。

 閑話休題。


 八ヶ橋の半生と言っていいもの。というか、今の八ヶ橋は高校三年生で、さっきの話だと高校に上がりたてのところまでだったから、半分以上。十八分の十六。

 この長い時間を、あの短い時間で語られて、その中にあった、齟齬というか、やはり、異物。

 過去に遺した、異物。過去への異物混入。

 八ヶ橋の語った過去を精査して、異物を探し出して、次に、今に繋げる。

 事象改変。粗探し。

 これからやるのは、そういう作業だ。

 とりあえず、すっかり日の落ちた空を眺めて、ぼーっと、さっきまでの話を思い出す。

 脳内で、CVが誰かは分からないけれど、八ヶ橋廻凛の声で、再生し直す。

 加えるようではあるけれど、存外、八ヶ橋廻凛という少女はいい声をしている、というのが、先まで長話を聞いていた僕の感想だった。

「とりあえず、まずは──」

 彼女の人生が、八ヶ橋廻凛の人生が狂ってしまった、大元、元凶、根元にあたるのは、やはり。

「お前の父親、未だに見付かってはいないんだよな?」

 聞きにくいことを、答えさせにくいことを聞いてしまった自覚はある。

 けれど、それこそ、僕の生半可な遠慮で、覚悟の決まった八ヶ橋を咎めることになるのだけはあってはならないから、僕は努めて冷静に、平坦に、そう訊いた。

「ええ、そうね」

 八ヶ橋は一度ゆっくりと瞬きをして、もう一度思い出すように、思い起こすように語る。

「あの日以来、本当に、一切の音沙汰なく、疎遠どころか、本当に赤の他人のように。まるで元から存在しなかった人物かのように、居なくなってしまったわ。いえ、正確には、少し違うかもしれないわね。元から居るようで居ないような人だったもの、あの人は。確かに私は、私の家庭のことを問題のない家庭と、そう評したし、そう思っていることは今も昔も変わらない、不変で、普遍のことなの。とはいえ、父親と母親の仲というのは別段良いわけでもなかったし、その逆でも──不仲でもなかった。本当に、必要最低限の会話しかしていなかったと思うわ。いいえ、会話をしていたのかしら。いつも、どちらかが質問をして、どちらかが答える。それも大抵、“はい”か“いいえ”の二択で答えられるような質問だけ。けれど、だからこそなのかしらね。喧嘩をしているところは、一度も見たことがなかったわ。だから私は、仲が良かったとも、悪かったとも思わなかった。そういう二人、そういう人間なんだと、そう思っていただけよ」

 こういうのを、プラトニックとでも言うのだろうか?

 いや、違う気がするな。

 どうあれ、八ヶ橋の両親について言い表せる言葉が、なかなか出てこない。

 そんな中、捻り出したとも言える、唯一、当てはまりそうな言葉。それが、

「冷め切っていた、ってことか」

「ええ、世間一般、大抵はそう見るのでしょうね。そう見ていたのかも、しれないわ」

 世間一般。普遍。大抵。常識。当たり前。普通。

 そのどれもからずれていたと、僕は──僕だけではなく、当時の八ヶ橋家を見ていた人たちは、見ていた、評していたのだろう。

「けれど私は、それを普通だと思っていたわ。だって別に、私に損得のあることでも、なかったことだから。私に対してだけは、両親揃って良心的だった。私を巡ってだけは、両親と呼べるにふさわしい人物だったと、そう思うの。けれど、なぜかしらね。あの日以来、私は、父親のことを思い出せない。どんな顔だったとか、どんな声だったとか、どんな人となりで、どんなふうに私と接してくれていたのか。そういう具体的なことは一切、わからない。顔はもちろん、写真でも見れば分かるのでしょうけれど、事前に、その人物が父親だということを知らされて、その写真を見ない限りは、私はその人物を父親だと認識することは不可能だと思うわ」

 たしか、廻凛は回想の中で、立ち返る切っ掛けとして、母親が夢の中に出てきたと言っていた。

「何を言っているの、槇野くん。私は一言も、お母さんが私の夢に出てきた、だなんてことは、言っていなかったはずよ。はあ、まったく。本当に、私の話を聞いていたの?夢現を彷徨っていて、それで私の話をほとんど、聞いていなかったから、それともある程度しか聞いていなかったけれど、そのある程度の中から部分的に抽出して、あたかも話を聞いていた体を装うために、整理だなんだと嘯いて、こうして時間を使おうとしているってことだけなのかしら。はあ、呆れてものも言えないわ。今すぐ半旗を翻して、爆弾を抱えて槇野家に突撃してしまおうかしら。ええ、それがいいわ。それなら私の命も有効活用できたと、胸を張って天国のお母さんに報告ができるわ」

「待て待て待て待て! おかしいぞ! いろいろとおかしいぞ!」

 僕は慌てて、ベンチから立ち上がった八ヶ橋を制する。

「そんなことしたら天国のお母さんはいたたまれないし、そもそも反旗を翻すってお前、僕に隷属してたか? お前にとって僕はご主人様だったのか? それになんで僕の家なんだよ! 殺すなら僕だけで良いだろ! それに、とっておきというか、大前提だけれど、僕はお前の話を懇切丁寧に聞いていたよ!」

 本当に必死だった。僕だけの命ならまだしも(全然良くはないが)、家族まで人質に取られたら焦らざるを得ないというか、それはもう、文字通り必死にもなる。

「冗談よ。重い話が続きそうになったから、会話のエスプレ…香辛料として、私の渾身のジョークを炸裂させただけよ。嫌だわ、槇野くん。被害妄想が激しすぎるし、自分のことがよほど好きなのね。私を性奴隷にしようだなんて」

「お前…本当にどれだけ突っ込ませるんだよ。これだと本当に、いつ噛むかわからないよ。だから、順を追って、簡潔に突っ込ませてもらうと、お前はきっと会話のエスプレッソとか言って、それこそあの物語の影響だろ? それを香辛料に直したのは良いけれど、そこは普通横文字でいいだろ。あと性奴隷だなんて言っていないし、その言葉も物語を連想させるというか、今後そういう後輩が現れてきそうで怖いよ僕は!」

 いつまで続くんだろう、このやりとりは。

 そろそろ本当に話を進めないと、惰性で突っ込んでいるだけになってしまいそうだし。

 八ヶ橋と作者には悪いが、とりあえず、進めなきゃいけない話を、進めなきゃいけない時間を優先しよう。

「はあ、疲れてきた。ええと、なんだっけ……、ああ、そうか。お前の夢の中に母親が出てきたか出てきてないかって、そういう話だっけ」

「だから言っているでしょう、出てきていないわ」

「まあ待てよ。少し落ち着けよ。デリケートな話なのはわかるが、実際僕はお前がそういうことを言っていたって、しっかり記憶しているんだから」

「デリケートゾーンが濡れるだなんて、いやらしい人ね、槇野くんは。まだあなたに濡らすほど、欲情してはいないわ」

「お前はそろそろシリアスに戻れ! なんだよその際どい発言! 誰も求めてない発言をするな!」

「嘘ね。今すぐ抱いて、穴という穴から液体を噴出させてやるぜ、げへへ。とか思っているのでしょう、知っているわよ」

「そんなこと一ミリも思っていねぇよ! 人を変なキャラ付けするな!」

「じゃあつまり、私なんて興味ないって言うの…?」

「っ…」

「ねえ、槇野くん。もう夜は遅いし、続きは私の家ですることにしない? 生憎私は一人暮らしで、寂しい夜を毎日過ごしているの」

「…知らねえよ」

「私をその気にさせておいて、それはあんまりだと思うのだけれど」

「だから知らねえって」

「ねぇ、槇野くん」

「お、おい? 何をする気だ…?」

 おもむろに立ち上がり、僕の右手を掴む。

 そして──、

 パンっ!!!

「いってぇ! 何すんだお前!」

「眠気覚ましよ」

「僕は眠いだなんて一言も言っていないだろうが! 暴力に理由をつけるな!」

「はあ、眠くなってきたわ」

「それはつまり平手打ちしてくれって、そういうことでいいんだな⁉︎」

「嫌よ。あなたに触れられるなんて。それならさっきと同じで、自分の手でするわ」

「だからって、僕の右手を持ち上げて、それを僕の右頬にぶつけなくてもいいだろ!」

「自虐趣味がおありなのね。だから年中長袖ってわけなのかしら。話を聞くだけなら聞いてあげるわよ? 話せば楽になるって言うじゃない?」

「それが飴と鞭のつもりなら、お前の場合両方鞭だし、飴を舐めた瞬間鞭で打たれる気がしてならねぇよ!」

「こうして八ヶ橋にぶたれるのも、存外悪くないし、なんなら僕の趣味嗜好にぴったりだと、僕は素直にそう思った」

「他人のモノローグを奪うな! 僕は今不快感百パーセントだよ!」

「閑話休題」

「何事もなかったかのように場面転換するな!」

 忙しい女だ。ついて行けている自分が誇らしくなるくらい、展開が目まぐるしい。

 いや、絶対誇れないし、誰かに見られたくもないけれど。誰かに見られたらその時は、というくらい。

「それはそれとして、本当に私はお母さんのことを喋った覚えはないわ。お母さんに誓ってそう言い切れるくらい」

「そこで使うなよ、お母さん。けれど、本当に言っていたはずなんだよ──あ」

 なるほど、そういうことか。

 確かに、夢の中の語りでは、夢の中の母親は母親でいたけれど、八ヶ橋が現実に戻ってきて、つまり目を覚ました段階では、それが誰だったのか、誰に諭されて、自分は涙を流しているのかを理解できていなかった。所謂、深層心理というやつなのだろうか。けれど、八ヶ橋にとってそれが誰だったのかは重要ではないし、気にしなければいけないことでもないし、それよりも、こうして立ち直った自分がいるということのほうが、大事なことでだというのなら、それは正しいことだと、僕は思う。

 正しい。けれど。

「まぁ、そういうことも、あるよな」

 僕が忘れようとしたように。

 なかったことにしようと、したように。

 八ヶ橋にもきっと、そういう類のことがあっても仕方がないと、僕は自分と彼女とを重ね合わせることで、折り合いをつけることしかできなかった。

「まあ、いいのよ。これなら、これで」

 少し寂しそうに、儚げに。八ヶ橋はぽつぽつと呟く。

「確かに私は、薄情な娘だったと、そう思っているわよ。授業参観とか、運動会とか。そういう、親が参加するイベントに両親を誘ったことが、そもそもあまりないの。あまり他人に見せたくはなかったもの。あまり、他人に見せて良いものだとは、思わなかったもの。仕方がないと、思っているわ。私は確かに、家庭のことに関しては普通だと思って疑わなかったけれど、その狭い普通も、広義の普通の中では、普通ではなくなってしまう。それこそ、私たち三人のありようが異物になってしまうものね。考えたことがあるわ。誰々さんの家の子だったら、私はどんなだっただろうって。けれど、考えたところでどうしようもないって、私はすぐに気づいたの。だから私は、せめて、世間に出ても恥ずかしくないように、親を辱めないために、勉強も、スポーツも、それなりにこなしてきた。人間関係だって問題なかった。だからこそ私は、いつしか、私というものを見失っていたのかも、しれないわね。だから、あの日──お母さんがいなくなった日、お父さんが消えてしまった日に、壊れてしまったんだと思う。私を確立するための材料が、両方とも欠けてしまった──違うわ。私はあの二人がいながらも、確立なんてしていなかった。確率的に生まれただけの、不幸な、幸の薄い子供でしか、なかったはずなの」

 きっと、辛いはずのことを、あくまでも無表情を装って、感情を織り込まずに、思うところを、余すところなく、顕にしていく。

「だから願ったの。普通になりたいって。けれど、それは無理な話だと思わない?」

 普通になるということ。それは、願うまでもなく、“普通にしていれば”叶うことのはずなのに。

 八ヶ橋は、普通にしていたが故、普通になろうとしたが故、普通ではなくなってしまった。

 そういう部分、僕と八ヶ橋は真逆に、対称に居ると思う。なぜなら僕は、意図して、意図せず、どちらとも言える形で、普通を捨てたようなものだから。

「ねえ、槇野くん」

 再び、問いが投げかけられる。

「今の私は、普通になれているかしら?普通が蔓延るこの世界に、慣れているかしら?」

 八ヶ橋は真っ直ぐに僕を見つめ、自ら答えを告げようとする。

「答えは──」

 そう、この問題の答え。

 八ヶ橋廻凛が普通の少女であるかの答え。

 それは、そう。

 あの日、両親が居なくなった日。母親が“心臓を失い”、父親が存在を消したあの日に。

 とっくの昔に、出てしまっている答えなのだから。

「YESだ」

 八ヶ橋の言葉を遮るように、言わせまいとして、僕は言う。

「お前の人生を、お前が否定してどうするんだよ」

 個人の人生を、その人にしか与えられていない、誰一人として同じところのない物語を。

 否定することは、たとえその当人であっても、許されることではない。

 その物語の作者が誰かは、きっと分からない。当て付けるなら、神様だと言うべきなのかもしれないが、それでもやはり、作っただけ。

 端から端まで、ではなく、あくまで、起点を作っただけ。

 機転を作るのは、物語の主人公の力。

「お前が普通かどうかなんて、そんなの、誰にも分からないよ」

 普通という概念が曖昧な中で、“普通”かどうかに縛られるのは、間違っている。

「だけど、だからこそ、僕はお前の人生を肯定してやる」

 自分で意味を見出せなくても、それでも心配することはない。

 なに、簡単な理由だ。

「物語には必ず、ヒーローが現れるからな」

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