第18話 初恋
違う。僕があそこから逃げ出したのはアンタが原因です。
そんなこと言っても仕方がないから言わないけれど。僕の考えとは裏腹に、体は彼女の手を離しがたいと訴えていた。
転んだ拍子に忘れた吐き気が戻ってくる。ここに長居すれば、陽菜や父さん、アキギリさんも追ってくるかもしれない。足は転倒での痛みを無視し、勝手に歩き出していた。陽菜さんの手を掴んだままで。
こんなことあるわけない。でも、勘違いだと主張するにはこの痛み抱え続け過ぎてしまった。この短い時間に何度も自問自答しているけれど、結果は一度たりとも変わらない。
身に覚えのない心臓の痛みも、どうしようもないわだかまりも、かきむしりたくなる焦燥も、その原因はすべて美緒さんだ。
僕は美緒さんが結婚することが嫌だった。
いつから、どうして――、これが異性を好きになるってこと? こんなに苦しくて意味の分からないものが? やっぱり、恋愛ごとなんてクソだ。関りもない他人に執着することに寒気がする。
しかも、相手が最悪。恋をするにしたって、もっと楽な相手がいるだろうに。離婚した父親の養子の恋人だなんて。
「あの、伊朔君、大丈夫?」
「…………大丈夫じゃないから出てきたんですけど」
俺と美緒さんの認識の違いは訂正しなかった。そもそも、訂正しようがない。美緒さんが結婚の挨拶をしているところを見たくなくて出てきました、なんて。
「……そうだよね。私で良ければ、お散歩に付き合うよ」
この人のこういうところが駄目だ。俺の手をはねのけないところ、誰にでも平等らしいところ。
僕の足は家の方向へと進んでいるけれど、このまま彼女を連れて帰るわけにはいかない。俺のことは放っておいてくださいと言って、手を離さなきゃいけないのに。
「秋桐が陽菜さんに会ってたのは、親孝行の一環でね」
僕の胸中など知る由もない美緒さんは、僕に引きずられるようにして歩きながらおずおずと語り始めた。意識し始めたら声を聞くだけでも妙な気分になってくる。手汗がすごい。
「親孝行ですか?」
「うん。秋桐、お義父さんと由梨さんの関係は修復できなくても、子供たちとはどうにかならないかって考えてたみたいで」
僕が正常な思考を保っていたなら、アキギリさんは父さんが好きなんだろうなと考えたことだろう。わざわざ、自分の立ち場を脅かすようなことをして、と。
ただ、困惑した僕の頭では、アキギリさんは美緒さんと結婚する人という立ち位置でしかない。言葉は悪いけれど、この人がいなきゃこんなに複雑なことになっていないのにとお門違いなことを考えていた。アキギリさんがいなきゃ、美緒さんと出会うこともなかったというのに。
「陽菜さんだけはお義父さんと内緒で連絡とってるって聞いてたから」
美緒さんはずっと説明してくれたらしいけれど、僕に聞き取れたのはその一言だけだった。
昨日の陽菜はだんまりだったけれど、もう知ってしまったのだから隠しはしないだろう。父さんのことは改めて、陽菜から聞けばいい。
駅を通り過ぎたところで、僕の足はようやくと止まった。後ろを振り返り、名残惜しく手を離して、後退りするように一歩、二歩と彼女から離れる。
おかしくなった頭の隅は冷静だった。美緒さんを連れ回すにはここまでが制限時間いっぱいだ。これ以上は彼女を迎えに誰かがやってくる。
「あの、美緒さん」
僕を見上げる黒い瞳は夜空みたいだった。店の証明や街灯の光が反射して綺羅星のように輝いている。
美緒さんの瞳に映り込む僕の顔は何度も見たけれど、今、そこにいる僕は見たことのない顔をしていた。
きっと、これが恋をしている人間の顔。
「……連絡先、教えてくれませんか?」
仰々しい様子で吐き出したのは拙いナンパみたいな一言だった。気が利かない。美緒さんはきょとんとした後にきゅっと目元に皺を寄せるように笑って「いいよ」とスマホを差し出してくれた。
その顔を見た瞬間、僕は諦めた。もう、自分ではどうしようもなかった。
これが僕の初恋の話。
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