第2話 見習い調査員

 僕が姉の彼氏が浮気していると知った日から一カ月と少し。二転三転、紆余曲折があって、僕は夏休みに入ると同時に稲城いなぎ探偵事務所の見習い調査員としてバイトを始めていた。僕の担当は別れさせ屋業務がメインだけれど、調査業務にも駆り出される。

 とはいえ、どっちの業務でも、高校生かつ未成年である僕に回されるのは、他の調査員のサポートだったり、事務所で書類整理だったり、誰でもできるような仕事しかない。


絵麻えまさん、そっちに行きましたよ」


 今日は実際に別れさせをする先輩の手伝いだ。

 平日の昼過ぎ。大型ショッピングモールの休憩スペースに座って、対象が浮気相手とともに屋上駐車場に行くのを見送るのが割り振られた仕事。難易度なんてつける時間が勿体ないレベル。

 夏休み中だからか、人混みの年齢層は若い。おかげで、対象を見つけるのは簡単だった。中年の男女がエスカレーターで人目も憚らずにいちゃついているのは見るに堪えない。しかも、どちらも既婚者だというのだから地獄だ。

 耳に当てたスマホから「おっけー」と間延びした返事が聞こえたかと思えば、すぐに通話終了音に切り替わった。


 電話の相手は柴宮しばみや絵麻えまさん。僕の四つ年上の女子大生。僕がこのバイトを始めるのに、探偵事務所の所長である稲城さんに口利きをしてくれた恩人であり、僕の指導役である。外での仕事は基本的には絵麻さんとタッグを組んで動いている。

 僕がこの胡散臭いバイトを始めた理由は、自分の手で別れさせを実行するためだ。詳細は省く。


 絵麻さんの仕事は参考になるだろうと、不倫カップルの後に続いて屋上駐車場へと向かった。

 汚い男女がそうしていたようにエスカレータ―に乗って、半分も過ぎた頃に金切声が耳に聞こえてくる。最初は緊張もしていたけれど、今となっては慣れたものだ。

 屋上フロアに上がった瞬間、世界が変わる。そこでは思った通りの修羅場が広がっていた。


「酷い、ヒロさん! 私とは遊びだったってこと!?」


 世界にはたった三人。僕の居場所はなくて、そっと壁際へと足を運んだ。実際、僕の存在を認識していたのは今、スポットライトを浴びている悲劇のヒロイン一人だけ。


「奥さんとは別れるって――」


 困惑している不倫カップルを相手に、迫真の悲鳴をあげるのは絵麻さんだ。

 普段は黒髪のベリーショートとラフな格好のせいで、ボーイッシュどころか男にすら見えるときがあるが、今の絵麻さんはふわふわの巻き髪に白のワンピース――、いかにもモテそうな女性像のアンケート結果みたいな変装している。見た目の雰囲気はもちろんだけれど、化粧だけで別人のように顔が違った。

 きっと、街中ですれ違うだけじゃ、僕は彼女が絵麻さんだとは気づけない。

 素直にすごいと思う。ただ、褒めたらダル絡みされるから絶対に口にはしない。


 僕が胸中だけで絵麻さんの変装を褒めていると、それをぶち壊すようにひしゃげた奇怪音が響く。言葉になってないそれは、顔を真っ赤にして肩を震わせる不倫女から発せられたらしい。

 なんだ。あまりにも汚くて、あまりにも不快な音だったから、見たこともないような化け物でも現れたのかと思った。


「ちょ、ちょっとどういうことよ! こんな小娘にも手を出してたの!?」

「し、知らない、こんな子、知らないって!」

「嘘つくな!! あの子、アンタの名前を呼んだじゃない!!」

「知らないってば!!」

「私だけって言ったのに!!」


 声が重なる度に大きくなっていく。というか、私だけって。どっちも家に帰ったら永久の愛とやらを誓い合った相手がいるだろうに。

 今回の依頼者は大慌てしている男の奥さんだ。離婚はしたくないけれど、浮気は止めさせたいということで依頼する運びになった。安くないのに。こんな男にそんな価値があるんだろうか。


「知らないなんて……、そんな……」


 絵麻さんは悲しげに俯き、目に涙を溜めた。かと思えば、ばっと顔を上げて男を睨みつける。ギラギラ、ギラギラ、炎が燃えるような絵麻さんの瞳に蒼白の顔をした男が映っていた。


「最低っ!!」


 落ちる涙、息を呑む音、振り乱される髪。

 絵麻さんは悲哀の叫びを残してその場から逃げ出す。傍観者になっていた僕とすれ違う際もまったく視線を寄越さなかった。エスカレーターを駆け下りていく足音は今にも転びそうで、本当に彼女が弄ばれた乙女のように思えてくる。

 絵麻さんは細微なところまで徹底して、自分ではない誰かを演じていた。


「あんな子が相手してくれてるなら、お前なんか相手にするか!!」

「はあ!? ふざけんじゃないわよ!!」


 絵麻さんがいなくなった後も口論をする二人を横目に、僕も彼女の後に続いて下りのエスカレーターに乗った。

 あの人たちが今日で破局までいくかは分からないけれど、関係にひびは入っただろう。

 自分たちの関係が歪で後ろめたい関係だから、外部からのちょっとの刺激で爆発する。配偶者からの抗議は盛り上がらせる燃料にしかならないけれど、自分と同じ立場の別の誰かが出現すると急に関係は崩壊する――、とは絵麻さんの高説だった。

 このあとは何日か経過を観察し、追撃が必要かを見極めることになるが、今の様子だといらないかしれない。


「こっち」


 一つ下のフロア、さっきまで僕が不倫カップルを見守っていた休憩スペース。ウイッグを外して帽子をかぶり、この季節には暑そうな上着を羽織った絵麻さんがこちらに手を振っていた。なんとも手早い撤収だ。


「よーす、おっかれ」

「僕は疲れてません」

「はは、可愛くねーな」


 げらげらと声を上げて笑う。さっきまでの風に攫われてしまいそうな女子はどこへやらだ。

 ぽんぽんと隣を叩く彼女に従い、並んで座れば、絵麻さんはこつんと僕を肘で小突いた。白い歯を見せてにやにやと品のない表情を浮かべている。


「で、見学した感想は? お前にもできそう?」

「いえ、僕にはあんな真似できません」

「なんだよ、あんな簡単なこともできねーの? いやあ、頑張りたまえよ。廿楽ヶ丘つづらがおか伊朔いさくくん!」


 僕の背中をばしばしと叩いてくる絵麻さんは綺麗な女の人だ。何も知らなければ、どきっとするかもしれないけれど、僕は彼女がどんな人かを知っている。知り合ってからまだ日は経っていないが、その時間だけで十二分だった。

 この笑顔はやれるものならやってみるんだな、と僕を煽っている笑顔だ。美緒みおさんを彼氏と別れさせる、それを自分の手でやると決めた僕への挑発。


 ――やっぱり、どうしてこうなったかはきちんと話しておくべきだろう。

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