第34話 稲城探偵事務所

 僕が改めて心構えをする時間も待たずに、柴宮さんは「お疲れ様ァ」と軽々しく扉を開いた。それは僕にしてみれば、天岩戸を開けるような行為に等しい。

 肩から力が抜けないし、足の関節が上手く曲がらなかった。唇がくっついてしまいそうなほど乾いた口で「失礼します」と挨拶をするのが精一杯。


 雑居ビルの一室、事務所内は想像していたよりも広かった。所長の席だろう大きいデスクが一番奥に置かれ、それに従うように一回り小さいデスクが並んでいる。全部で六台、うち現在進行形で使っていそうなのは四台だ。名前の分からない大きな観葉植物の鉢植えがデスクごとに配置されている。

 壁一面を埋める本棚には、本とファイルがびっしりと詰め込まれていた。それから、なぜか三体のトルソーが点々と置かれている。絶対に探偵事務所には必要がなさそうなそれは、どれもが派手な異国の民族衣装を着ていた。


 ……説明されなければ、僕はここが探偵事務所だとは分からないと思う。


 ぎこちない歩行で室内に入れば、動くものは若い男性が一人。若いといっても、成人はしていそうだから僕よりも年上だけど。柴宮さんよりも少し上だろうか。

 その人はやはりというか、なんというか、整った顔をした人だった。衣装なのか、テロテロした紫色のシャツにギラギラの白いスーツを着ていて、どこからどう見てもホストだ。夜の男。色の抜けた金髪が地毛を染めているのか、ウイッグなのかは分からない。

 派手な男の人に頭を下げれば、彼はぱっと笑って、友好的に手を挙げて応じてくれた。


「ちーっす! どもどもー!」

「こ、んにちは」


 かっと目を見開いたその人は、何が面白いのかぱちぱちと手を打ち鳴らして大笑いした。行動こそシンバルを叩く猿のオモチャみたいだけれど、笑った顔は子犬みたいで愛嬌がある。そういうところがなおのことホストっぽい。行ったことないけど。


「うっわ、若ぇ……! 絵麻ちゃん、マジで高校生をスカウトしたんだ! しかも、イケメン!」


 能天気な声色に屈託のない笑顔。外見からしてちょっと近寄りがたい――そんな苦手意識はすぐにどこかへと飛んでいった。

 彼は柴宮さんと似たタイプの人だ。他人との距離感がバグっていて、何でも笑い飛ばすマイペースな人。きっと、関わっていくうちに、人となりを難しく考えるだけ無駄だと思わされる。間違いない。


「こちら、廿楽ヶ丘伊朔くん。顔もいいし賢いけど、口は悪いし氷河期ばりに冷たくてドライだから、下手に構って怪我しないように気をつけろよ」


 名前も知らない男の人への警戒がなくなった分、柴宮さんへの不快値が上がった。本当にデリカシーがない、素直の域を飛び越えている。


「所長は?」

「応接室にいる。張り切ってんよ~」

「さんきゅー。伊朔くん、こっち」


 柴宮さんはぐいぐいと僕の腕を引き、かつかつと先に進む。男の人へ挨拶する隙もなかった。

 事務所はこの一室で完結しているのかと思いきや、出入り口とは違う扉が二つ。磨かれたプレートには“会議室”、“書庫”とそれぞれ書かれている。柴宮さんは会議室の扉をノックして、返事を待ってから扉を開けた。

 この人でも返事を待ったりできるんだな、と感心してしまった。


「失礼しまーす。所長、伊朔くん連れてきましたァ」


 会議室というよりは応接室みたいな部屋。部屋の中心にローテーブル、それを挟むようにソファーが並んでいる。やっぱり謎の観葉植物は置いてあったが、それ以外に飾り気のあるものはなかった。


「やあ、こんにちは」


 部屋の奥側にソファーに座っていた落ち着いた色のスーツの男の人は、目を糸のようにしてにっこりと笑った。穏やかな様子の恰幅のいい大柄な男性。年代と体格のせいだろうか、父さんに似ているなと思った。顔も雰囲気も全然似ていないんだけれど。

 探偵ってもっとこう鋭くてやさぐれたイメージがあったらか、いい意味で拍子抜けした。屈強で腕っぷしは強そうだけれど、その拳で人を殴ったりは絶対にしなそうだ。

 

「こちら、稲城所長。うちのボス」

稲城いなぎたけるです。今日はよろしくお願いします」


 稲城さんはすっと立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。座っていても存在感があったけれど、立ち上がると一層に迫力がある。


「廿楽ヶ丘伊朔です。今日はお時間を作っていただいてありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」


 僕も倣うように深々と頭を下げれば、稲城さんは「緊張しなくても大丈夫だよ」と朗らかに声をかけてくれた。柴宮さんもさっきの男の人も友好的だけれど、この人は二人と比べにならないほど親しみがある。

 僕の知っている限りで近い職種を挙げるなら、両親の離婚のときにお世話になった心療内科の先生。この人になら何でも話していいと思ってしまう。


「じゃ、頑張れよな」


 柴宮さんは思いっきりに僕の背中を叩いてから会議室を出て行った。彼女なりに喝を入れてくれたんだろうけど、僕には激痛でしかない。

 ぱたんと静かに扉が閉じて、僕は所長さんと二人になった。


「伊朔君、座ってください」

「……はい」


 勧められるがままソファーに座る。見た目より座り心地が悪い。

 こうして、対面してもやっぱり所長さんに威圧感は感じなかった。ソファーがきつそうだな、テーブルが低そうだな、とだけ。


「私から先にお話しをさせてもらってもいいかな」

「はい」


 いいえ、なんて言える立場じゃない。

 背筋を伸ばして言葉を待てば、所長さんは笑顔を崩さないまま、「最初にこんなことを言うのは忍びないんですが、私は君がこの事務所でバイトする――というより、探偵という業務をすることに賛成しかねます」と今日の天気の話をするような適当さでのたまった。

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