第5話 相手のことが欲しくなる
「こ、んにちは」
ぎこちない挨拶を返せば、女の人はただでさえ満開の花が咲くようだったのに、さらに笑みを深めた。
昨日も思ったけれど、笑うと綺麗な人だ。
「よかった。覚えててくれてて」
昨日の今日で、あんな話をしておいて、忘れるわけないだろ。
見た目の印象に違わず、おっとりとしているというか、能天気というか。彼女の立場でよくも僕に話しかける気になったなと思う。思考回路がまったく理解できない。
……この状況、どうするのが正解なんだ。
僕と同じく学校帰りの学生たちの中、僕らを避けるように人の波が割れた。ここだけ時間が止まっているような感覚。
ぱちぱち、ぱちぱち、女の人は綺麗にメイクされた瞳を瞬かせた。黒い色の瞳には引きつった表情をしている僕が映っている。
「……あのさ、時間あったりする?」
「え?」
「ちょっとお話ししたいんだけど、駄目かな?」
頭が真っ白になった。
「………………いいですよ」
考えるより先に口が動いていた。しかも、何故か肯定の返事をしている。
女の人も驚いていたけれど、それよりも驚いたのは僕だった。なんで姉の彼氏の浮気相手と話そうとしているのか。
陽菜に対しても目前の彼女に対しても、不幸になるくらいなら別れたらどうかとは思っている。それでも、僕は現状を伝える以上の口を挟むつもりはなかった。
僕は関係ない立場の人間だから、僕が躍起になったところでどうせ声は届かない。
人の心は不合理で異常だ。
絶対におかしい道に進もうとしている奴に、どれだけ正論をぶつけたって聞き入れてもらえないことは大いにある。恋愛ごとは特にそう。恋は盲目なんて言葉が世界で通用するんだから。
女の人はくしゃりと笑うと「じゃあ、昨日のお店に行こうか。私、まだ春の限定シリーズ制覇してないの」と僕に背中を向けて歩き出した。
目的地の洋菓子店は駅から歩いてすぐの場所にあるが、裏道に入って細い道を進まないといけないから分かりづらい。知る人ぞ知るといったお店である。
そして、僕の行きつけの店は、彼女の行きつけの店でもあったらしい。
前を歩きながらそんな話をする女の人に、僕は曖昧な相槌を打った。上手く話が頭に入ってこない。僕が碌な返事をしないことには気づいているだろうに、彼女は楽しげに会話を続けていた。
件の洋菓子店は場所こそ分かりにくいものの、近くを通りかかれば必ずと目を向けてしまう存在感だった。まるで絵本から飛び出してきたかのように、完全に周囲から浮いている。
お人形さんのお家を現実の人間サイズにしたような外観。大きなガラス窓から覗ける店内もメルヘンチックである。男一人で入るには多少の勇気を必要とするだろうけど、女家族で育った僕は特に抵抗を覚えたことはなかった。
可愛らしい装飾の施された扉を開けば、ケーキショーケースの向こう側に立った店員さんが「いらっしゃいませ」と可愛らしく作った声色で迎えてくれる。それから、店員さんは僕らの顔を見て「あ」と幾分も低い声を漏らした。
――昨日の今日、と思っていたのはどうやら僕だけではなかったようだ。
失言をした店員さんは慌てて「店内をご利用ですか、お持ち帰りですか?」と再びに作った声で取り繕うように尋ねてきた。
僕が口を開かずとも目の前の彼女が何でも応答してくれているため、僕が次に口を開いたのは席に案内されて注文内容を決めた後だ。女の人からの「決まった?」という問いかけにした「はい」という返事。
注文を終えると、彼女は仕切り直すように「ごめんね、急に誘っちゃって」と軽く頭を下げた。
「……いえ。嫌なら嫌で断ってます」
「そっかそっか」
こうなってからの彼女の印象は、よくしゃべってよく笑う、掴みどころのない人。コミュニケーション能力に長けているというよりは、考えなしに思ったことを口にしている気がする。
この推察が当たっていると確信したのは、彼女が「いやあ、昨日も思ったけどかっこいいね。モテるでしょ?」としょうもない話題を振ってきた瞬間だ。
「……別に」
「いやいや、謙遜しなくていいって。先輩も後輩も同級生も、校内どころか校外の人もほっとかないんじゃない?」
謙遜も何も、本当にそういった浮ついた話とは無縁だった。
自意識過剰と罵られるかもしれないが、確かに容姿には恵まれている。僕が努力したのではなく、両親ともに整っていた顔していたからその恩恵にあずかっただけである。
そして、恋愛ごとと無縁で生きてきた原因もまた両親だった。
両親の離婚は、僕が四歳の頃のことだけれど強烈に記憶に残っている。
家族が離れ離れになるなんてという悲哀の記憶ではなく、恋愛ごとで揉める男女というのはなんて醜いんだろうという嫌悪の記憶だ。罵り合って、喚き合って、責任を押しつけ合う。父さんも母さんも化け物にしか見えなかった。
いつか自分もああなるのかも、と思ってしまったときから、異性に対する感情は驚くほど引いていった。それまで、好きかもと思っていた保育園の先生への憧れなんて、次の日にはきれいさっぱり消え去っていたくらいだ。
この容姿を良しとした女子からたまに告白はされるけれど、それに僕が頷いたことはない。
始まるよりも先に終わりが見えていた。正解のない感情に揺さぶられて、醜悪な化け物になるなんて僕は絶対にごめんだったから。
「お待たせいたしました――」
無意識のうちに入っていた肩の力が抜ける。店員さんの介入によって助けられた。
僕らの前にそれぞれ注文したケーキと飲み物が並べられる。さっきまでの会話に中身なんてなかったという証のように、女の人は「ずっとこのケーキ食べたかったんだ」と同じ笑顔で微笑んだ。この人、絶対に考えて喋ってない。
一口、二口、ケーキを食べ進めていれば、彼女は勝手に雑談を続けていた。僕は適当に返すだけ。そして、女の人はケーキを食べる合間に「昨日のことなんだけどね」と案の定の笑顔で話し始めた。
「一日考えてみたんだけど、やっぱり君の勘違いだと思うんだよね」
「……信じてもらえないなら別にいいです」
「信じてないわけじゃなくて、あの――」
「別に僕を捕まえて口止めしなくたって、アキギリさんのこと言いふらしたりしませんよ」
昨日はああ言っていたけれど、やっぱり僕のことをアキギリさんのアンチだと思っているんじゃないだろうか。
アンチ活動なんて不毛なことをするほど暇じゃないし、そんなことをしたら本人だけじゃなくて陽菜とこの人まで傷つけてしまう。本末転倒だ。
「ええと」
女の人はきゅっと眉を寄せて、うろうろと視線をさ迷わせる。言葉を探しているようだった。多分、アキギリさんを肯定するための言葉。
「僕にはよく分かりませんけど、そこまで擁護して結婚する必要があるんですか? 浮気しているかもしれない男と」
アンチ扱いされているのも不本意だったし、アキギリさんを妄信している姿にイラついてもいて、僕はこんな暴論を吐き捨てた。
言ってしまってから、彼女の発言を考えなしだと馬鹿にしていたわりに、自分も人のことが言えないなと胸中だけで自嘲する。でも、その言葉を取り消す気はない。
女の人は呆然とした様子で僕を見ていたけれど、すぐに深刻そうに顔を歪めて「君は好きな人がいる?」と問いかけてきた。
どうしたらそんな話に繋がるのか。もしかしたら、変なスイッチを押してしまったのかもしれない。
「いいえ」
僕は断言した。
すると、女の人は稲妻に打たれたような衝撃の顔で僕を見つめる。ぎょっと目を見開いたかと思えば、おろおろとして、眉間に険しい皺を寄せ、うんうんと唸り出した。この人、口だけじゃなくて顔もうるさいんだな。
しばらくして、答えが出たらしい。きりりと僕を見据えた顔は何だか眩しかった。
「好きな人ができるとね、貪欲になるんだよ。相手のことが欲しくなるの」
意味が分からない。
怪訝な表情を浮かべてしまったが、蔑んだ声で聞き返さなかっただけマシだと思ってもらいたい。
「最初はちょっとのことなんだ。手を繋ぐだけでも満足っていうか、一緒にいられるだけで幸せって感じで。でも、それがだんだん大きくなっていってね、最終的には人生の半分が欲しいなって――」
「僕の親は離婚しました。欲しがって手に入れたとしても、気持ちは不変じゃありません。それとも、そこまで好きな人の浮気なら許せるって話でしたか?」
やっぱり、恋愛ごとなんてクソだ。頭が馬鹿になっているとしか思えない。
なんだこいつと思われるような感じが悪い態度をしてしまったとは思う。でも、僕も彼女のことをなんだこいつと思っていた。恋に恋する人間ってこういう人をいうんだろうか。
目の前の彼女は泣きそうになるのを誤魔化すみたいに痛々しく笑った。無理してますよ、と言外で物語っている。ちっとも同情する気にはならなかったけど。
「あー、えっと、難しいこと言うなあ。うーん、今度までの宿題にしてもいい?」
きゅっと喉が締まった。甘ったるさが口の中で停滞している。
「……また、会うんですか?」
「うん。絶対にまた会うことになるよ」
口の中の甘さを押し流すべく、カップの取っ手に指先を這わせた。カップの中の液面に細かな波紋ができていて、自分の手が震えていることに気がついた。
なんだか知らないけれど気恥ずかしくて、このことがバレないようにと手を引っ込めた。未だ、口の中は甘味が支配している。
「私、
声に引き寄せられるように女の人へと視線を向ければ、彼女はきゅっと下瞼を押し上げるようにして目を細めた。
「よろしくね、伊朔君」
ばちんと目の前で火花が散る。漏電で発生するような危険な火花ではなく、花火のような色鮮やかな光。
いつからか続く心臓の痛みは、気のせいでは済まされなくなっていた。
「なんで……、僕の名前……」
「ふふ、考えてみて。それが伊朔君の宿題」
そう言うなり、女の人――美緒さんは伝票を掴んで「またね」と立ち去って行った。颯爽と、何も残さずに。
自分の分くらい自分で払います、宿題なんて言ってないで今すぐ答えてください――、そう発言していたのは頭の中の僕だけだった。実際の僕は彼女を引き留めることも、その背中を見送ることもせず、微動だにせずぼけっと座ったまま。
時間をかけて冷静になった頭で最初に思ったことは、また美緒さんに会う機会があるんだということ。
白状すれば、このときには僕はもう美緒さんの虜だった。
穏やかな雰囲気で思ったことを口にする癖に、秘密を持った彼女を暴いてみたくなっていた。これが彼女の言うところの、相手が欲しくなる感情だというなら、僕は間違いなく彼女のことが好きだった。
けれど、この気持ちを自覚するのはもう少し後のこと。
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