見聞きするもの

1.八ヶ橋廻凛について

 では、語るとしよう。

 八ヶ橋廻凛やつがはしみりん、彼女の物語を。


 廻凛はとある田舎町に生まれ、両親との三人暮らしだった。何の障壁、問題もなくすくすく育った。ごく普通で、ありふれた家族。そう表現するにふさわしいもの。

 当時の彼女は素直で社交的で友人も多く、幾度か男子からも女子からも告白をされたことがある。勉強もできてスポーツもできて性格も良い、尚且つモテる完璧美少女だった。

 ちなみにその頃は今と違って髪型がショートボブであったことを付け加えておく。

 そして、中学二年生。

 秋、十五夜のある日。唐突に人生を大きく狂わせる出来事が起きる。


 ──母親の死。


 それも、異状死と言えるもの。

 荒れた寝室の真ん中、仰向けに倒れていたのだが、外傷が無いにも関わらず、心臓が体内から消えていた。

 一切の出血も傷跡もなく、まるで元々そこに無かったかのように、心臓だけがすっぽりと消えていた。

 廻凛が翌朝目を覚ました時、すでに母親は息絶えていて。

 そして当の父親は姿をくらましていた。

 警察が父親の行方を探ってみたものの、一切の手がかりはなく、公には消息不明ということになった。しかしこの時警察は、父親が殺害したのではないかという線で捜査をしていたという。妥当といえば妥当と言える判断だが。

「この時、何かおかしいことはなかった?」

 警察からの事情聴取。

「君は隣の部屋で寝ていたんだよね。お母さんの悲鳴とか、部屋を荒らされる音とか、何でも良いから変なことは起こっていなかったかな?」

 何を聞かれても、一切返事をせず、不定期で瞬きをするだけ。透き通っていたはずの瞳は翳り、淀み、濁り、一切の光を湛えない。

 刑事に連れられ精神科を受診した結果、ショックによる記憶喪失、人格障害であると診断された。

 以上を受けて、警察は事情聴取を断念。身辺調査の結果、唯一の当てとして母方の祖父母が廻凛を引き取ることになった。

 そして、廻凛は今までとは全く違う人生を歩み始める。

 引き取られたことにより、田舎から都会である西京都に移住した。取り敢えず中学を転校したのだが、精神的なダメージの影響で勉強もスポーツも全て手に付かず、不登校になる。

 内向的になり、全ての人に敵対的な態度を取り始めた。ことあるごとに他人に噛みつき、徹底的に対人関係を悪化させていった。髪を切ることが面倒になって、短く切り揃えられた髪は年月を経るごとに長くなった。手入れの整った髪ではなく、髪質は最悪で常に寝癖がついているような状態。

 そのまま月日は流れ、中学三年を前にした春、三月。

 相変わらず引きこもり、不登校を続けていた廻凛。

 そんな中、夢を見た。


「もう、何してるの?」

 聞き慣れたはずなのに、恐ろしく久しぶりな声。

「ちゃんと学校に行かないと、自分がダメになっちゃうよ?」

 叱られているのだろうけれど、どうしてか自然と、安心していた。

「お母さん、感心しないなぁ」

 間延びして、どこか他人事のようで、それでいて親身だからこそ言える言葉。

「ほら、あなたは出来る子なんだから」

 唐突に、励まされた。出来る子だ、と。

「お母さんと違って、あなたは出来る子」

 違う、私は出来る子なんかじゃない。

「あなたは出来ない子なんかじゃ、絶対にないわ」

 嘘、今の私は落ちぶれて、堕落して、理性を持たない、まるで獣。

「ね、廻凛?」

 囁くように、私だけに聞こえるように、声は鼓膜を撫でる。

「あなたなら、今からでも大丈夫。どこへだって行ける。何にだってなれる」

 まだ間に合うの?

「そう、まだ間に合う。あなただから、間に合うの」

 私は、何をすればいいの?

「まずは綺麗になること。折角あなたはどうしようもないくらい可愛いんだから、しっかり磨かないと損よ?」

 まずは、見た目から…。

「うん。そしたら今度は、もう一度、外に出てみよっか。もう誰かと無理に関わらなくても大丈夫。本当に関わらなきゃいけない人が現れるまでは、あなただけの世界でいいの」

 私だけの、世界?

「そうよ。あなたの、あなただけの世界なら、あなたは何にだってなれるでしょう?だから大丈夫。まずは自分を大事にしなさい。私があなたを大事にしていたように、それ以上に、自分を大切にしなきゃダメ」

 自分を、大切にする…。

「それができれば、あなたは昔みたいに、いいえ、今まで以上に輝ける。だってあなたは──」


「私の大事な大事な、たった一人の娘なんだから」


 そこで、彼女の夢は終わりを迎える。

 目を覚ませば、廻凛は泣いていた。頬を濡らし、涙の痕をしっかりと残したまま、鏡に写った自分と向き合う。

 夢の内容を思い返そうとするが、あまり鮮明には思い出せない。

 夢というのは悔しいことに、どうでもいい内容に限ってはっきり覚えているし、とても大事な内容に限って不鮮明であることが多い。

 ただわかるのは、誰か愛しい人に、かけがえのないことを言ってもらえたということ。

 きっと、自分の涙はその嬉しさが原因なのだろうと、それだけしか分からなかった。

 だから、その声に応えなきゃいけない。

 そのためには、自分を変えること。それが大事だと、言っていた気がする。

「私は、出来る子なんだから」

 そうやって、自分を励ますことから始めた。

 まず、いつかぶりにちゃんとお風呂に入った。引きこもっていた間は、祖母に体を拭いてもらっていただけ。だから、こうして湯船に浸かるのは、半年ぶりくらいのものだ。

 服を脱ぎ、洗面台の鏡に写る自分と向き合う。伸び散らかした髪は肩のあたりまで伸びていた。

「…パサパサ」

 指に髪を絡ませてみるが、あまり上手くいかない。多分、最悪な髪質のせいだろう。

 黒く、しなやかで、艶があった髪。まずはそれを取り戻すところから。

 湯船に浸かり、久々の温もりを感じる。夜寝る時は冬でも布団無しで寝ていたから、暖かさとは無縁の生活をしていた。

 だから、よく見てみると肌は血行の悪化で青くなり、病人のようになっていた。

「はぁーー」

 けれどその肌も、お湯で温めていくうちに見た目を変え、幾ばくかマシになってきた。血が巡るじーんという感覚が心地よく、昔よりも長く湯船に浸かった。

 蛇口を捻り、シャワーを浴びる。頭から水をかぶるのも、ひどく久しぶりだ。一通り身体を濡らし、シャンプーを手に取る。掌の上で泡立て、髪に染み渡らせる。昔の感覚で洗おうとしたが、妙に泡立ちが悪く、髪全体を洗えない。それもそのはずで、半年の間に髪は六センチほど伸びている。だから、追いシャン、と言うのかは分からないが、さらにもうワンプッシュ、シャンプーを手に取る。入念に髪全体に泡を行き届かせ、斜め上を向いて、シャワーを当てる。するすると泡が髪を伝って背中を流れていく。

「んっ」

 その感覚がどこかくすぐったかった。

 続けてコンディショナーを手に取り、丁寧に髪を撫でてコーティング、保湿する。手櫛をしてみると、引っかかることなくスムーズに指が通った。この感覚もまた、久しぶりだった。

 コンディショナーを洗い流す前に、ボディーソープを手に取り、身体を洗い始める。コンディショナーは塗ってからしばらく置いておくと、より効果が出る。それを思い出したからだ。

「…カサカサ」

 やはり、しばらくまとまな手入れをしていなかった肌は乾燥し、カサついていた。このままの状態では、何が何でも外に出たくない。そう思えるくらい、理性が戻ってきていることには気づけていなかったけれど。液状のボディーソープを体全体に撫でながら行き渡らせる。

「…あれ」

 つま先あたりを洗うとき、前までは脚を伸ばしたままでも届いていた。

「んっ、んーーっ」

 けれども、この時はなぜか届かない。そうして、脚が伸びていたこと、つまり身長が伸びていたことを実感する。大人しく膝を曲げて洗ったが、内心は身長が伸びたことを喜びつつ、少し嫌だなあと、複雑な気持ちだった。

 そうして一通り身体を洗い、最後に頭からコンディショナーと一緒にボディーソープを洗い流す。そうすれば、一先ず入浴は完了だ。

 脱衣所に戻ると、用意していなかったのにタオル一式と着替えが準備されていた。

 多分、廻凛が入浴していることに気がついた祖母が用意してくれたのだろう。

 引きこもり中は着替えを拒否し、下着を着けることも拒否していた。それでも祖母は、無気力な廻凛に代わって下着を着けてくれたり、定期的に服も買い替えてくれていた。

「おばあちゃん…」

 バスタオルで身体を軽く拭き、フェイスタオルで髪の水気を切る。仕上げにドライヤー。熱風に長い髪が揺れ、先端から水滴を散らしていく。さっきとは見違えるくらい毛先が整い、さらっと靡く綺麗な髪が戻ってきた。

「まだ、まだこれじゃダメ」

 けれど、これでは“元通り”でしかない。目指すのは、もっと輝く自分。

 あとで、祖母にケア用品を買ってもらおう。そんな風に考えた。

 髪も、身体も乾かし終え、着替えに入る。用意されていた服は、今まで見たことがないものだった。

 まず、下着。今までは白、黒、灰色のモノトーンで、デザインも全くないものだったけれど、用意されていたのはパステルカラーで、レースのデザインが施され、“年頃の女子らしい”ものと言える。ただ、一つ気になったのは。

「胸、余る…」

 半年近く他の同い年の女の子は見ていないから確たることはわからないけれど、きっと周りより成長は遅い。だから、平均的と言えるサイズ感のこれは、廻凛にとっては文字通り“持て余す”ものとなってしまった。

「まぁ、これからだし?」

 そんな風に背伸びして、自分を鼓舞する。努力でどうこうなるかはわからないけれど、どうにかしよう。

 そうして下着に着替え、さらにそこから部屋着に着替える…はずだった。

 けれどそこにあった服は、部屋着と言えるものではない、どう見てもよそ行きの服。

 春に相応しい白のワンピース。清潔感と清楚感を具現化したようなその装いに、思わずぎょっとした。確かに、半年前はこういう服を着ていなかったわけではないが、好き好んで着ていたわけでもない。確か、何度か祖母に会った時は偶然ワンピースを着ていたことがあった。多分、その影響で祖母が好みだと勘違いしたのだろう。

 そして、その下に隠れていたのが、黒のニーハイソックスだった。

 多分、ワンピースだと生脚を晒すことになり、まだ健康さを取り戻しきっていないままの肌では外を歩きづらいだろうという、祖母なりの気遣いなのだろう。

「え?」

 何か、自分の思考の中に引っかかるものがあった。

「私、このまま外に出るってことなの?」

 気遣いの行き届いた服のチョイス。そして、明らかなよそ行きの仕立て。

 きっと祖母は、廻凛をどこかへ連れて行こうとしている。

「さ、流石にまだ早いんじゃ…」

 とはいえ、このまま着ないでいるのも変だし、何より用意してくれた祖母に申し訳が立たない。

 きっと、この日のために事前に買い揃え、準備していてくれた。どこまで気の回る人なのだろう。その優しさを実感して、少しだけ泣いてしまったことは、内緒にしておこう。

 そうして、清潔感あふれる装いになった廻凛は、自室の姿見の前に立つ。朝起きた時点より、遥かに綺麗な容姿になっていた。

「白百合みたいだねぇ、廻凛」

 というのは、覗き見していた祖母の評価である。

 その場で一回転して、髪と裾を揺らす。我ながらに見事なものだった。

「でも、もっとやれるはず。私なら、もっと綺麗になれるはず」

 まだ満足はしていない。ここからどれだけ、自分を磨き上げられるか。

 ちなみに、白いワンピースは特によそ行きというわけでもなく、単純に廻凛の復活祝いだという。深読みしすぎてどことなくバツが悪かった。

 まず、容姿は整えた。なら今度は内面的な部分。半年もの間勉強もせず、身体も動かしていない。

 それを解消するための一番の手段、それは学校への復帰である。

「どうせなら、転校したら?今の学校だと、あなた居づらいんじゃない?」

 という祖母からの気遣いがあったけれど、廻凛はそれを取りさげ、引っ越し後ほんの少しだけ通っていた家から近い中学へ通うことを選んだ。一年後、自分は高校生になっているはず。そのためにも、自分を変えなければならない。

 廻凛はここから、もう一度、人生を変える決心をした。


 中学三年生になった廻凛は、今までのブランクを感じさせないくらい、勉強もスポーツもオールラウンドにこなした。半年の空白を埋めるくらい、学校でも家でも必死に勉強し、全ての試験で一位を保守。部活は陸上部のエースとして、総体でも好成績を収める。

 けれど、唯一昔と違うのは内向的だった、という部分だ。

 荒れていた過去を知らない者は居ないため、近づいてくる生徒も居ない。だから自然と学校では一人だった。事前に担任には事情を話してあったため、グループ学習となる授業は全て欠席対応を取った。

 そうして、一学期を終える。

 部活を引退し、夏休み頃から高校受験の準備を始めた。祖母からは塾に行くよう勧められたが、金銭的な負担はかけられない、とそれも取り下げ、自宅学習に励んだ。

 そうしてあっという間に受験が近づき、冬休みが目前になった。

 普通であればこの時期には志望校を決定しているものだが、廻凛は未だに決めきれていなかった。

 というのは、行きたかった高校は私立で、祖父母の家からも離れている。祖父は今も会社員で働いているとはいえ、私立高校の授業料に加え、遠距離通学の費用。それら全てを払ってもらうのは申し訳なかったためだ。

「廻凛、お金のことは心配せんでいい。大丈夫、廻凛は八ヶ橋家の最後の希望なんだ。それくらいのことはさせてくれないか」

 と祖父に背中を押され、願書受付締切ギリギリで志望校を“私立夜桜坂高校”に決定、願書を提出。

 冬休み明けすぐに入試があるため、冬休み中はひたすら試験勉強に励んだ。

 そして、迎えた受験当日。

「廻凛、あなたなら大丈夫。今までの自分を信じなさい」

「考えなきゃいけないのはこれからのことじゃない、今のことを考えて、全力で受けてきなさい」

 祖父母に激励され、試験会場である市民会館へ向かった。

 午前の三教科を終え、昼休憩。

 祖母が準備してくれたお弁当を開くと、いい匂いが鼻腔を掠める。

 食欲のままに弁当を平らげると、休憩時間を三十分残していた。午後の教科は社会と理科。どちらも廻凛にとっては暗記科目で、一切不安はなかった。だから、変に焦ることもなく、要点を厳選してまとめたA4コピー用紙を取り出し、一通り目を通そうとした。

「ねぇ、君」

 後ろから、男子に声をかけられた。そのまま、後ろを向くが、

「誰も、いない…?」

 気のせいだったのだろうか。受験勉強に追われて、知らず知らずのうちに疲れていた、という可能性はある。

「ダメだダメだ、しっかりしなきゃ、私」

 頬をパンっ!と叩き、喝を入れる。

 残る試験科目は二教科。試験時間にして100分。

 これを乗り切れば、ひとまず安心できるから。

 時計を睨み、休憩の終わりを待った。



「なるほど、君がもう一人、なのか」


 この声は、誰にも聞こえることなく、緊張の少し緩んだ空間に溶け込んでいった。



 そのまま滞りなく理社を受け終え、無事に入試は終了した。

 この学校には二次試験、つまり面接はない。これで入試は終わりとなる。

 公立高校入試より前に合否発表があるため、受かっていれば公立高校を受験する必要はなくなる。

 だから、あとは待つだけだった。


 時というのは良くも悪くも早く、そして遅く流れる。

 合否発表は一週間後。その日はあっという間にやってきた。

 発表方法は通知書の郵送。家に届く封筒が分厚ければ、その中には提出書類が入っているため合格。薄ければ中に入っているのは“不合格”を懇切丁寧に記した紙が一枚入っているだけのため、薄くなる。

 廻凛の家、正しく言えば廻凛の祖父母の家に届いた封筒は分厚かった。付け加えるなら、“ひとまわり”分厚かった。

 祖父母共に我が事のように喜んでくれて、その日の晩御飯は豪華なものだった。

 そして、思っていたより分厚かった封筒の中には、合格の旨が記された紙と、提出書類が一式。それに加えて、“特待生通知書”も入っていた。

 曰く、「あなたは学力試験において“非常に”優秀な成績を収めたため、厳正なる審査の結果、特待生特級の付与が決定いたしました」とのこと。入学金、授業料など諸費全てが免除となり、学費と分類されるものはゼロとなった。

 これで学校に通うことへの負担はゼロ、というわけではなく、通学に関する問題がやはり残ってしまう。そこで、廻凛の提案は、

「私、学校近くで一人暮らしする」

 というものだった。

 通学する場合、2度の乗り換えが必要になる。祖父母の家は西寄りで、夜桜坂高校は東寄り。見事に真反対で、通学所要時間は2時間近く。そして電車代と最寄駅からの高校直行のバス代は馬鹿にならない。対して、引っ越して一人暮らしすれば、廻凛の暮らし方次第で生活費は減らせるし、アルバイトなどで賄うことも可能。学校までは徒歩で通えるから、過剰な早起きも必要ない。いろいろと計算した上で合理的だったから、祖父母に提案した。

「でも廻凛、こんな早くから一人暮らしで大丈夫? 心配じゃないの?」

 というのは祖母の意見。一人暮らしの物理的、金銭的要因ではなく、廻凛を気遣ってくれてのことだろう。

 正直言って仕舞えば、不安はあるし、心配事も尽きない。けれど。

「今の私なら、上手くやれると思うの。ううん、上手くやらなきゃいけない。だから、私は一人暮らしでも平気だよ」

 どこからか、そんな自信が湧き出ていた。誰かに、「きっと上手くやれる」と言われた気がしたから。

 そういうわけで、廻凛の意見が尊重され、一人暮らしをすることになった。

 祖父母の家も東京都とはいえ、西寄りだから田舎な場所。対して夜桜坂高校は東寄りで大都会そのもの。

 だから、心なしか浮かれていた。初めて足を踏み入れた都会は、想像していたより高く、そして狭い。忙しなく行き交う人々に飲み込まれないように、祖父母と引っ越し先へと向かう。

「えっと、冗談だよね?」

 というのは、廻凛がこれから自分が住む家に入って一言目の発言。

 冗談、というのは、

「私、てっきり1Kくらいのアパートだと思ってた。なのに、どうして私は最上階の1LDKに居るの⁈ 他人の家な気がしてならないんだけど!」

 そう、廻凛のこれからの家。それは、高級マンションの最上階。女子高生が一人で暮らすには持て余しすぎるくらいの良い部屋だった。

 壁、床共に木材中心で、床は白樺、壁は樫。照明は全て埋め込み型で突起が少ない。唯一リビングにだけ、小さめと思えるシャンデリアがあるがあくまで飾り。光源としての役割はきっと果たせていないだろう。

 キッチンは初めて見たが恐らく大理石。蛇口がなく、手をかざすと自動で水が出てくるようなシステムキッチン。当然IHコンロだった。冷蔵庫は温度がAI管理され、消費電力も控えめ。ただし、一人暮らしでは確実に持て余す大きさ。四人家族くらいが丁度いいのではないだろうか。

 リビングダイニングには、チークで出来たダイニングテーブルとチェア。綺麗になめされた本革と思しきソファ、そして、おそらく五十インチはあるであろう“超”大型の極薄テレビ。一体どこに基盤が収容されているのかわからない。テレビ台の下には、おそらく録画用と思しきSSDが接続されていて、テレビの両サイドには、きっと良い音を出してくれるであろうシアタースピーカーが鎮座している。

 そして、一部屋だけの寝室。何故かダブルベッドだった。それも、上流階級の女性が寝ていそうな、プリンセスベッド。レースカーテンなど全体的に白で、壁や床の木材と何故か調和して見える。そして女優ライト付きのドレッサー。六つくらいの引き出しが見えたが、万が一中に何か入っていては怖いので、中々開けられそうにない。

 そして、お風呂場。ユニットバスだとは思うが、とにかく広い。祖父母の家のものが狭い、というわけではなく、あくまでこちらが広いだけ。足を伸ばしても余りそうなくらい大きな浴槽。どうやら肩湯が流れ、更には四箇所ほどに泡が出てきそうなものが付いていた。

 とにかく、全てがお金持ち用と言える部屋。家具付きなのだろうが、いくらなんでも豪勢すぎる。

「ははっ、驚いたか。いや実はね、私の親友にこの辺で一番の不動産会社の社長が居てね。物件を聞いてみたら、なんとまぁこの物件を紹介されたんだよ」

「おじいちゃん! 脅されたの⁈ 一体幾ら取られてるの? そんなことになるくらいなら、私、野宿でも構わないから!」

「落ち着くんだ、廻凛。ここからが更に驚くべきところだよ」

 祖父は両手を広げ、豪勢な部屋をアピールしながらこう言い放った。

「完全無料で貸してくれるとさ」

 そんなこんなで、これから廻凛はこの“いかにも”な家で一人暮らしをすることになった。

「お掃除大変そう…」

 というのがいざ住むと分かってからの、一番初めの感想だった。

 中学を卒業し、その翌日から新自宅での一人暮らしを始めた。高校入学に合わせると、どうしても慣れない部分が出るだろうから、という理由だ。

 とはいえ、正気に返ってからは祖父母の家である程度掃除、洗濯、炊事などの一通りの家事は手伝っていたから、あまりハードルは高くない。頻度が高くなる、というだけだ。そして、祖父母の分がない、つまり自分の分だけとなるため、少しだけ荷が軽くなる。

 そう思えば、どうにかなる気がした。

 ちなみにこの1ヶ月の間に、廻凛は暇つぶしに読書を始めた。元々読書は好んでいて、図書室でよく本を借りていたが、受験期間中は余裕がなく、参考書以外の書物を読むことはなかった。

 それで、ある日なんとなくで家の近くにある大型書店に立ち寄り、久々の読書用の本を探す。受験期間中も祖父母がお小遣いをくれていたため、気づけばそこそこ溜まっていた。なんとなく眺めながら目に留まった、あるシリーズ。それが、彼女の云う赤本、〈物語〉シリーズ。こうして彼女は愛読本と出会った。


 あっという間に月日は流れ、一ヶ月後。私立夜桜坂高校入学式当日。

 真新しい制服に身を包み、期待に胸を膨らませて自宅マンションを発つ。

 ちなみに、物理的な意味で胸は膨らまず、相変わらず貧相だった。

 なので、胸を躍らせる、という表現も代替案として存在するがそれも相応しくない。要するに、踊るほど胸がない、ということだ。

 それはそうと、初登校である今日。家から学校までは徒歩で十分程度の場所にある。最短経路を通れば、七分程度で登校することができるのだが、少しルートを変えることで帰りに商業施設の集まる通りへ行ける。高校生の一つの楽しみとして、友達と学校終わり遊んで帰ること、が含まれているから、これも計算の上での行動。なら下校だけそのルートを通ればいいものだが、初登校である以上、先にある程度眺めておいて店の目星はつけておきたい。

 そうして、改めて心を躍らせ、長く美しい黒髪を靡かせながら街並みを過ぎていく。

 ちらほらと他にも高校生と思しき人を見かけたが、制服が同じ人物は余り見かけない。それもそのはずで、夜桜坂高校の入学式は午前十時から。新入生の集合時刻は割とギリギリの九時三十分。だから、一般的な通学時間帯である午前八時前後は他校の生徒を多く見かける。

 道中見かけた同じ制服の人物も、全員リボンの色が廻凛とは違い青、もしくは黄色。つまり上級生だ。廻凛たち一年生のリボンは赤色で、青が二年生、黄色が三年生のリボンとなる。男子はネクタイなのだが、色のシステムは同じ。その上級生たちも大抵はカフェや喫茶店に立ち寄り、入学式までの空き時間を思い思いに過ごしている。

 そして、その通りの中で唯一赤いリボンを結び、初々しさに頬を染め、この日のために入念に整えられた艶のある髪を揺らし、髪の黒と対比され、陽の光を一点に集めるくらいの綺麗な白の肌を魅せ、目を合わせれば吸い込まれそうなほど透き通った灰色をした瞳で前を見据える完璧美少女は誰か。

「そう、私です。なんて」

 自分で言うのもなんだが、今の自分はとてもかわいい。ということだ。夜桜坂高校の制服は私立故にバリエーションに富み、女子であればブレザーかセーラー服かの二択ができる。

 廻凛は中学時代セーラー服だったため、念願のブレザーを選択。くるりと一回転して風を纏う姿は、やはり美少女と表現するに相応しいものだった。

「あの、えぇっと…」

 回転を終えて、ぴたっと立ち止まる。目の前には自分と同じブレザーを着た男子生徒。ネクタイの色は赤、つまり新入生だ。

 とりあえず、どこから見られていたのだろう。それを考えるのも大事だが、彼の存在を認知したのは今この瞬間。つまりそれ以前に彼が自分をどう見ていたか、それは分かり得ない。それこそ、心の声でも聴こえない限りは。それに、このまま考え込んで返事をしないと、まるでコミュ障のように思われるかもしれない。それは避ける必要がある。わざわざ前の中学から自分以外誰も進学しないような高校を選んだのだから、自分という存在は如何様にも変えられる。前のような閉じこもった自分とは、もうおさらば。これからは、新生八ヶ橋廻凛として、少しでも自分の歩みたい人生を歩み、自分の理想とする自分になろう。そう心に決めて、彼に返事をした。

「一体、何の用?」

(あれっ、なんか違う…?)

 やはり、久々の他人との会話というのは事故がつきものだ。

 柔らかく返事をするはずがものすごくきつい口調。笑顔のつもりが睨み顔。相手の方が身長は高いはずなのに、首を傾げて上から目線。目を細めて瞳を邪険に濁らせる。

 ちなみに廻凛の理想としては、

「ん、どうしたの?」

 と女の子らしい口調。トップアイドルを彷彿とさせる眩しい笑顔。少し上目遣いに可愛さをアピール。頬を赤らめて乙女を演出。

 のつもりだった。

 だから、理想と現実というのは常に逆を行くものなのだと、この時廻凛は初めて知った。

 この振る舞いが、先日読んだ本に出てくる女性キャラクターの影響だろうというのが判明するのは、一年後の話。

 心の中では今までと変わらない純真無垢な乙女でありながら、外に露見しているのは毒舌系少女。このギャップが、廻凛の心に謎のダメージを与えていた。

 ダメージを受けたのは、話しかけてきた男子生徒もそうであるが。

「あ、えぇっと…」

 返事をしてこそみたものの、やはり口籠る。さっきの発言から、“の”を減らしただけで声のトーンは何ら変わっていない。相変わらず気の弱そうな声で、(一回目よりさらに威勢が失われているが)もじもじとこちらを見てくる。

「要件がないのなら、私、行くけれど?」

 と、これまた固く重く威圧的な返事。

 影響を受けるというのは、時に人を予期せず変えてしまうくらい大きなことらしい。しかしこの場合、廻凛は自分の返事を無かったことにして理想の返しをすればいいだけなのだが、どうしてかそれができない。恥ずかしいとか、そういう理由ではなく、何か“強制力”が働いているように思えるくらい、廻凛はナチュラルにきつめの返しをしていた。

「あ、いや。大したことじゃ、ないんだけど」

 ようやく口籠ることなく、はっきりとしたトーンで返事をしてくれた。出来るなら初めからそうして欲しいところだ。

「それで? どういう要件なの?」

「ほんとに大した事じゃないんだ。心当たりがないなら聞き流してくれて構わないから」

 どういう前置きなのだろう。わざわざ人に話しかけておいて、無視してくれても構わない、というわけなのだから。それに、心当たり。意味ありげな単語を示し、更にその後それを助長するかのように保険をかける。何か重大なことを言おうとしているが、どこか彼の中で腹が決まっていないような、そんなニュアンスを感じた。

 初め声をかけられた時は、ナンパだったり、そういう類の都会らしいものを期待していたのだが、この感じだとそれは絶対にありえない。なぜなら、そういうことをされる心当たりもないし、聞き流す余裕もないのが今の廻凛だから。

 彼はきゅっと唇を結び、覚悟を決めた目で、訴えかけてきた。

「なにか、声が聞こえたとか、そういう経験は、ない?」

 どうも句点が多いなと思うかもしれないが、実際これくらいに間をたっぷり取って喋っていたのだから仕方がない。やはりまだ覚悟は決まっていなかったというか、確たる発言にできなかった感は否めない。

 それにしても、妙なことを聞いてくる。“声が聞こえた”?今までにそういった類の経験はない。もちろん、目の前で話している彼の声だったり、空気中を振動として伝わる“音”に変換された声であれば、耳という感覚器官を備える生物である以上、それを聞き取ることはできる。だが、それまで。音にならない“心の声”だの、“本音”だのというのを聴くというのは、科学的に不可能と言える。いや実際、脳波の測定だったり心拍の速度変化だったりで大まかなことを推定することは出来るようだが、それはそれ。

 彼の言う“声”というのは、どこか違うニュアンスを孕んでいるような気がしてならない。

「どういうことかしら」

 素直に、疑問をぶつけてみる。本当に、素直にぶつけただけだった。

「あ、いや、心当たりがないなら、大丈夫。気に、しないで」

 恐らく、素直すぎたのだろう。やはり自覚はないが態度はさっきまでと変わらず威圧的なものだから、きっとキレているようにでも見えたのかもしれない。

 その言葉を残して足早に去っていく彼の背中には、どこか違う雰囲気を纏っているように見えた。

 まぁ多分、恐怖という雰囲気だろうけれど。

「さて、どうしたものかしら…」

 意識していないから、直そうにも直せないという状態。意識して直す、ということも選択肢としては存在するが、正直あまり現実的ではない。意識して変えようとすると、大抵の人間は上手くいかず、より悪い方向へ転ぶ。余程器用な人でなければ、この方法を改善策として採用する事は難しい。

 それを知っているから、廻凛はそうしなかった。過去に何度か実例を見たことがあるし、自分がその実例でもあるから。

 とはいえ、あのような喋り方をしたのは生まれてこの方初めてのこと。板についたように自然に振る舞ってしまっていたが、一番解せないのは当の本人。

 心当たりがないわけでもないが、流石にそれはありえない。確かにその人物は自分に憧れと羨望を覚えさせた。だからと言って、その人物の真似をするような浅はかな人間ではない、はず。

 空は清々しいまでの青。雲一つない快晴そのもので、心なしか廻凛たちの入学を祝っているようにも見える。心地よい春風が通りを吹き抜け、髪とスカートの裾を揺らす。風が運んできたコーヒーの落ち着く香りに鼻腔をくすぐられ、廻凛はさっき上級生を見かけた喫茶店へと足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ」

 緑色のエプロンを着けた茶髪セミロングの女性店員が入口に立つ廻凛に声をかける。

「一名様ですか? こちらの席へどうぞ」

 廻凛は頷き、店員が誘導する奥の窓側の席へ向かう。

 テーブルにメニューを置き、女性は

「注文が決まり次第お呼びつけください」

 と言い残し厨房へと姿を消す。平日の朝だが、席は満席に近くスーツや数種類の学生服、もちろん私服と思しき服装も目にした。学生や会社員などの憩いの場となっているのだろう。しかし、周辺には他にもいくつか喫茶店やカフェを見かけたが、さほど混んでいるようには見えなかった。

 何かこの店には特有のメニューとか、こだわり抜いたコーヒーとか、そういった人々の味覚を掴むものがあるのかもしれない。そう思うと、少し浮わついてきた。

 メニューに一通り目を通し、コーヒーとサンドイッチを注文。メニューの表記に変わったところはなく、商品名と値段、加えていくつかの商品画像が載せられているだけ。シンプル・イズ・ベストとは言うが、客をこれだけ集める店なのだから何かしらの意匠が施されているものだと変な期待をしてしまった。

 あくまでありふれた喫茶店である以上、場違いな期待をするのはある面失礼かもしれない。

 右側の大きな窓から、四月の陽射しがダイレクトに入ってくる。店自体の照明器具の数は少なく、とても店全体を照らせるものとは思えないが、両側の窓から入ってくる陽射しがそれを補っているのだろう。店内に暗い印象は見受けられず、言わば落ち着いた印象、といったところ。

 それにしても、良い立地をしている店だ。出入り口は通りに、反対側は川に面している。川の反対岸にはソメイヨシノが立ち並び、満開を迎え鮮やかに咲き誇っていた。窓の外の景色はなかなかのもので、店内に立ち込める良い匂いと相俟って居心地は非常に良い。窓側に座れたのはちょっとした幸せかもしれない。

 桜並木の向こう側に目を凝らせば夜桜坂高校が見える。あそこが今日から通う場所。実は今まで一度も校舎を訪れたことはなく、公式ホームページで情報を集めた程度。学校の外観も地図アプリのストリートビューで把握した程度で、オープンキャンパスにも学校説明会にも行っていない。

 それはなぜかというと、シンプルに面倒だったからで。

 入試に面接がないためオープンキャンパスの経験を語る必要も、夜桜坂高校を選んだ理由も述べる必要がないため、事前に情報収集をする必要性はあまりなかった。調べたのは学校の所在地と偏差値、進学実績、ついでではあるが制服。それで十分だと思っていた。

 これから始まる学校生活に想いを馳せていると、案内してくれた店員とは別の女性が注文した二品を届けてくれた。

 湯気とともに芳ばしい香りを漂わせる綺麗な黒をしたコーヒーと、卵ペーストの黄色がパンの白と対比されて食欲をそそるサンドイッチ。朝ごはんは家で済ませていたため、サンドイッチも一番少ないものにした。

「いただきます」

 両手を胸の前で軽く合わせてからコーヒーカップに手を伸ばす。カップの横に砂糖とミルクが添えられていたが、なんとなくまずはブラックで飲んでみることに。コーヒーの本質はブラックにある、と思うから。

「うっ、苦い…」

 ほんの少し飲んだだけでギブアップだった。やはりまだブラックコーヒーは早かったようだ。大人しくミルクと砂糖を二つずつ入れ、マドラーで軽く混ぜる。黒かったコーヒーは色を変え、普段飲んでいるコーヒーに近い明るい茶色になった。

 匂いは変わっていないのにすんすんと嗅覚でまず堪能し、記憶に新しい刺激的な苦さを一旦記憶の淵に仕舞い、改めてカップを口元に運ぶ。

「うん、美味しい」

 家で飲むインスタントコーヒーとはやはり違う、深みのある香り。少しだけ残る苦味と、ミルクのコク。喉を通り過ぎるまで残り続けた香りと味に、思わず頬を綻ばせる。

 続けて、サンドイッチ。黄金色の卵が溢れんばかりにパンに挟まっていて、少量ながらボリュームを感じさせる。視覚的にも美味しい。三角形の一端を口元に運び、溢れそうになる卵に気をつけながらぱくりと噛み付く。

 ちょうどいいマヨネーズの量と、自分好みのまろやかな卵。しっかりマヨネーズと混ざることでゆで卵の黄身特有のザラザラ感が一切残っていない。ふんわりとしたパンは意外にも噛み応えが良く、噛むたびに甘さを増して卵を引き立てる。

「ん、これもすごく美味しい」

 これは確かに、朝ごはんに訪れる客も多いわけだ。自分にお金の余裕があったなら、きっと毎朝通うことだろうと思った。

 サンドイッチの卵をこぼすことなく平げ、コーヒーも冷めないうちに飲み切る。

 少し急いでしまった感はあるが、それでも十分味わえたように思う。少なくとも一週間はこの味を忘れることはないだろう。

 祖父母に入学祝いとしてもらった腕時計を見ると、入学式までまだ時間はあった。だから、鞄に忍ばせておいた“赤本”を取り出し、栞の挟まったページから読み進めた。

 そうして、あっという間に入学式の時間は迫ってきた。


 入学式に限らず、学校における式典行事というのは気付けば終わっていることが多い。

 例え自分が主役であろうと、ただの観衆であろうと。

 例え誰かが緊張して、震えていたとしても。

 式次第通りに、手はず通りに、滞りなく、手続きのように進行し、終了する。

 始まって仕舞えばなんのことはない。終わって仕舞えばなんのことはない。

 それは、ただの形式的なものでしかないのだから。

「鈴原美玲です。これから一年間、壱組の担任を受け持つことになりました。困ったことがあれば、なんでも、訊いてください。充実した高校生活にしていきましょう」

 入学式を終え、場所はホームルーム。一年壱組。

 学年はシンプルな漢数字の「一」だが、組を表すのは「壱」。

 知っての通り、進学校を名乗るこの夜桜坂高校ならでは、というか、当てつけのような、無理やりのような、進学校アピールの一部。

 こういう、俗世一般的に難しいと思われる、同時にかっこいいとも思われる「壱」や「弍」のような表記は「大字」と呼ばれ、元はと言えば作りが単純な漢数字の改竄を防ぐ目的で使われるものらしい(例えば、「一」にもう一本「一」を足せば「二」になるし、「1」を足せば「十」になる)。

 それをクラスの表記に使うというのは、浅はかというか、適当というか。さしあたり、冗談のように聞こえるかもしれないが「かっこいいから」、「難しいから」という理由で採用していると考えるのが、妥当かもしれない。

 もっとも、八ヶ橋には子供騙しでしかない話だが。

 今年度の入学生の人数は百六十人。一クラス三十二人で、五クラス編成。

 一年生の最初のクラス編成のみ、学力が基準となる。

 つまり、入学試験、入試の点数。

 あの、国語、英語、数学、社会、理科の、五科目五百点満点の試験の点数で、どのクラスになるのかが決まっていた。

 要するに、噛み砕いて、回り口説くではなく、ストレートに、直球に言えば。

 クラスの数字が小さければ小さいほど、“上の集団”になる、ということ。

 私立の進学校ではありがちな話だ、と廻凛は思う。

 ただ、大抵の場合(よくある私立の進学校ではの意)はこのままクラス替えをすることなく、壱組であれば壱組として、勝ち組として、高校生活三年間を過ごし、終え、内申点もそこそこに、推薦なり、そもそもの学力なりで大学受験を突破して、大学生になる。

 だが、夜桜坂高校では、二年生、三年生と一年おきにクラス替えがあり、そこでは学力云々、能力の高低は関係なく、学校特有の、大人の理由、致仕方無い理由、そういうので、二年と三年のクラスは編成される、というのが担任の口を通して、事細かに、それこそ事務的に、説明された。

 改竄。

 試験結果の、改竄──。

 それが過去、この学校であったのか、なかったのか、今更関係もなければ興味もないし、あったからといってどうということでもないので、話半分に聞いて、こういう“重い話”が出来れば早く終わってほしいと、さっさと高校生活を始めたいと、同じ校舎、同じ教室、同じ壱組という称号を持つ三十二人が。同時に、同じ校舎、別の教室、異なる「壱」ではない称号を持つ百二十八人が。

 きっとそう、思っていたことだろうと、なんとなく思った。




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