第19話 廿楽ヶ丘家の地雷

 初めての恋というものに戸惑っていた僕は結局、陽菜たちのところには戻らなかった。戻る気にもならなかった、というのが正しいかもしれない。みんなに謝っておいて欲しい、という言伝を美緒さんに託し、力の入らない足で家へと帰った。


 空腹感も忘れ、ただ、自分の感情というものを持て余す。

 これが恋だとして、自分にできることは何もないのではないか。始まったと同時に終わっている。なにせ、彼女は結婚を控えた身だ。

 ただ、だからといって、この気持ちを忘れてしまおうと切り替えるには時間が浅すぎる。僕は未だに混乱していた。自分の身に起こっていることを理解しきれていない。


 その日は帰ってすぐにベッドへと潜り込んだ。陽菜と話す気にもならなかったし、門限を守らなかった後ろめたさもあって、母さんにも会いたくなかったから。






 次の日の朝、昨日も洗面台の前で同じことを思ったなと鏡の前で深く嘆息した。目の下には隈、顔色は白というより青。こんなに体調の悪い自分を久しぶりに見た。

 意味もなく笑えてしまう。それがまた異様さに拍車をかけていた。

 食欲はないけれど、おなかはぐうぐうと音を鳴らしている。少しでもいいから食べなければ。

 ダイニングへと向かうべく廊下に出たところで、正面にいた人影が「おはようございます」と涼やかな声を発する。まずい、と思ったときには手遅れだった。


「……母さん」

「伊朔……? どうしたの、顔色が悪いわ」


 ばたばたと僕に駆け寄ってきた母さんは、僕の両肩を気遣わしげに掴んで顔を歪めた。どちらの具合が悪いのか分かったものじゃない。


「ちょっと夜更かししちゃっただけ。体調が悪いとかはないよ」

「でも……」

「本当に平気だって」

「何かあったんじゃない? ちゃんと言って――」


 誰の目から見ても母さんは過干渉で過保護。家庭訪問や三者面談なんかの学校側との面談じゃあ、遠回しに母さんが窘められることはままあった。

 母さんは十七年間――陽菜の生まれた頃からだと二十五年間、ずっとこの調子だから、あしらうのは慣れたものだ。でも、今は鬱陶しくて仕方がなかった。放っておいて欲しいのに、と。

 多分、昨日からずっと地に足がついていないんだと思う。冷静な判断ができる状況じゃないというか、きちんと現実が見えていないというか。

 だから、失言した。


「父さんに会っただけ」


 母さんの手を払いのけ、もういいだろと吐き捨てる。

 実際の原因は美緒さんなわけだけど、美緒さんの存在を知られるよりは、父さんをやり玉にあげる方がいいやと思っての発言だ。ちゃんと考えれば、絶対にそっちの方が誤りだと分かるのに、そんなことも分からなくなっていた。

 僕の発した言葉の残響が消える瞬間、空気が冷えたのが分かった。

 人の発する気配を読む特技はなくても、今だけは間違えたということを確信した。頭の中で恋にかまけて分かり切った選択を外すなんて馬鹿め、と自責する。ほらみろ、これだから人を好きになるのはいいことじゃない。


「伊朔」


 母さんは無機質な目で僕を見ていた。


「どうして……? なんでそんなことになったの!?」


 地獄から響くような悔恨に満ちた声色。

 何ごとかとリビングからこちらに顔を出した陽菜は、母さんが「あの人と会うなんて!」とヒステリックに叫んでいるのを聞いて、顔を青ざめさせた。まずい。被害が広がっている。

 今にも髪を振り乱しそうな母さんに「会おうとしてあったんじゃない。偶然」と本当だけれど嘘にしか聞こえない主張をぶつけた。


「僕が母さんに嘘つくわけないだろ」


 これは魔法の言葉だ。母さんの親心を裏切るような気持ちになるから、滅多に使うことはない言葉。

 母さんは僕を瞬きもせずにじっと見つめた。本当に嘘をついていないか見極めている。浅くなっていた呼吸が段々とゆっくりになっていき、最後には「そう」と自身に言い聞かせるように呟いた。感情の起伏が激しい。

 陽菜はいつの間にか頭を引っ込めていた。英断だろう。


「母さん、もう時間じゃない?」

「ええ」

「いってらっしゃい」


 廿楽ヶ丘家で父親という存在は地雷。一生、撤去されることのない爆弾。そして、その息子のアキギリさんの恋人が僕の好きな人。

 何でもかんでも、美緒さんを紐づけて結論を出す自分の思考回路に辟易した。

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