第5話 陽炎の意外な正体
初夏の午前八時、ベッドに射す朝の日差しで、すかっり汗ばんでしまった翔は、うとうとしながら何か耳障りな音がするのに気が付いて目が覚めた。
同時に母の美奈に、
「さっきから何度も電話が鳴りっぱなしじゃあないの、うるさくてかなわないわ。早く出なさいよ」
と、起こされた。
「うわっ、遅刻だ。何で起こさないんだよう。連休なんかくれるわけ無いだろう」
驚いた翔は、スマホに出ずにそのまま切ってしまい、慌てて飛び起きた。
「昨日遅くお帰りのようだから、お休みかと思ったのよ。出なくて良かったの」
「目覚ましと間違えちまった。でも、どうせチーフの怒鳴り声だよ」
と言いながら昨日着ていたスーツは破れている処を発見し、別の出勤用の服を探して着がえ、二階から慌てて降りてくると、リラは既に起きており、
「それでよく、クビにならないわねえ」
と、感心していた。昨日と言うより今日と言える午前三時ごろ一緒に帰ってきておいて、もう自発的に起きてお茶などしている。翔はリラを見て、この点だけを見てもUSBBの警察は良い人材を一人失ったのじゃあないかと思えた。
リラの相手などする間はなかったので、翔は尚も慌ててガレージに行った。リラの横には彼女の弟たちがいた。チラッと見ただけだが、翔を見る目つきが何だか尊敬の色があるように見えた。顔に「すごい」という字が書いてあるような感じだった。おそらく昨日は帰りがかなり遅かったので誤解をしているようだ。説明したかったがそんな時間ももちろん無い。
だが、ガレージには車は無かった。
「しまった。川田のやつ、自分ちに乗って帰ったな。でもそれなら迎えに来てくれても良さそうなものだが、変だな」
と、ぶつぶつ独り言を言っていると、後ろから広永和夫が話しかけてきた。
「翔君、リラの事、引き受けてくれてありがとう。あれは、母親に早くに死なれて、何も躾けておらんので、何もわからんやつだけど、親のわたしが言うのも何だが、心根だけは良い子でね。宜しく頼む。少し話したい事があるんだが、良いかね」
誤解したのはリラの弟だけではなかったようだ。恐らく家で帰りを待っていた両家の皆共々、とんでもない誤解をしていると思えた。どうやら今朝、翔本人が何も言っていないうちに話は確定してしまっているらしい。仕事に出ようにも車は無し。さっきの電話は川田だったかもしれないと思いながら、出勤についてはすっかり諦めた翔は、義理の父親になるかもしれない彼の話を今は聞くしかないと思った。
「はあ」
翔は、リラとは結構共通の話題で話しも出来そうだし、今の段階で自分を気に入ってくれた人がいると言う事は希少価値があるに違いないと思えた。そこでまだ会って一日のリラと思い切って婚約をしてしまおうかとも思った。人生思い切りが肝心だ。誰かがそう言っていなかったかな。しかし誤解は解いておかなければ、とも思えた。
「あのう一寸一言説明させて頂きますと、昨日は僕の友人の店で飲んでいて、リラさんと一寸話が弾みすぎて、あんな時間になってしまったんです。で、店からタクシーで帰ってきたんです。いえ、別にリラさんのことが嫌だと言っている訳ではないです。これからお付き合いをさせていただきたいとは思っています。はい」」
「ああそうですか」
和夫は、翔たちの昨日の帰りの時間の事は一向に気にしていないようなそぶりだった。言い訳っぽくてかえってまずかったかなと、翔は思った。気まずい状況は尚も続いた。
「まあまあ、立ち話もなんだからコーヒーでもお飲みなさいな」
美奈が上機嫌でコーヒーを持ってきた。
やれやれと応接間に行き、コーヒーを飲みだした途端、
「翔君、こんな時になんだが、昨日の、ほれ二人の決闘というかやり合いというかを見ていてねえ」
広永和夫は急に痛点に触れてきた。この親父、見かけに寄らず性格悪いのかなと翔は思ったが、和夫は翔の狼狽も気にせず、ニコニコと話を続けた。
「君も知っていようが例の奥義、今生きている者で習得できている者は誰もいない。だが熊蔵爺さんが奥義の真髄をしたためてある巻物を探しに行っているんだ。その現物をわたしは若いころ兄や父親や、熊蔵爺さんやらと一緒に見た事がある。紅一族の道場を取り崩す事になった時にね。一族代々の道場だったが、その頃すでに私達の忍びの一族の流派は廃れてしまっていたな。父親は一家を養うのに苦労して居ったようだった。そんな時、その道場のある辺りをモノレールの建設で国が買い上げてくれる事になった。道場を潰すとなるといよいよお終いだったが、背に腹は変えられずだ。話が舞い込んできた時は皆喜んだよ。そこは広永家代々の山だったんだが、かなりまとまった金額で売れたと思う。私達の父親はそれを紅一族の再興に使うと言っていたが、所詮夢物語さ。その時私は親父と一緒にその道場の取り崩しに立ち会ったんだ。そして道場の押し込みを片付けていると、奥からその巻物は埃にまみれて見つかったんだが、誰もそういう巻物の事は聞いた事がなかった。見かけは桐の箱に入ってそれらしくはあった。だが開けてみると書いてある事が妙だった。『己の敵を愛せ』と書いてあったのだよ」
「それって、なんか聞いた事ありますよ」
「西洋のK教の神が言った言葉のひとつ、『汝の敵を愛せよ』の事だろう。君の聞いた事があるのは」
「そうそう、それです」
「私たちも、西洋にはその頃は行った事はなかったが、そのくらいの知識はあった。で、私も皆もこれは偽者だと思ったよ、外箱は大そう重々しかったが、箱に比べて中の巻物は一寸新しすぎるようにも思えたしね。きっと誰かが本物を盗んで、偽の巻物に一寸しゃれっ気を出してこの言葉を書いたんだと思った」
「そんな感じですよね」
「それで私の親父はその時、捨てようとしたようだが、熊蔵爺さんはそれを拾っていて、親類の支流の流派の男に、本家の真髄をしたためた巻物だといって売りつけたんだ。」
「それは、偽の巻物売りつけ詐欺事件として僕も聞いています。そのお金で誰かと駆け落ちしたんでしょう」
「ああ、知っていたかね。あの頃熊蔵爺さんはまとまったお金が欲しかったらしくて。山を売った金を欲しがったが父が渡さなかったので、喧嘩していたのを記憶している。だからああいう事を思いついたんだろうね。売りつけられた方も、中を見て偽者だと思ったんだろう。親父の所に金を返せと言ってきたが、親父は取り合わなかったよ。ははは。だけどね、昨日の君達を見ていて私は気が付いたんだよ。あれはどうやら本物の巻物だったとね」
「そりゃまたどうして、それとこれとは何の関係も無いような気がしますけど」
翔は朝っぱらから妙な話をし始めた、義理の父親になるかもしれない人を見ながら、何だか頭痛がしてきた。頭痛は二日酔いのためではないと思った。
「いやいや、大有りだよ。お前たちの昨日のやり合いはね、奥義の習得まで後一歩の所まで行ったと見た」
「まさかあ、あれがですか」
「そうだよ、君は自覚していなかったかもしれないが、二人とも、急所を打っておきながら、決めの最後の一瞬を躊躇していた。もちろん決めてしまうほどの技量はリラには無いのだが、それでもリラは一歩前で止めていたよ。闘気を止めていたし、急所の突き様も抑えていた。というのも、君が理由もわからず仕掛けてきていた。それに太刀打ちしなければならないが君に危害を加えたくない。君も例の犯人と間違えてはいても危害を加える気は無い。お互い敵を愛していると言うわけだ」
「ふうん、でもいつも練習の時はそういう感じだったような気がするけど」
「何時もやっていた事だと言うかもしれないが、練習と実戦では気構えが全然違うし技の切れも鋭くなってくる、実戦でこそ習得できる技かもしれない」
「と言う事は昔の奥義を習得した人って言うのは、練習のときもマジ切れだったってことか」
「はは、昔はそれが生業だったからね。とにかく奥儀がだんだん見当がついてきた事だし、私は家に帰って、息子たちと研究してみる事にするよ。私たちは今日の飛行機で帰る。思いついたら、何だか居ても立っても居られなくなってね。熊蔵爺さんは少し前に気が付いていたようだ。あの巻物にはうそ臭いあの一言の後にも何か書いてあったようだから、あれさえ見つかれば何とかなるような気もするんだがね」
そういうことで、広永一家はリラを残して帰ることになったのだが、翔は和夫の言ったことを後で考えてみると、奥儀がそういうことであったとしたら、忍びの技としては役に立たないような気がした。昔は相手を殺して何ぼの生業だったはずだから。と言う訳で、翔は何だか心に引っかかる物があった。しかし重要な事を感付いてもすぐ忘れてしまうのが、翔の特技でもあった。その引っかかりは直ぐに忘れた。
川田からスマホに電話がかかってきたのは、正午前の、丁度翔が朝昼ご飯のつもりで一人カップラーメンを食べている時だった。他の皆は広永一家の見送りに行っていた。
「いやあ、翔、悪かったな、お前を迎えに行かなきゃならん事をころっと忘れて、一人で出勤しちまって。ごめん」
「よく忘れられるものだな。誰の車で行ったんだよ」
「もちろんお前のだよ。俺のはこの間の捕り物で廃車になったじゃあないか、忘れたのか。ずっと自転車を愛用していたんだけど、やっぱ車はいいなあ、すっかり快適な通勤を思い出したよ」
「それは良かったね。で、俺の車だって事は思い出さなかったのかよ」
「ああ、ごめん。乗るときは解ってたんだけどついつい、右折し損ねて、お前の家に行く時のあの右折の信号、結構混むだろ、うっかり通り過ぎちまって」
翔はムッとして言った。
「ふん、どうせ遅刻すれすれで俺を見捨てて行ったんだろ」
「違う違う、署についてから、駐車場でUターンしようとしたら、チーフが窓から覗いたまま、『お前ら、ATM泥棒を捕まえに行け、すぐそこの和泉町のコンビニだって叫ぶから言われたとおりにしたんだ。お前も一緒と思っているはずだよ。後で午前中は捜索しますって連絡しといた。だからお前が来てないとはばれていないよ。今から迎えに行く」
どうだかなあ、チーフは感だけはいいからな、と翔は思った。
署に午後から行ってみると、案の定チーフ元山幸太郎は、にたりと笑って翔を出迎えた。
「やあ、桂木君。元気そうで何よりだ。君に少し相談事があってね、私の部屋に来たまえ」
そう言ってそのまま部屋に行きかけたが、急にくるっと振り返り、
「ところで桂木君」
これは、コロンボの真似だな。へたくさい。と翔は思った。
「おっほん、今朝は良く眠れたようだねえ。私が何度電話しても出てくれなかったし。最後は切られたから、私ももう電話は止す事にしたよ、ははははは」
しまった、また履歴を見るのを忘れた、というよりいやなものを見たくないという防御本能だっただろうか。こうなったら、翔は家に居る時は電源を切っておこうと決心した。
とぼとぼと、チーフの部屋に行き、こっぴどく叱られるものと覚悟していると、話は違っていた。
「桂木君、例の陽炎がねえ、君に話しがあるって言うんだよ。あいつあれでも起訴されるのは初めてだろ、弁護士を通して、保釈を申請してきたんだ。その件でお前に言いたい事があるらしい。なんでかわからんが。お前、今から特別室に行って来い。やれやれ、せっかく捕まえたのに」
「なんでですかねえ、分りました」
署の最上階に陽炎を捕らえてある部屋はあった。その階には今は誰もいない。というのもなまじっか見張りを置くと、見張り役が陽炎に例の変な薬を嗅がされて逃がすかもしれないからである。いやな予感を感じながら、翔は部屋の前まで来た。
陽炎用の特別室は、鍵を開けるのに暗証番号を入れなくてはならなかった。所長の、ややこしいのは直ぐに開けられなくて困ると言う意見で、各自の署員番号になっていた。そしてその中に普通の鉄格子で囲まれた部屋があった。翔は開けながら、これって絶対破られると思った。中に入ると、陽炎はこの部屋の窓から見えているフライドチキン店のチキンとコーラを飲んでいた。
「やっぱり」
翔はがっくりした。だから言わないこっちゃ無い。
「ああ、心配しなくていいよ、逃げる気は無い。旨そうに人が食っているのを見て、俺も食いたくなっただけだ。お前の名前と署員番号を言って付けにしておいた。給料日になったら請求しに来るだろう。ご馳走さん」
陽炎は、フライドチキンの紙袋の中に入っていた、お手拭で口をぬぐうと、当然のことのように、食べた後の生ごみを翔に渡した。
「ばれない様に店に戻した方がいいだろうよ。ここに捨てるとお前の仲間は食い意地が張っているから、誰が食ったか考えるだろ」
「食い意地がはって無くても気が付くさ」
翔は腹が立ったがゴミを持って、誰かに会ったらどうしようとハラハラ思いながら非常口を出た。
「何でこんなことしなきゃならないんだよ」
思わず口走って、非常口のドアの方を振り返ったが、ここまで来たからには、捨てに行くしかなかった。そうして、
「何で、俺はやつの言う事を聞くんだよ」
捨てた後、地団太を二、三度踏み、気を取り直して部屋に戻った。
翔は部屋に戻ると、鉄格子越しに陽炎を見ながら、この鉄格子も意味が無いようだなと思い、一人で会っているのが少し不安になってきた。ここで逃がしてしまっては、夏のボーナスはこの間もらった明細金額どおりには貰えないような気がしてくる。しかしあの額ぎりぎりで来週からの夏の休暇旅行を予約してしまっているのだ。それに、もしかしたら成り行きで、連れは川田ではなくリラになるかもしれない。いや、たぶんそうなるに違いない。そうなるとリラの費用は誰が払うのか、俺か?無理だ。今からキャンセルしても大丈夫かなあ。
「なにか、悩み事でもあるのか。俺でよかったら、聞いてやってもいいぞ」
陽炎に言われてはっと気が付いた翔は、
「何言ってるんだ、お前が俺に用があるんだろ、早く言えよ」
「ああそうだな、お前の悩みは話が済んでから聞いてやるよ。まあそこに座れ」
完全に陽炎のペースになったまま、翔は、置いてある椅子に座って、話を聞くことにした。どうせろくな話じゃないだろうな。翔の予感は的中もしたし、また予想外でもあった。
「話と言うのは他でもない。俺の保釈金だが、お前に払ってもらうしかないだろうな」
あまりの一言に翔は卒倒しそうになった。
「ふざけるな、何処にそんな金があると思うんだ。と言うより、何で俺が払わなけりゃならないんだ」
「しょうがないだろう、俺だって持っていないんだから。だけど弁護士の話だと、俺はただの泥棒だから百万位でいいらしいぞ。それに心配しなくても保釈金は後で返してもらえる」
「うるさい、うるさい、うるさい。俺が払う謂れはない」
「あはは、それが大有りなんだよ。聞いて驚くな。いや、たぶんお前は今の銭の話よりも驚くぞ」
「何を面白がっているんだ。ふざけているんならもう帰る」
翔は嫌になって部屋を出ようとすると、陽炎は後から言った。
「実は俺、広永熊蔵の息子なんだ」
「ひぇー、冗談言うな」
翔は叫んだが、冗談にしては陽炎が熊蔵を知っているわけが無いことに直ぐ気が付き、ぞくっと鳥肌を立てながら椅子に戻った。
「それって本当」
陽炎の様子を窺うと、
「本当も本当。マジの大マジ。俺は広永熊蔵五十二歳の時に、今じゃあ観光地になっているが、当時は南海の孤島だったハチ島で二十三歳の母親ニナに産ませた子だ。俺が一五の時親父は出て行ったが、それまで俺も例の家伝の技を習っていたんだ。それだけじゃあない、母親の方の実家はあの一帯では魔術師と言われている結構有名な一族でね、そっちの方の技も得意なんだ」
そこで、翔はひとつ疑問を感じた。
「そういうご立派な方が、どうしてこの国で泥棒やってつかまって此処にいるんだよ」
「いいねえ、そういう皮肉、お前と話していると、つくづく身内っていいなあと思うよ」
翔はあきれたが、どうも考えてみると陽炎は翔に対して好意的だった用に思える。もしかしたら、今まで自分が捕まえたと思っていたのは、わざとだったかも知れない。以前にもそんな感じがした事があったが、まさか、その理由は?と考えるとありえないように思えていた。だが、彼が自分のえーと何に当たるのかな、翔はようく考えて、
「ということは、あんたは親父の従兄弟」
「その通り、さっしがいいねえ」
褒められると、翔は今度は素早く頭を回転する事が出来た。
「だったら、保釈金は俺より親父に出させるべきだ」
「まあそれでもいいけど、俺とお前の仲じゃあないか。お前が出してくれてもいいかなと思ったんだけど。だってほら、お前に結構花を持たせてやったろ。まだ昇進していないのか。ボーナスだって今度のやつは額がいいんじゃあないの。俺を捕まえてお手柄だったろう」
やっぱりそうだったか。
「大きなお世話だったのに、俺は実力だけで勤務したかったよ」
「実力でいくとたぶんお前は今頃職を探しているはずだ。それにこっちにも都合があってねえ」
陽炎はカチンと来るような言い草で、自分の手首やこめかみを見せた。見ると怪我の手当をしてある。
「なんか、怪我するようなへまでもしたの」
翔は、負けずにカチンとくるように言ってやると、翔の機嫌の悪さも気にせず、陽炎は言った。
「へまは、四年前にしたんだ。親父が例のうそ臭い事の書いてある巻物を探している事を知っているだろう、俺もずっと気になって探していたんだけれど、四年前ある古美術商が持っているらしいことが解って、俺と弟とで盗んで来ようと言う事になったんだ。弟は三つ違いの烈っていうんだ。そうそう、俺の名は広永強と言うちゃんとした名があるんだぞ。そのころは俺はまだ盗みなんかした事は無かった。それが初めてだった。そんな事せずに買い求めればよかったのにと言いたそうだが、売るために持っているとは思えんだろ。まず第一、何故それが欲しいか、第二にどうしてそこに有ると知っているのか、そんなこと説明するわけには行かないだろう、仮にも俺たちは人目を憚る忍びのはずだろ。お前はあまり憚っていないようだが。それにその古美術商は橘と言って俺たちの先祖の宿敵、大河俊重のゆかりの者らしかった。それで俺たちの家伝の巻物を手に入れたのだと思った」
「その大河俊重って誰」
陽炎はあきれて、
「そんなことも知らないのか、お前歴史習った事無いのか。まあいい、後でゆっくり説明するよ。巻物を盗む事は、親父には止められたけれど、俺と弟はなんかこう親父を感心させたいような、いいとこ見せてほめられたいような気分で、今考えてみると世間知らずもいいとこだった。盗みに入ったけれど、直ぐに見つかってしまった。その古美術商の家はハイテクの防犯設備がしてあった。弟は自動発射の銃に撃たれて動けなくなった。俺は弟を見捨てて逃げる事は出来なかったし、それで二人して捕まってしまった。只のこそドロと思われようとしたが、彼等は俺たちの素性を知っていた。たぶん情報もわざと漏らしたんだろうよ。弟を人質にされて俺は、高価な美術品を盗む事を命令されたんだ。一人で逃げるわけには行かないし、それに此処と此処に隠しマイクとマイクロカメラを埋め込まれたんだ。だから奴らに操られているしかなかったんだ。昨日お前の所のチーフが取調べの時に見つけてくれて取ってもらったよ」
そう言ってもう一度陽炎は傷を指差した。
「だったらどうしてつかまった時に直ぐいつも逃げたんだよ」
翔は陽炎の苦境を聞いてなんだか悲しくなってきた。
「そう易々と捕まるはずが無い事をやつ等は解っているんだ。わざと捕まったと解ると弟が殺される。何度か逃げて警備が厳重になっていって、程ほどのところで捕まろうと思ったんだ。怪しまれないようにね。保釈になったら、弟を助けに行かなければならない。出来るだけ急ぎたいんだ。わざとじゃない様にしたつもりだけれど、早い方がいい。助けに行くのには俺一人じゃ無理だからお前もついてきてくれないか」
「解った。直ぐ金を用意する」
翔は父英輔に直ぐお金を振り込むように電話しようとして、書類をそろえなければならない事を思い出し、慌ててチーフの所へ走った。特別室のドアを閉め忘れていたが、それどころでは無かった。
「チーフ、保釈申請の紙ください。えーと銀行の振込みは三時までかな。急がなきゃ、あっ事務の片桐さんに振込先番号聞いとかないと。チーフ、確かこの間保釈があった時は、振込みを確認した時点ですぐ出してましたよね。当日OKでしょ」
「桂木、陽炎になにか嗅がされたな」
「チーフ、私は正気です。どうせ事情は弁護士から聞いているんでしょ。それから今から陽炎の弟を救出に行きます。いえ加勢の人手は必要ないです.気付かれないようにしたいですから。救出が完了したら連絡しますので、その後地元警察に連絡したければしてください。私一人では犯人の逮捕は無理ですから。私は救出だけです。救出時間は未定ですがそんなに長くは無いと思います。もしかしたらこれでお別れかもしれませんので、お世話になりました。いえ、正気です。保釈の申請書、これでいいですか。ではさようなら」
翔は振込先を聞き、父英輔に事情を電話すると、
「振込みなんかめんどくさい、金を持って迎えに行く」
と言った。それが最短かなと思い、翔は陽炎を連れて署の玄関前で父を待った。
署の皆は遠巻きに見ながら、何かひそひそ話している。翔は、きっと皆は自分が陽炎に何か嗅がされたと思っているのだろうと思った。だが実の所、翔が大声で英輔に電話していたので、事情は皆知っていた。陽炎の方は署の人間の中に橘一族に通じている者がいたら、と心配になっていた。
「翔、今日のうちに橘一族のアジトに行けるかなあ。背鰭島なんだけれど」
「そうだ、ヘリコプターを借りよう。最近音のしないやつを本部で買っているはずだ」
翔は慌てて奥の手配の係の方へ戻ろうとした。
「運転できるのか」
陽炎は念のために聞いてみた。
「前の型のは知っているよ。警察学校で習った。今度買ったのもそんなに変わらないだろう。あっそうだ、公務使用で武器もいろいろ借りられるんだったっけ。」
しばらくして、翔は武器も結構沢山持ってきた。
「有り難いけど、そんな事して大丈夫か」
陽炎は少し翔の今後が心配になってきて訊ねた。
「後の事は後で考えるさ、だけどヘリコプターは俺には無理。運転手を頼んだよ。二時間後に迎えに来てもらう事にした」
「それも有り難いけど、弟を助けるのに関係ない人を巻き込めないぞ。俺らのことで死傷者を出す訳にはいかないからな」
翔は陽炎は結構律儀な人だったんだなと思った。
「じゃあ、降ろしてもらったら、帰って良いって言う?」
「そうだな、今からだと明るいうちに着いてしまうから、近くの港までにして向うでボートを借りて行こう」
そうこう言っていると、父英輔がやって来た。そして何と父は、陽炎こと広永強と涙の再会を果たした。いや、彼等は初対面のはずでは無いか、初対面でよく感動できるなあと翔は思った。年を取ると涙もろくなると言う話だからな。と感心していたが、陽炎は気が急いていたので振り切って、
「すみませんが、ちょっと急いでいるんです。弟を助けに行かなければ。早くお金を払ってください」
と言った。薄情なやつと英輔は思ったかどうか、
「少しぐらい時間はあるだろう。せっかくだから家族にも会わせたい」
翔は思い出して言った。
「ヘリコプターは1時間後だよ」
それなら、家にヘリコプターを呼べば良いということになり、皆で家に向かう事になった。翔は住宅地にヘリコプターはどうかなと思ったが、
「ヘリコプターが下りるのに前の公園が丁度良い大きさだ」
と言う、金を払った父に逆らう事は出来なかった。
家に帰ると、母美奈は大歓迎、広永様様だった。何と近所の寿司屋からかなり良いランクの出前を取って宴会の用意は整っていた。翔は陽炎の方を見ると彼もこれには涙目になっていた。英輔は本人に代わって美奈に説明した。
「母さん、まだ弟の烈君が橘一族に捕まっているそうだ。これから直ぐ助けに行かなければならないんだ。宴会はその後だ」
「すみませんこんなにまでして貰っておいて」
と陽炎は言ったが、柄にも無く殊勝な事を言っていると翔には思えた。つまり陽炎は年配の女性に対しては、あるいは女性全般に対しては態度がごろりと変わるタイプらしいと解釈できる。
「まあまあいいのよ、そんなこと。それより二人とも気を付けるんですよ。翔で大丈夫かしらねえ」
美奈はおろおろと心配げに言った。
「何言ってるんだよ、何年警察に居ると思っているんだ」
翔は少し憤慨した。その時ふと視線を感じて振り返ると、リラが後ろの壁際から翔と陽炎をちらちらと見比べている。この顔は値踏みをして比べている感じだなと翔は思った。自分から陽炎に乗り換えるべきかどうか考え中と見えた。陽炎も気が付き、
「リラさん、私には故郷の島に婚約者が居ますんで」
と、お断りした。
「ああら、何のこと」
リラは笑って誤魔化していた。翔はため息をついて、少し位食べておこうと寿司をつまんだ。
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