第10話 廿楽ヶ丘三姉弟
何年ぶりだろう、父さんの顔を見るのは。
昔と変わらずに精悍な顔つきではあるけれど、頬は少したるんで目尻に皺が増えた。黒髪に紛れる白髪が目立つ。鍛えていた体躯は傍目にも分かるものだけれど、僕の記憶と照らし合わせると小さくなったように思える。
老けたな、というのが素直な感想だった。
でも、僕が今、気にすべきことはそれではない。
どうして、父さんが美緒さんとアキギリさんと一緒に――?
世界の音が消えた代わりに、自分の心臓の音が聞こえる。どっどっどっと低音で早打ちする鼓動。目の前で動くすべての物がスローモーションに見えた。
三人は和やかに笑い合い、親しそうに言葉を交わしている。
「お客様――?」
聞こえてきた声に眼球だけを動かせば、レジの店員さんがきょとんとした顔で僕を見ていた。いつの間にか前に並んでいた人たちがいなくなっている。
ふらふらと買い物かごをカウンターへと乗せた。
一度、視線を外してしまっては、もう怖くて外が見られない。何が怖いのかは自分でも分からなかった。でも、見たくない。けれど、気になる。
葛藤で心が潰れてしまいそうだ。心臓の音は変わらずに暴れ続けていた。
レジで会計が成されている間、頭の中ではさっき見た短い映像が繰り返し再生されていた。美緒さんとアキギリさんがいて、そこに父さんがやってきて、そしてまた始めから。ほんの数秒の出来事。
さっきのは何だったんだろうか、白昼夢でも見たのではないだろうか。
支払いを済ませ、袋に買ったものを詰め込み、スーパーから出る間際、僕は意を決して外へと目を向けた。
「…………」
そこには誰もいなかった。停まっていた車もなくなり、からになった駐車スペースがあるばかり。
それでも、落ち着くなんてできやしなかった。一つの謎も解決していないのだから。
どうして、美緒さんが父さんと知り合いなんだろう。
◇
うちの夕飯の席には僕と陽菜は必ずいるけれど、母さんと星乃がいることは稀だ。そして、今日はその稀な日だった。
「んー、やっぱり陽菜のご飯がいっちばん美味しー♡ 天才♡」
「褒めてくれるのは嬉しいけど、たまには星乃も手伝ってね」
「はーい」
僕は目の前に並ぶ姉たちを見て、心のわだかまりになっている話題を口にするかどうか悩んでいた。星乃がいなきゃこんなことも考えずに口にしていただろうに、なんで今日に限って帰ってくるんだか。
「あと、遊び歩くなとは言わないけど、あんまり心配かけないでよ?」
「ちゃんと連絡してるじゃん」
「連絡すれば何日も帰ってこなくていいってことじゃないの」
「ね、それよりこのネイル可愛くない。どうどう? 陽菜、お揃いにしない?」
都合のいいことしか聞こえない星乃に、陽菜はにこにこと笑って「ふふ、可愛い、可愛い。でも、私はいいかなあ」と笑った。また流されてる。やんわりな言い方をしないで、男遊びも大概にしろって強く注意してもいいと思うけど。
褒められて上機嫌の星乃は、次は僕に向けて手を見せつけてきた。薄いピンクのネイルは確かに可愛いとは思う。
「じゃあ、伊朔がお揃いにする?」
「ゲームするのに邪魔だから嫌」
「根暗。伊朔なら似合うのに」
陽菜と星乃は対照的だ。端的に言えば地味と派手。
「こら、星乃。いくら似合っても、高校じゃ怒られちゃうでしょ」
僕の家族はみんな、顔面の主張が強い。その中で陽菜は随分と落ち着いた顔をしていた。大人しい性格も相まって、控えめな印象を受けるんじゃないかと思う。表に出ていくというよりは、裏で支えるようなタイプ。
一度も染めたことのない髪は癖もなく真っ直ぐで、何の飾り気もない黒縁の眼鏡が地味さに拍車をかけている。喜んでいても困っていてもとにかく笑っている。損になるくらい心優しい。
「薄い色だし、バレないと思うけどなあ」
対して、星乃の容姿はあの母さんの生き写しである。生まれた瞬間から今の今まで賞賛され続けてきた容貌。道を歩けばナンパとスカウトとでろくに買い物もできずに帰ってくる、なんて嘘みたいなイベントを実際に何度も発生させていた。
幼少期からそんなんだったから、星乃は自分の容姿に価値があると理解したうえで華やかな自由奔放だった。わがままというか、破天荒というか、苛立たしいくらい素直なだけで悪い奴ではない。
結局、食事中にはスーパーで目撃した話をすることはできなかった。
リビングでくつろぐ星乃を確認し、食器を洗う陽菜の隣に「手伝う」と並んで立てば、陽菜はきょとんとした顔をしたけれど、すぐに笑って「ありがとう」と一歩ずれて僕が立つ場所をあけてくれた。
「あのさ、陽菜。今日の学校帰りなんだけど」
「うん?」
喉がきゅっと締まる。頭の中では何度もシミュレーションしたけれど、実際に口にするとなると緊張が走った。
「実は――」
「陽菜、お茶淹れて! 新しく大学の傍にできたお店のお菓子買ってきたの! めーっちゃ美味しいから!」
花でも飛ばしそうな上機嫌の声が乱入してくる。
いつの間にかキッチンにまでやってきていた星乃は、冷蔵庫から緑色のロゴが入った正方形の白い箱を取り出して掲げた。中身は分からないけれど、ホールケーキが入っていそうなサイズで二箱。
「わ、ありがとう! ……でも、多すぎない? それどっちもケーキだよね?」
「ケーキ! 伊朔がたくさん食べると思って。感謝しなさいよ、伊朔。絶対にあんたの好きな味だから」
「……どうも」
邪魔すんなよという気持ちと、ケーキは嬉しいという気持ちが両立する。
陽菜は僕に食器洗いを任せ、お茶の準備をし始めた。星乃は包丁を握りケーキを相手に悪戦苦闘している。
このままじゃ埒が明かない。というか、僕の気にしすぎかもしれないし。星乃だってもう今更、父さんのことなんてどうとも思っていないかも。
食器を洗う手を止めずに、他愛ない話をする素振りで口を開いた。
「あのさ、陽菜。今、父さんって――」
「伊朔」
冷え切った声はつい数秒前の浮かれた様子からは程遠い。化粧で飾られた目がぎろりと僕をねめつけていた。
星乃の父さん嫌いは健在で、未だに禁句だったようだ。
水道から流れる水の音だけがキッチンで響いていた。うろうろと心配そうにする陽菜も、手にしている包丁で襲い掛かってきそうな星乃も悪くない。僕は素直に「悪かったよ」と謝ったけれど、発言の時点で手遅れだったようだ。
星乃は包丁をその場に置き、無言のままでいなくなってしまった。
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