第32話 お母さんと一番仲がいい星乃ちゃん
「人は顔じゃないなんて言うけどさ、それは清く美しい恋愛の話であって、浮気だ火遊びだってなると、男か女のどっちかは整った容姿をしてるもんなんだよね。面白いことに、される方かする方かは関係なく」
講釈の真偽はともかく、僕は恋愛に綺麗なものがあるとは思わない。けれど、それを口にすることはしなかった。ほぼ初対面の人にそんなことを熱弁しても、偏った自論を掲げる変人にしかならない、ということを美緒さんとの対話で学んでいる。
「まあ、顔が良ければこの世は天国ってわけじゃないけどな。その辺は説明しなくても、伊朔くんくらい美少年なら経験あるだろ?」
「……そうですね」
「ははは、可愛くねー」
端整な容姿というのは、確かに人の目に留まる要因になるだろう。それは、何かしらの興味を抱くきっかけだ。
好きになったり、憧れだったり。ただし、それは良い感情だけとは限らないし、そう想ってくる相手が同年代の異性だけとも限らない。僕からしたら、同年代の異性でも面倒だと思うのに、初老の男に鼻息荒く迫られた日には、自分の顔も好きじゃなくなるというものだ。
「ちったあは謙遜しろよな」
そう言って笑う柴宮さんだって、均整の取れた顔をしている。表情も豊かだし、朗らかで気さくだ。顔は良くても愛想はないと言われ続けている僕なんかより、よっぽど嫌な目に遭ってきているんじゃないだろうか。
「ってことで、今から職場見学とかどう?」
探偵事務所でのバイトの件は、奇跡的にもお互いに都合がいい話だ。彼女は条件に合うバイトを探していて、僕は別れさせ屋の仕事内容を知りたい。一も二もなく「行きます」と言いたいけれど、僕の口はへの字になったまま動かなかった。
そもそも、僕はバイトをすることができない。
美緒さんへの恋心と廿楽ヶ丘家のルールを心の中の天秤にかける。天秤は右へ左へ揺れに揺れて、最終的にに均衡を保った――かのように思えたそれは、僅かにだけれど後者へと傾いていた。
「……お話しには興味ありますけど、うち、バイト禁止なんです」
「校則?」
「いえ、家庭のルールで」
「え……? マジ……?」
「マジです」
ぽかん、と口を開けた柴宮さんは、信じられないとばかりの表情を浮かべている。僕以外にもバイトを禁止されている友人はいるし、別におかしなことではないと思う。ただ、親の過保護が透けて見えるのも事実だった。
いや、でも、バイトが許されていたとしても、そのバイト先が探偵事務所だったなら駄目と言われる気はするから、どちらにせよかも。
「ふうん、そっかあ」
煮え切りませんという返事をする柴宮さんは、ようやく見つけた人材を諦めきれないようである。僕だって、こんなにいい話を無下にはしたくない。
じゅうじゅうと肉の焼ける音と、少ない客の会話が遠巻きに聞こえてくるだけで、僕も柴宮さんも一つも音を発していなかった。
沈黙の間、僕は行儀悪くもスプーンで溶けかけのバニラアイスを混ぜながら、妥協案はないかと頭を悩ませていた。一つくらい妙案が浮かんでもいいはずなのに、僕の頭は真っ白のまま。
そうしている間にどれだけ経ったのか、数分か、数十分か、僕の思考を邪魔するように、ずいとシンプルなクリアケースに収められたスマホが目前に差し出された。
「とりあえず、連絡先、交換しとこうぜ」
「……はい」
連絡先を交換していて悪いことはない。結果的にバイトができなくたって、柴宮さんと連絡がつくならば別れさせ屋の話だけは聞けるかもしれない。
柴宮さんは僕の連絡先を登録するや否や、テーブルの上に一万円札を置いて「じゃ、親の説得ができたら連絡して」と立ち上がった。
「え、ちょ、柴宮さん!?」
「なるだけ早く頼むな。あ、お釣りは次のときに返して」
手を伸ばしても、足早に去っていく背中には届かない。まさかの行動に目を白黒とさせているうちに、僕は一人取り残されていた。
脱力のままに座席の背もたれに寄りかかれば、この一時がすべて夢幻だったのではと思えてくる。
がらがらの焼き肉屋に残されたのは、一万円札と溶け切ったバニラアイス、それから、事態についていけない僕。
親の説得ができたら、なんて簡単に言ってくれる。あの母さんを説得するなんて、僕にできるのだろうか。
◇
「バイト?」
柴宮さんにバイトのスカウトをされたその日、僕は夕飯の席で一番頼りになる長姉相手に相談を持ちかけた。
もちろん、バイト先が探偵事務所だとは言わずに、知り合いに誘われてバイトしたいと思っていると要所だけに端折って、聞かせられるところしか教えていない。
「それなら、私よりも星乃に相談した方がいいかも」
「……星乃に?」
思いもよらない提案だった。陽菜よりも星乃の方が頼れることなんて、美味しいお菓子を売っている店を教えてもらうことくらいだと思っていたから。
星乃を当てにする意味が分からずに困惑していると、陽菜は「伊朔、そういう顔していると星乃に怒られるよ」と苦笑いした。そう言われても、ぴんとこないないんだから仕方がない。
「私が学生のときも伊朔みたいに駄目って言われてたけど、星乃は高校のときからバイトしてるから」
「は……?」
そんなことまったく知らなかった。
高校の頃から家にいない時間はあったけれど、どうせ男遊びだろうなと不在を不思議に思ったことがない。高校のときから、ということは今もバイトしているのだろうか。そんな、まさか。
どうして星乃だけが許さているのか、陽菜に詳細を聞いてみたものの、答えは「私も分からない」というものだった。その後、話は思わぬ方向に曲がり、陽菜は僕の世話を焼く姉の顔で「それより、もうすぐ中間試験でしょ? ゲームの大会も出るって言ってたし、バイトなんてする時間あるの?」と正論をぶん投げてきた。
「大丈夫だよ」
自慢じゃないけれど、成績は悪くない。むしろ、良い方だ。自主学習の時間なんて必要ないとまでは言わないが、きちんとスケジュールを立てれば、勉強もゲームもバイトもできると思っている。
陽菜はほんの少しだけ呆れた様子で「無理しないようにね」と僕の根拠のない自信に苦言を呈した。
夕食後、いつもならリビングで陽菜と会話をするか、自分のしたいことをするかの二択であるけれど、今日は自室でスマホと睨み合っていた。
画面が暗くなるたびにつけ直して、表示される名前を見てため息がつきたくなる。廿楽ヶ丘星乃。自由奔放が服を着て歩いているかのような女だ。
いつ帰ってくるか分からない姉を待つ気にはなれず、からかわれても甘んじて受け入れると覚悟を決めて、電話をかけることにした。無理に接点を持たなくても帰る家が一緒だから、連絡を取るにしたってメッセージを送るくらいで、電話することは滅多にない。
コール音が重なるたびに、なぜが喉が渇いていった。舌が上顎に張り付きそうになる。ぷつっとコール音が途切れて「はいはーい、伊朔? どうかしたの? 緊急事態?」と呑気な姉の声が聞こえてきた。
「あー、うん、今ちょっといい? 相談があって」
「……は? 伊朔が相談? わたしに? 陽菜じゃないよ?」
星乃は自分の行動に対してどこまで客観的に見ているのか。そして、星乃は僕が星乃のことをどう認識していると思っているのだろうか。
問いただしたりはしないが、こんなことを姉に言わせるのはちょっと申しわけないな、と思った。口が裂けても、陽菜に相談した結果、星乃に相談しろとアドバイスされたとは言えない。
「星乃に相談だから間違ってない」
「そなの? 珍しー。まあ、いいわ。ふふ、弟の悩み、お姉ちゃんに聞かせてみなさいよ」
こういうときに前向きに構えてぶつかってくれるのは星乃のいいところだ。陽菜は一歩引くし、母さんは一歩出てくる。星乃は友達が多いし、人の相談を聞き慣れているんだろうな、というのが説明されずとも伝わってくる。
「……あの、俺、バイトしたいんだけど、星乃ってどうやって母さんに了承を得たのか聞きたくて」
普段、どうやって星乃と話していたっけ。借りてきた猫のような大人しさでそう尋ねると、間髪入れずに「バイトぉ? あんたが? なんで?」と質問が倍になって帰ってきた。
「なんでって、知り合いが人手不足で困ってて」
陽菜にしたのと同じように聞かせられるところだけを発信すると、星乃は「やだあ、伊朔にも人情ってもんがあったのね」と失礼なことをのたまった。こういうところは星乃の悪いところだ。何がやだあ、なんだよ。
とはいえ、今は星乃が頼みの綱である。どうしたらいいか、と言葉を変えて同じ内容を尋ねば、意外な返答をされた。
「わたしから母さんに話してあげよっか。伊朔がバイトしたいんだってー、って」
今日は姉二人に裏切られてばかりだ。いい意味で。
「そこまでしてもらうつもりは――」
「どーせ、伊朔からじゃ駄目って言われると思うけど」
「……星乃が頼めばいいって言ってもらえるの?」
「もちろん! なにせ、わたしはお母さんと一番仲がいい星乃ちゃんだし?」
ふざけたことを抜かしやがってと思う反面、本当に星乃だけに許されているのだからその通りだなと得心がいってしまう。
実際、僕が母さんにバイトの許可を求める光景を想像してみたが、どれだけ試行回数を重ねても上手くいく未来は見えなかった。
「…………よろしくお願いします」
「やだ、殊勝♡ まっかせなさーい」
僕からかけた電話はその一言で締めくくられて、ぶつりとあちらから切られた。姉弟で電話をしただけなのに、どっと疲れた気がする。
今日は母さんと顔を合わせる気にはならず、母さんが帰宅する前に風呂に入って部屋へと籠った。別に悪いことをしているわけじゃないのに、どうも気まずい。
気を紛らわすためにゲームに逃げたものの、集中力に欠けてしまって散々な結果だった。顔も知らない奴にボイスチャットで煽られるし、ランクは落ちそうになるし、最悪だ。
もう寝てしまおう、とベッドに飛び込み、スマホをいじっていると身内から二つのメッセージが届いていた。
一つは「感謝しなさいよね」という星乃からのもの。そして、もう一つは「星乃から伊朔がバイトをしたいと考えている話を聞きました。高校二年の秋までならいいと思います。詳しいことは明日、お話ししましょう」という母さんからのものだった。
どうやら、“お母さんと一番仲がいい星乃ちゃん”は伊達じゃないらしい。
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