第12話 ひびの入った日常
――酷い顔してる。
むくんだ頬に重そうな瞼、への字に曲がった口。朝起きて、鏡を見て、そこにある自分の顔を見て失笑した。
昨日の夜は寝つきが悪かったけど、それにしたってこんなあからさまに“何かありましたよ”という顔をしているとは思わなかった。ばしゃばしゃといつもより長く顔を洗っても、タオルで強く拭っても、流せるものではない。
「おはようございます、伊朔」
洗面台を一人で占拠していた僕の背後、朝から涼やかな声をかけてきたのは母さんだった。身支度も整え終わっていて、鞄さえ持てばそのまま出社できそうだ。
母さんとは朝と夜のちょっとの時間しか顔を合わせないけど、気の抜けた姿というのはほとんど見ない気がする。いつでもきっちりとしていて隙がない。
そんな母さんを見ていると、情けない自分の顔を見せるのが嫌で、無理矢理と目元に力を入れてから、タオルを鼻までを隠す位置にずらして応対した。鏡越しに目が合うと、母さんは柔らかく目を細める。
「おはよう。ごめん、鏡使う?」
洗面台の前を開けようとすれば、母さんは緩く首を振って「洗濯機、もう回してしまった?」と手にしていたハンカチを掲げた。鞄の中に入れっぱなしになっていたのだろう。
「まだ」
「そう。よかった、間に合って」
母さんはこれから回さなきゃならない洗濯機にハンカチを入れながら、困ったように眉尻を下げて「ごめんね。いつも任せきりで」と聞き飽きた謝罪を口にした。
「別に。僕よりも陽菜の方が大変だし」
「……陽菜には迷惑かけっぱななしだわ」
自分が至らないとばかりの言い口。そういう意味で言ったんじゃないよとフォローを入れるつもりだったけれど、陽菜になら何でも迷惑をかけていいみたいな言い方になりそうで口を開けなかった。今日は顔だけでなく。頭も調子が悪いようだ。普段ならもっとましな言葉を思いつくのに。
タオルの下でもごもごとしているうちに、母さんは「いってきます」と踵を返していた。母さんに雑談以上の意味はなかったのだろう。
「……いってらっしゃい」
ようやくとタオルを外せば、さっきよりも疲れた顔をした僕が鏡に映っていた。
この顔を見せていたら、母さんはなんて言っただろうか。あんまりいいことは言われなかっただろうな。今日は学校を休めとか、誰に何を言われたんだとか。
母さんは成績や趣味なんかにはとやかく言わないけれど、僕らの自立については過干渉なところがある。子供はいつまでたっても子供。僕や星乃のバイトが許されていないことや、陽菜の一人暮らしが却下されたことなんかがいい例だろう。
父親がいない分いい母親であろうとした結果なのだろう、と言っていたのが誰だったかは覚えていない。
確かに、母さんは家族はお互いを思いやって結束するものだという意識が異様に強い。絵に描いた家族というものを正解にしている節があった。ただ、その絵の子供はいつまでも十に満たない子供のままなのだ。
それをいいこととは断言できないけれど、母さんが一生懸命なことは理解していた。
いつまでも鏡を見つめていても何も変わらない。
使い終わったタオルを投げ入れ、洗濯機を回した。洗濯が僕の担当家事になっているけれど、乾燥までかけてしまうから干したりなんかの作業はほとんどない。乾燥機にかけられない服はたいてい不在ばかりの星乃の服だし、母さんと陽菜のスーツはクリーニングだし。学校から帰ってきたらたたんでしまうだけ。
調子が悪くてもやることは同じ、時間は止まらないし、仕事が減るわけでもない。
◇
朝からというか、昨日の夜から不調の僕は、学校が終わっても真っ直ぐ家に帰る気にはならなかった。
別にどこにいたって一緒なんだけれど、僕の足は勝手に足繁く通っている洋菓子店へと向かっていた。甘いものは好きだ。単純に味が好きだし、疲れた時には甘いものという考えが刷り込まれていて、気分転換の意味でも摂取することが多い。
通い慣れた道を進み、メルヘンな外観に怯むこともなく扉を開く。店内に踏み入れたところで、ここにすべきじゃなかったなと後悔した。
店内にいた客は全部で七人。四人がけ席にママ友らしき集まり、二人がけ席に高校生のカップル、それから――。
「伊朔君、本当に常連さんなんだね」
テーブルの上にケーキとコーヒー、そして、住宅情報を表示したタブレットを並べた美緒さんは挨拶もなく感嘆したように呟いた。
昨日の光景が脳裏でフラッシュバックする。美緒さんは父さんの知り合い。でも、いつからの、どういった知り合いなのか、僕はちっとも知らない。
「……こんにちは」
「あ、こんにちは! 学校帰り? おかえりなさい」
美緒さんはにこにこと笑いながら、自身の対面の席に目を向けると「座りなよ」と気安く勧めてきた。
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