第4話 何も言えなくて
そして、訪れる沈黙。
僕にはこれ以上に話すことはないし、彼女には僕に話したいことなんてないだろう――、と思いきや、女の人は何か言いたげに僕の顔を見上げていた。けれど、この居心地の悪いぎこちなさと周りからの視線が気になって、僕は「それだけです」と言って逃げた。
せっかく頼んだケーキが食べ半端だったけど、何事もなかったように食べ始める気にはならなかった。作ってくれた人には本当に申し訳ない。席に座り直すこともせずに、鞄を持ってそのまま店を出る。
背中にかけられた「待って」の言葉は聞こえないふりをした。
自宅に帰る足は重かった。ずるずる、ずるずる、鉛玉でも引っ張っているみたいに。
陽菜になんて言おうかと考えたけれど、そもそも恋人がいるとかそういう話を一切したことがないのに、急に相手が浮気しているぞなんて言い出せない。姉の恋愛事情は僕が一方的に知ってるだけだ。今日みたいにアキギリさんが陽菜と二人きりで会っているのを何度か見かけていた。
僕にもまだデリカシーが残っていたんだな、と変な方向に自画自賛してしまう。
結局、帰り道はそんな不毛な考えごとだけで終わってしまった。
廿楽ヶ丘の表札がかけられた家は、一戸建てが並ぶ住宅街の一画にある。何の変哲もない一軒家。
「ただいま」
癖になっているから口にしたけれど、当然に返事はなかった。
母さんと陽菜は仕事、星乃がいない理由は知らないが、アイツは平気で数日帰ってこないことがあるからいる方が珍しい。
僕には十八時という門限が決められているけれど、その門限に間に合っているかを判定する家族は誰もいないのが現状だ。だからって、破ろうという気にもならない。そこまでしてやりたい用事が外にあるわけでもないし、破ったときに限って、星乃が家に帰っていたりするから。
晩御飯は陽菜が帰ってきてから作ってくれるから、それまでは自由時間。
僕の趣味はどちらかと言えば内向的なものが多い。ゲームをしたり、本を読んだり、映画を見たり。体を動かすのは苦手じゃないけど好きでもない。
最近はもっぱらFPSゲームだ。誘われて始めたけれど、凝り性なのもあってすっかりとのめり込んでいる。できないことができるようになるのは楽しいし、勝つことは爽快感がある。
この趣味について、姉二人はいい顔をしなかったが、母さんは諸手を挙げて賛成してくれた。高いお金をかけて不必要なまでの環境を整えてくれたのは他でもない母さんだった。いわく、僕が家にいてくれるようになるからいいらしい。
誰もいないリビングの電気をつけるだけつけて自室に向かい、勉強机に突っ伏した。
ふとした瞬間にアキギリさんとあの女の人、それから陽菜の顔が頭を過る。自分で思っているよりも僕は繊細なのかもしれない。
別にこの時間に宿題なり、予習なりをしてもいいんだけれど、好きなことをした方が気が紛れると思った。晩御飯まで少しだけやるか。ゲームをするためにパソコン用のデスクの方へと向かおうとすれば、それを阻止するようにスマホが着信を示した。表示されている名前を見て、出るか出ないかを一瞬だけ逡巡して、出ることに決める。
「何、ニシ」
「お! 電話出てくれたってことは暇だな? 人掴まんなくてさァ、ランクマ付き合ってくんね? デュオ、デュオ」
挨拶もなく要件から話出すような気安い関係である“ニシ”こと、
「……別にいいけど、配信じゃないなら」
「いや、配信」
「じゃあ、やだ」
「なんで!? いつもならいいって言ってくれるじゃん!」
ニシは僕が姉の彼氏がどこぞの男ではなく、アキギリさんだと知ることになった要因でもあった。コイツはアキギリさんの熱狂的なフォロワーだ。
そして、その熱狂は心の内には収まらず行動にまで発展し、ニシもまたアキギリさんと同じくストリーマー活動をしていた。とはいっても、有象無象の底辺ストリーマーだけど。
「今日はそういう気分じゃない」
アキギリさんのことを考えたくなくてゲームをしようとしていたのに。
ニシはしつこく食い下がってきたけれど、ゲームをする気も萎えてしまった僕は「悪いけどまた誘って」と無理矢理に会話を切り上げて通話を切った。
無意識のうちため息が飛び出していく。店を出たところ、もっと言えば、あの女の人に話しかけたくらいから心臓が重い。心にもやがかかったような気分で、針で刺されているような痛みがする。これが心労というものか。
「ただいま」
扉越しに小さく聞こえてきた声に背筋が伸びた。陽菜だ。
どうしよう、という言葉が頭の中にたくさん浮かんでは、消えずにぐるぐると巡る。
何をどうやって伝えればいい? それとなく恋人のことを聞くか? そんな話を一度もしたことがないのに? 陽菜まであの女の人みたいにアキギリさんを信じるなんて言い出したらどうしたらいい?
どれだけの時間考えていたのか、自分でも分からない。
僕の思考を止めたのは控えめなノック音だった。扉越しに「伊朔? 寝てるの?」と寝てるならば起こすまいとした声量の問いかけが聞こえてくる。
「っ――寝てない、起きてる」
「よかった、ご飯だよ」
「……うん」
結局、僕は陽菜に何も言うことはできなかった。
◇
次の日、学校からの帰り道。電車に揺られ、最寄り駅で降りて改札を抜けた直後のこと。
「あれ? 君――」
普段なら無視するけれど、聞き覚えのある声に僕の足はぴたりと止まった。ブリキ人形のように後ろを振り返る。きっと、ギギギと錆びた金属の音が聞こえたはずだ。
「やっぱり、昨日の子だ」
そこに立っていたのは、アキギリさんと結婚を約束しているあの女の人だった。
どんな反応をすればいいか分からない僕に、彼女は「あ、急に話しかけちゃってごめんね! こんにちは!」と人好きのする笑みでにこにこと笑う。
僕の心はまたちくりと痛んだ。
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