無邪気
増田朋美
無邪気
やっと今日は雨が降って、秋らしく涼しい気候になってきた。これでやっと暑い夏も終了するらしい。今年は、大雨と猛暑が交互にやってくるおかしな気候であった。もしかしたら、それが当たり前になってしまう時代になるのかもしれない。
その日、蘭がいつもどおり下絵をかく仕事をしていると、いきなり彼のスマートフォンが音を立てて鳴った。
「はいもしもし、伊能ですが?」
と、蘭がいうと、
「ああ蘭か、俺だよ。覚えてない?ほら、小学校のとき、先生にお前がヘラヘラ走るせいで運動会で負けたんだぞ、と、怒鳴られた、川村千秋だよ。と言ってもいまは結婚して、佐野千秋だけど。」
電話の主は、そう言っていた。蘭は、川村千秋という名前を聞いてやっと思い出した。たしか、小学生のときに、同じクラスだった。小学生のときは、ヘラヘラして、いつも成績が悪いせいで、学校の先生に叱られてばかりいた人物なのに、なぜか知らないけど、医学部へ進学して、いまは立派な医者になっている。学生の頃の川村千秋とは、想像もつかないほど、偉い医者になっていた。
「川村千秋くんか。ああ、覚えてるよ。しかし、君のような人間が何で僕のところに電話をよこしたんだ?今頃は都内の病院で、気ぜわしく働いているはずでは?」
蘭が急いでそういうと、
「いや、もう都内は辞めることにした。生まれ育った富士に帰って、富士でクリニックをやりたいと思ってる。それで君に相談なんだが、富士市内で余っているたてものなどはないか、教えて貰えないかな?できれば、駅から近いか、タクシーなどで数分で行ける場所がいい。君は、お母さんのこともあるだろうし、結構土地持ちの方と、知り合いだと思うから、どうかなとおもって電話をしたんだよ。」
と、佐野千秋は、そう言っている。たしかに、駅前の商店街などは、廃業が相次いでいるので、余っている建物は、いくつかあると思う。
蘭は、駅前の商店街に行けば、余っている建物はあるはずだと説明したが、電話口で犬が吠えている声が聞こえるのに気がついた。
「お前、犬を飼い始めたのか?」
と、蘭は聞いてみると、
「蘭は、耳がいいな。実はそうなんだよ。いつも急患なんかで、家を留守にする日が多いだろ。それで女房が、寂しがるから、今年の夏から飼い始めたよ。シェパードだけど。」
と、佐野千秋は、そういうことをいっている。
「そうか。じゃあ、クリニックの看板犬にでも、なりそうだな。たしかに、吠えすぎる小さな犬を、かうよりいいかもね。」
「まあそうなんだよ。それよりさ、近いうちに富士駅かどこかで待ちあわせしないか?その余っている建物を見せてもらいたいんだ。なるべくはやく、クリニックを、やりたいもんでね。次の日曜あたりどう?」
蘭は、手帳を開いて何もないことを確認すると、
「わかったよ。じゃあ日曜の十時くらいに、富士駅の北口にいくよ。君も、そのくらいの時間に来てくれるか。」
といった。千秋はわかったよありがとうと言って、二人は日曜日に富士駅で会うことにした。
予定どおり、日曜日の十時に蘭は富士駅の北口にいった。蘭が、しばらくエレベーターの近くで待っていると、
「遅くなってごめん。ちょっと家で、大変なことがあってな。」
と、佐野千秋が蘭のいるところへやってきた。
「蘭は、全然変わってないな。どうして、もう40も後半なのに何も変わらないでいられるんだよ。」
と、いう千秋は、小学生のときのような、垢抜けした顔ではなかった。ちょっと白髪交じりになっていて、老けていた。
「ある意味、変わるのは当然なのだと思うんだがな。それより、空いている建物を見せて貰えないかな。」
「ああ、こっちだ。三角屋ではあるけれど、結構広くて、いい場所だと思うよ。名義は、僕の母の、名義になっている。」
と、蘭は彼を商店街の一角にある三角形をした建物を案内した。二階建ての建物で、エレベーターもついているし、駐車場は隣に有料駐車場があるから大丈夫だと説明した。それに、駅からは歩いて5分も、かからない場所にあった。三角形となると、四角い家具を置くのに不利なところもあるが、少なくとも小さなクリニックを、開くには良いのではないか、と思われる建物だった。建物の写真を撮影した佐野千秋は、蘭に協力してくれてありがとうといった。
「ありがとう。敷金とか、そのあたりのことは、あとでやるから。今日はとりあえず建物の確認だけにしておくよ。」
「もう帰るのか?」
蘭は、佐野千秋にいった。
「ああ、いろいろあるもんでな。はやく帰らないと、いけない事情があるものでね。」
「そうなのか。今日は自家用車でこっちまで?」
蘭が聞くと、佐野千秋は、車は、維持費が大変なので処分した、と話した。それもなんだかおかしいな、と、蘭は、思ったが、そのことはあえて口にしなかった。そのかわり、彼をタクシーで、近くまで送ることにした。千秋は遠慮すると言ったが、蘭は、友達じゃないか、と言って、車いす用のタクシーを呼び出して、佐野千秋も一緒に乗せてあげた。千秋は、タクシーで、数分しかかからないところにあるマンションに、すんでいたが、医者が住むような、高級マンションという感じのところではなかった。家賃もそんなにかからなそうな、小さなマンション。なぜ、そんなところに、千秋は住んでいるのか、不思議なくらいだった。
千秋が、マンションの部屋に入っていくのを見届けて、蘭は、自宅に帰った。また下絵の仕事を再開しようと思ったが、なぜか佐野千秋のことが気になった。小学生のときの佐野千秋は、腕白でいつもにこやかな顔をしていて、成績はさほど良くなかったけど、みんなを和ませるような存在でもあった。医者になったときいたときは、ちょっとミスマッチなきもしたけど、でも、明るい性格なので大丈夫だろうと、蘭は、考えていた。たしか、都内で大規模な病院の勤務医として働いていたはずだが。それなのになぜ、それをやめて、こんな田舎町に帰ってきて、あまり必要とされないクリニックをやると言い出したのだろう?
蘭が、首をひねって考えていると、インターフォンが、なった。
「おーい蘭。帰って来たよ。はやく買いものいこう!」
そう言っているのは、杉ちゃんだった。蘭が、ちょっとまってくれと言う前に、上がってしまうのも杉ちゃんだった。
「どうしたんだよ。そんなしょぼくれた顔してさ。何か、疲れるようなことでもあったか?」
杉ちゃんには、本当のことを言わないとだめであることを知っていた蘭は、ため息をついて、先程あった佐野千秋のことをいった。
「そうか、そういうやつがいるんだったら、患者の第一号を、そっちへ送るよ。若いときにやった梅毒のせいで、顔が変形している女性がいるから、そいつを見てやってくれ。」
杉ちゃんは、あっけなく言った。
「なに?梅毒にかかったの?」
蘭がきくと、
「そうだよ、だから性病科の医者としては、いい患者じゃないか。若い頃女郎をしていたんだって。結構きれいな女性だよ。もちろん、顔にあるコブを取ればの話だけど。今、製鉄所に、来てるんだ。ジョチさんが、顔についているコブは梅毒のためじゃないかと言ってた。」
杉ちゃんがすぐいった。
「そうか、そうなると、あいつは女郎ばかりを相手にするようになるのか。それも可哀想だな。」
蘭は、おもわず、つぶやく。
「性病科なんてそんなもんでしょ、昔みたいに、女郎屋が、乱立するような場所はないし。この地域には、夜鷹とか、飯盛女なんかもあまりいないよ。」
「そうだねえ。」
杉ちゃんの話に蘭も考えこんだ。
「というと、あいつは、ここで開業するとなると、女郎ばかりを相手に、寂しく暮らすのかあ。それもなんだかな。だってあいつ、僕達からしてみれば、ものすごいレベルの高いところに行って、医者になったんだし。」
「そもそもさ。なんで、こんな辺鄙なところに、性病科を建てようと思ったのかな?ここは大きな女郎屋が有るわけでも無いし、おっきなホテルで飯盛女もいないし、銭湯で湯女が居るわけでも無いしねえ。そういう事を考えてこっちに来たのかなあ?女郎屋が有るって言うんだったら、東京の吉原とか、そういうところで開業したほうがよほど良いと思うんだけど。」
杉ちゃんは、考え込んでいる蘭に、そういった。性病というと、どうしても、遊郭で働いている女性ばかりが罹患するというイメージが有るし、性病科に来るというと、遊郭に居る女郎だけの場所の様に見える。
「とにかくな、患者は一人居るんだから、その先生に、見てもらうことはやってもらうぜ。名前は、鈴木まり。何かどっかのアイドル歌手に似たような名前がいたが、若い女の子ではなくて、中年のおばさんだ。若い頃、東京の吉原のソープランドで働いていたんだって。女郎の仕事は当の昔にやめて、今は、普通に主婦だけどね。」
「はあ、結婚しているのか。身請けでもされたのかな?」
杉ちゃんの説明に、蘭はそう聞いた。
「まあ、そういうところかな。今の旦那さんは、女郎だったことを理解してくれているらしいが、その親戚関係でうまく行かなくて、それで製鉄所に来たんだって。」
「そうか。わかった。じゃあ、彼が、物件を買って、開業する様になったら、連れてきてくれ。」
蘭は、杉ちゃんの話にそう応じた。
「何だ。まだ病院の場所も決めてなかったのか。それなら、往診という形でお願いするかもしれんなあ。蘭も知っていると思うけど、梅毒と言うもんは、短期間でどうのというものではなく、長期に渡って、かかり続けるもんだからな。」
と言っても、現在は、よほど放置しない限りそうなることはほとんど無いのであるが、杉ちゃんは、納得している様子だった。蘭は、やれやれ、杉ちゃんという人は、本当に、不可能を可能にするように持っていってしまうんだなと思った。
その頃製鉄所では。ブッチャーが、水穂さんにご飯を食べさせようと、躍起になっているところだったが、水穂さんは食べようとしなかった。
「水穂さん、頼みますから、りんごだけでも食べてくれませんかね。もう3日近く食べてないじゃないですか。このままだと、また栄養失調だとか、そういわれちゃいますよ。それでは、俺達のほうが恥ずかしいです。ショパンだってね、いくら弱っても、ご飯は食べようという気持ちはあったんじゃないですかね。」
ブッチャーは、水穂さんにりんごを食べさせようと試みるが、それは水穂さんが食べようとしないので、失敗に終わった。
「頼みますよ。りんご一切れでいいですから、食べてくれませんか。それでは、また影浦先生に叱られますよ。なんで食べようと言う気持ちもわかないのかな。」
ブッチャーが、そんなやり取りをしていると、額に小さなコブのある背の高い女性が、四畳半にやってきた。
「あ、まりさん。どうしたんですか。なにか困ったことでもありましたか?」
と、ブッチャーが彼女に聞くと、
「いえ、なんでもありません。私はただ、水穂さんのことが羨ましいんです。だって、水穂さんは、いろんな人に看病してもらえるじゃないですか。私達は、女郎をしていたというだけで、住んでいたマンションは追い出されちゃうし、病気になったって、医者にも毛嫌いされてしまいますしね。」
と、彼女、鈴木まりさんは、そういうのであった。それはある意味では水穂さんも同じである。だから、ブッチャーがご飯を食べさせている。でも、それは、水穂さんがほかの利用者を励ましたりするなど、製鉄所にとって必要な存在だからである。それをしてもらわないと、製鉄所が成り立って行かないからだ。そういうものが無いと人間は周りの人からなにかしてもらうということはできなくなるだろうから。
「そうですか。でも、きっとまりさんのしてきたことは、間違いじゃないと思いますよ。行きていくためには、仕方ないことはあったんですから。」
と、水穂さんは、小さな声でそういった。
「水穂さん、人の事をいう前に、自分の事を心配してください!ご飯を食べないと、何もできなくなります!」
そういう水穂さんに、ブッチャーはでかい声で言ったのであるが、水穂さんに届けて居るかは不明だった。
「須藤さん、私が、水穂さんの世話をしましょうか。私、介護の経験とかは無いけど、水穂さんにはすごく感謝していますから。」
まりさんが、そういう事を言った。ブッチャーは、複雑な気持ちになる。まりさんは確かに、水穂さんに声をかけてもらってそれに感激してこういってくれているのであろうが、それは、水穂さんがそうしなければ生きていけないからだということにもつながるのだ。もしかしたら、水穂さんは、生きていかなければならないので、優しい美しい男を演じているのかもしれない。
「すみませんねえ。まりさんにまでお手伝いをさせてしまいまして。じゃあお願いしようかな。」
と言ったブッチャーだったが、まりさんがちょっと顔が赤いのを見て、
「まりさん、ちょっと鏡を見たほうがいいのではありませんか?顔赤いですよ。もしかして、熱があるのではないでしょうか?」
とすぐ言った。まりさんは、そうかしらといったが、
「いや、まりさんも若いときにそういうものにかかったんですから、また再発する可能性もあります。ちょっと休んだほうがいいですよ。水穂さんの世話は、俺たちがちゃんとやります。」
とブッチャーは言って、彼女を退出させた。水穂さんになにかあったら大変だと思ったのだろう。まりさんは、わかりましたと言って、急いで部屋を出ていった。
その翌日。杉ちゃんが製鉄所を訪れたときの事。おはようございますと言って建物に入ろうとした杉ちゃんに、ブッチャーが、駆け寄ってきて、
「杉ちゃん、すぐ医者に電話してくれないかな。まりさんがちょっと、熱っぽいんだ。なんだか微熱が有るみたいで、昨日以上に赤い顔になってる。」
と言った。杉ちゃんは少し考えて、
「おうわかったよ。すぐに性病科の医者をよこします。」
と、すぐにスマートフォンを出して、蘭に電話をかけた。
「もしもし、蘭。今から見てもらいたい患者が一名居るんだが、昨日話した医者を連れてきてくれないかな?」
蘭は、杉ちゃんから電話を受けると、
「わかったよ。じゃあ、連絡するから、ちょっと待っててもらうように言って。」
と言ってすぐに電話を切り、昨日の電話番号に電話をする。
「あの、すみません。こちらは、佐野千秋さんのお宅だったでしょうか?」
応対したのは、彼の奥さんだろうか。なんだか間延びした声で、
「はい、おりますけど。」
と言っている女性の声だった。蘭は、この女性が酒に酔っていることがすぐに分かった。それで、佐野千秋は富士市に越してきたのだろう。もしかしたら、奥さんのせいで、大手の病院にいられなくなったのかもしれない。
「奥さん、すぐに千秋を出してください。どうしても見てもらいたい人が居るので、すぐに来てくれるように言ってくれませんか。」
蘭は、急いで奥さんに言った。奥さんは、ええ、なんでとしか言うことができなかったようであるが、蘭はちょっと語勢を強くして、
「一人の女性を助けたいんです!千秋さんを出してください!」
と言った。電話口の奥さんは、なにか複雑な事情を抱えているみたいだったが、
「お願いします!」
と蘭がもう一回いうと、わかりましたと言って、電話を佐野千秋さんに代わってくれた。やっぱり犬が吠えている声がする。ということは、奥さんに佐野千秋が送ったものだろう。千秋は、蘭の話に、すぐに行くから、どこに行けばいいか教えてくれといった。蘭は、自分が迎えにいきたかったが、自分が製鉄所に出入りができないことを思い出して、仕方なく製鉄所の住所と電話番号を言った。そうするしか蘭にできることはなかった。蘭から製鉄所の住所を聞くと、千秋は、すぐ行くと言って電話を切った。蘭は改めて杉ちゃんに電話を回して、今から、佐野千秋という先日話した医者がそっちに行くと言った。杉ちゃんもおうわかったと言ってくれたのでひとまず安心である。とりあえず、佐野千秋は、患者さんをちゃんと見てくれたに違いないと蘭は考えた。奥さんにだってそう言ったんだから。
数分後、蘭のスマートフォンがなった。
「もしもし蘭。医者をよこしてくれてありがとう。」
電話をよこしたのは、杉ちゃんだった。
「彼女やっぱり若いときにしでかした梅毒がちゃんと完治していなかったみたい。女郎をやめてからも、恥ずかしくてちゃんと病院行けなかったって、涙ながらに話してたよ。蘭、ありがとうね。今度はちゃんと、抗生剤の内服でなんとかなるみたいだよ。」
「そうか。良かった。じゃあ、これからは、彼女もちゃんと治れば、大丈夫だね。」
蘭は、ほっとして、少しため息を付いた。
「まあ、幸い梅毒の治療は、今の医療では難しくないみたいだし。フランツ・シューベルトがかかったときとは大違いだよ。はははは。じゃあ、ありがとうな。今日は助かったよ!」
杉ちゃんがそう言っている声を聞いて、蘭は、学生時代の事を思い出す。確か、佐野千秋、蘭が知っている限りでは、川村千秋だが、彼は、蘭に、自分は人の役に立つことで、人一倍感動するんだと言っていた事を思い出した。その日、小学生だったから、授業で歴史の授業があって、遊郭の女郎さんの話を聞かされた。それで、借金を返すため、自分のからだを売らなければならなかった女郎の話を聞かされたのだった。川村千秋は、それを何故か感動的な話だと言っていた。自分が医者になったら、そういう人たちも助けられたらいいな、なんて、無邪気な子供の目でそう言っていた事も覚えている。
「もしもし、蘭。聞いているのか?今日はありがとうなと言っているが、ちゃんと返事をしてもらえんだろうか。」
と杉ちゃんが言っているので、蘭ははっと我に返って、
「ああすまんすまん。何か昔の事を思い出しちゃってさ。ごめんね杉ちゃん。」
と、急いでいった。
「何を思い出しているんだよ?」
杉ちゃんが聞くと、
「ああ、河村千秋は、いつまでも河村千秋だなと思ってさ。」
蘭は、静かに言った。
無邪気 増田朋美 @masubuchi4996
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