八ヶ橋廻凛は嘘がつけない The Lie of 6th Sense
結月虹乃
0.始まり
何か、聞こえた気がする。
「どうして! あなたがそんなことを!」
悲痛で、悲惨で、苦痛で、無惨で。
足掻くような、嘆くような、抗うような、そんな声が聞こえた。
気がする。
「ごめんね、ごめんね」
その声が、ふと近くに聞こえた。
「不甲斐ないお母さんで」
自傷。
「あなたのことを守れなくて」
卑下。
「本当に、ごめんなさい」
謝罪。
「愛してるよ、
接吻。
まるで現実のようなその夢は、泡沫に消えていった。
外を走る野球部の掛け声が、赤く染まった夕焼け空に木霊していた。
二階の窓から見下ろす彼らの姿は、なんとも可哀想に見えて、逆に上から見下ろしていれば、いわゆる支配者階級のような気分になれる。
もう時刻は六時をまわり、最終下校時刻が近づいている。ここ、夜桜坂高校は自称“そこそこの”新学校であるため、最終下校時刻は厳しく守られる。この時間から警備員が各教室の戸締りを始め、部活動は大会を明日に控えていようと活動を終えなければならない。
唯一例外として、校外の人間も使用可能な図書館がある。そちらは七時半まで利用可能だが、学生は滅多に見ない。なぜなら普段の授業がそこそこ重いせいで、これ以上学校で勉強したくない、という気持ちになるからだ。それはそれで進学校としていかがなものか、というのは保護者の意見。
そうであるからして、図書館はおろか教室ですら、放課後に人が居残っていることは珍しい。部活動に使われないホームルームは基本的にがらんとして、影が落ちる。
けれどここ、東棟にある二年四組の教室には、一つだけ、人影が見えた。
ぼーっと外に視線を向けて、何をするでもなく佇む少女。
背中の真ん中あたりまで伸ばされた艶のある黒髪、全てを見透かしたような濁りのない灰色の瞳。肌は総じて健康的な白で、身長は百六十センチくらい。短く折られたスカートとニーハイソックスから覗く脚は美脚そのもので、体型はモデル体型というべきもの。
美しさ故にぼやけ、消えてしまいそうな儚さを孕みつつ、周囲の視線を一点に集め、存在を確立するような美貌。
けれどその美貌も、今は誰の視線も集めることなく、ただ儚げに揺らぎ__
眦から、煌めく粒が滴り落ちた。
「うっ、うぅぅ、ひっく…」
それは俗世一般に云うところの呻き声、ではなく泣き声そのものであり、男子が聞くと罪悪感もしくは保護欲どちらかを感じ得てしまう、そういうもの。
滴り落ちた水滴は机の天板に溜まり、一滴、二滴と数を増していく。そして、増える速度も段々と速まっていって。
涙の線を頬に残したまま、彼女は上を向く。少しでも涙を流すまいとして、上を向く。
それしか、涙と向き合う術を知らなかったから。
悲しみから逃げ続けてきた彼女には、悲しみと向き合えない。
なのに、向き合わなければいけないものが、今日から増えてしまった。
自分一人の“声”ですら逃げ続けてきた。けれどこれからは、数多の“声”と向き合わなければならない。
何故なら、そう。彼女には全ての声が聞こえてしまうから。
声にならない声が、聞こえてしまうから。
思い出したように、耳を塞ぐ。けれど、今は何も聞こえない。
そもそも、聞くべき声が存在しないから。
けれど、煩かった。自分の声が。
だから、耳を塞いだ。それでも、声は内側で響き、音を増し、また返ってくる。
鼓膜ではない別の部分で、声として、聞いてしまう。
叫んで仕舞えば、金切声を上げて仕舞えば、この声は掻き消えるのだろうか。
もう、わからない。彼女には、どうすればいいのか、その術がわからない。
「ふん、ふん、ふふーん」
手で覆った外の空間から、微妙に音程の取れていない鼻歌(らしきもの)が聞こえてきた。
それは彼女にしか聴こえない特別な声、ではなく、普通に空気中を振動として伝わってくる単なる音。ただの鼻歌。それ以上でも、それ以下でもない。
最終下校時刻数分前という状況に、よくもまぁ呑気なものだ。忘れ物でもしたというなら、もう少し焦る素振りをするものだと思うが。
そんな取り留めのない、徒然なことを考えているうちに、鼻歌はじりじり、じりじりと近づいてくる。この教室は東棟の端に位置する。このまま近づいてくるのであれば、通り過ぎていくだろうという望みは持てない。
そうしてやっと、彼女は焦りを覚えた。
──まずい、見られる。
我に返って瞼を閉じ、涙腺に「止まれ」と命令する。
そして涙腺からの応答は、「否」だった。
相変わらず涙は流れ、嗚咽混じりの泣き声も止まない。涙を拭い続けた制服の袖は滲み、これ以上は水滴を吸えそうにない。ブレザーを下手に汚すと洗濯が大変だ、などという謎の理性に蓋をしつつ、理性の外で働き続ける感情にも蓋をしようと努める。
けれども、悲しいかな。その努力は報われなかった。
「ふんふふ…あ?」
間の抜けた声が聞こえた。
もう、さっさと罵倒するなり貶すなりして、好きにすればいいのに、などと、プライドを捨て切ったようなことを考えるくらいには、諦めていた。
だから、涙で濡れたままで、廊下に現れた一人の男子生徒を注視していた。
良くも悪くも、見覚えのある顔。
けれど、印象は薄い、そういう人物だった。
その時の自分がどういう顔をしていたのかは、よく覚えていない。
けれど、初めて、いや、久しぶりだった。
誰かに抱きしめられるというのは。
気づけば、廊下にいたはずの男子生徒は自身の目の前で両腕を自分の体に回し、抱き寄せていて。
「ごめんな、ごめんな」
その声は、耳元で囁かれた。
「気づいてやれなくて」
自傷。
「お前のことを護れなくて」
卑下。
「本当に、ごめん」
謝罪。
「見つけたぞ、
抱擁。
まるで夢のようなその現実は、夕焼け空に呑まれていった。
パンっ!!!
目覚めと同時に響く快音。掌が頬に当たる音、即ち平手打ち。
「どういうつもりかしら。槇野くん。私を犯したことは高くつくわよ」
「ま、待て待て八ヶ橋! 僕は無実だ!」
「そう声高に童貞宣言しないでもらえるかしら。童貞が感染るわ」
「童貞が感染るかぁ! それに僕が童貞だと、何故決めつけた?」
「なす術もなく倒れ込んだか弱い乙女を襲えなかった時点であなたは童貞よ。加えるなら腑抜け童貞ね」
「僕の評価がどんどん下がっていく…」
時刻は夕暮れを過ぎ、日は落ちて辺りは暗がりだった。
そんな中、八ヶ橋は僕に抱きしめられたまま、泣き疲れたのか、眠りに落ちてしまっていた。
ここは学校近くの公園で、僕が八ヶ橋をお姫様抱っこして、戸締りの始まった学校から逃げ出すように連れてきて、ベンチに寝かせておいてあげたのだけれど、僕が「お、やっと起きたか」と軽く声を掛けたその応酬が平手打ちという有様である。
「なんというか、会話内容にデジャブを感じたぞ…」
「あら、奇遇ね、あなたも赤本を読んでいるだなんて」
「赤本? 僕はまだ大学入試に向けた対策はしていないけれど」
赤本といえば各大学の入試過去問題集であり、愛読するものではないし、なにより大学を目指すつもりのない僕とは無縁の書物のはず。
けれど一旦、ふと思いを巡らせて、自分の家の本棚を脳内に投影してみる。
「あぁ、ひょっとして、あのシリーズのことを言っているのか?」
「ええ、そうよ。あのシリーズよ。あなたはどこまで読んだのかしら。蟹? 蝸牛? 猿? 蛇? 猫?」
「全部同じタイトルだろ、それ。僕が読んだのは鏡の世界までだよ」
「へぇ、ちゃんと読んでいるじゃない。なら今の流れもそういうことなのね。女の子の口から“童貞”という単語を引き出すだなんて、汚い男だわ」
「待て待て待て、お前が勝手に言っただけじゃないのか?僕は無実だ」
何度自分の身の潔白を表明するのかは分からないけれど、こればかりは無実だ。いや、さっきから無罪放免なのだが。
「まぁ、いいわ」
そう言って、八ヶ橋はおもむろに立ち上がり、僕を見下すようにして視線を合わせる。
「形には文句しかないのだけれど、変な話助かったわ。あのままだとどうなっていたか分からないもの。本当に、変な話ね。文句しか出ないのに、口を開けば感謝が出ているのだから」
腕を組んで、胸を強調する。が、八ヶ橋は強調しても視線が吸い寄せられるようなことはない。良くも悪くも、モデル体型だからだ。
諦めたのか、腕を下ろし、今度は背を向けた。
「けれどあなた、何か隠しているわよね。隠しているつもりなのかは知らないけれど、今も疑っているのよ。誤魔化しは効かないものと、そう思いなさい」
そう言って高速でその場旋回回れ右をして、僕の眼球数ミリ手前の位置に爪を立てる。
「分かってるよ。そのつもりで連れて来たんだ。自分に利益がないのに、わざわざ女の子を抱えてここまで来たりはしないって」
「そう。物分かりが良くて助かるわ。腹を決めたのね」
「待て早まるな! 話を聞け! 決めつけるな! 僕は何もしてないからな⁈」
「冗談よ。本当に、面白い反応をするのね」
「それにしてもお前、影響を受けすぎなんじゃないか?」
「影響? 誰のかしら」
「いやほら、誰とは言えないけれど、文房具でツンデレな蟹の少女だよ。さっき僕に突き立てた爪とか、話し方とか、それに当て付けかもしれないけれど髪型もそうだろ?さっき話を持ち出したくらいから思っていたんだけれど、実際のところどうなんだよ」
「一つ見落としているわ」
「んぇ? そうなのか?どこを見落としているんだよ」
八ヶ橋は綺麗な脚を上げて、座っている槇野の膝の上に片足を落ち着かせる。
見えそうで見えない、危険な角度。もっとも、見てしまおうものならそれこそ有罪だから、眼球の一つくらいは差し出す必要があるのかもしれない。笑えない話だが。
「私は“タイツ”よ」
「そんな細かい違いで許されるのか⁈」
「うるさいわね、それ以上言うと魅せるわよ。有罪にするわよ。虜にするわよ」
「お前、自分がちょっと良いからって乱用するのは辞めろ!」
こんな、馬鹿なやりとりが続けばいい。そう思っていたのは他でもない、二人だった。
けれど、彼らが出会った理由。それは、こんな馬鹿をできる日常を取り戻すため。
今は一時の、嵐の前の静けさでしかない。
「さて、話をしようじゃないの、槇野くん。私と、あなたの話を」
こうして日常は、非日常の皮を被り、磊々落々を許さずに、彼らを覆っていく。
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