7.別れ、旅立ち

「師匠……どうして身体のこと教えてくれなかったんですか?」


「……」


 居間に横たわるガリウスは黙り込んだままだ。

 その顔にはいつもの荘厳さは無い。

 生気の抜けた一人の老人になってしまった師は、ただ浅く呼吸を繰り返している。


「……人の命はなんとも短いな」


「やめてください。そんな死ぬみたいな」


「儂の身体のことは儂が一番よく分かっとる。一月前から、とうに終わりは視えていた」


「一月前って……まさか最後の試練ってそれが原因だったんですか?」


 ガリウスは静かに頷く。

 俺は自分の察しの悪さに心底呆れた。

 そもそもあの厳しい師匠があんな唐突に最終試験などと言い出すのがおかしかったのだ。


 目の前の師はそっと目蓋を閉じた。

 まるで自分はここまでだと言わんばかりに、静かに言葉を紡いでいく。


「クロム、今より腕を磨きたいのであればアストリア王国に行け。あそこには目利きが鋭い者が多いからな、きっと良い経験になるだろう」


「嫌です。俺はまだ、師匠の元で……」


「……現実を見ろ。儂は死ぬ。当たり前の事実から、目を背けるな」


「だって、だって俺は……まだ師匠に何も返せてない……!」


 現実を直視できず、つい声を荒げてしまった。

 心の何処かでは、ガリウスと共に過ごす時間は永遠に続くと思っていた。


 あの師匠なら80歳を超えてもまだまだ元気でいてくれるはずだ。

 こんな半人前の弟子を置いて旅立つ訳が無い。

 そんな甘い妄想に浸っていたのだ。


 その結果がこれだ。自分は未熟なまま、こうして別れの時を迎えてしまった。

 行き場の無い感情が胸を強く締め付ける。


「……馬鹿者が。お前を弟子にしたのは儂の我が儘だ」


「でも……!」


「泣くな、みっともない」


 ガリウスは呆れた様子で俺を見つめる。

 何度も見てきたその顔。病的なまでに白く、血の気の引いたその顔には、まだ僅かな熱が宿っている。


「自分の店を持つのも良い。剣士として生きるのも良い。これからどう生きるのかはお前が決めろ」


 自分の未来について考えられる程、正直冷静ではなかった。

 命の恩人が、尊敬する師が、今目の前で息絶えようとしている。


 だが首を横に振ることはできなかった。

 それが今まで自分を鍛えてくれた師への無礼であるとわかっていたからだ。


 歯を強く食いしばり、俺は小さく頷いた。

 それが弟子としての精一杯だった。




 時間が経つにつれ、ガリウスの呼吸は少しずつ乱れていった。

 苦痛に顔を歪めるガリウスを見ているのが何よりも辛い。

 そんな彼に対して、何もできない自分が心底恨めしい。


「……頼みがある。お前が作った剣を、最後に儂に見せてくれ」


 思いもよらぬ言葉に、目を見開く。

 それは天降金属を使って俺が初めて一人で作った剣を指しているのだろう。


 実際、この二週間で剣は完成一歩手前の状態にまで辿り着いている。

 細かな部分はまだ手を加える必要があるが、それらを終えた完璧なものをガリウスに見せる時間は、多分もう無い。


 俺は足早に自室へと向かい、一振りの剣を持って居間へと戻った。

 それを受け取ったガリウスはゆっくりと鞘を滑らせ、刀身を露にさせる。


「無駄が多いな。削り出しは甘いし、磨きも中途半端だ」


 ガリウスの評価はいつも通りだった。

 普段と何ら変わらないその厳しい観察眼で剣を見つめ、一つ一つ欠点を挙げて駄目出しをしていく。


 わかってはいたが、それでもやはり悔しい。最後ぐらい強面の師を驚かせてやりたかったものだが。


 しかし次に発せられた言葉は予想外のものだった。


「……だが、良い剣だ。」


 そう言ってガリウスは笑った。

 それは、三年間で初めて見る師の笑顔だった。

 まるで我が子の成長を喜ぶ親のように、慈愛に満ちた笑みだった。


 喜びや驚き、そういった複雑な感情が胸の内で渦巻き、俺は呆然としていた。


 ガリウスは再び真剣な顔つきになって、その鋭くも優しい瞳で俺を真っ直ぐに見つめる。


「いいか、武具の元になる素材も、加工の技術も確かに大事だ。だがそれらは己の心を形にするための手段でしかない。本当に大切なものはここにある」


 そう言ってガリウスは細い腕を伸ばし、拳をそっと俺の胸に当てる。


(──熱い)


 ガリウスの拳から確かな熱量が伝わってくる。あの日、ホワイトウルフを斬った剣の暖かさにも似ている。


 おそらく生命力や体温といったものではないのだろう、確証は何一つ無いが不思議とそう感じた。


 ガリウスという鍛治に生きた男の生涯そのものが、そこにはあった。


「薪を焚べろ、炉を燃やせ。その輝きを決して途絶えさせるな。強い信念を持てば、武具は必ずお前に応える」


「──はい!」






 それからどれくらいの時が経ったのだろう。

 居間には鳥の鳴く声すら届かず、僅かに暖かい風が時折吹き込んで来るだけだ。


 師と弟子はもはや言葉を交わすことは無く、ただその静かな一時に浸る。


 永遠のようでいて一瞬。

 長いようで短いその時間にも、やがて終わりが訪れた。


「……クロム、いるか?」


「はい、ここにいます」


 痩せ細った手を握る。ガリウスの瞳からは既に光が失われていた。

 残された時間はもう無いのだという事実を悟る。


 目の前に横たわる師匠は最後の力を振り絞って、弟子へ最後の言葉を紡いだ。


「……お前が、弟子でいてくれて良かった」


 そう言ってガリウスは今まで一度も見せたことのない柔らかな笑みを浮かべたのだ。




(あぁ……ずるいな)


 それはあまりにも卑怯だった。


 いつも厳しくて、頑固で、負けず嫌いで。


 時々褒めてはくれるけど、俺の前ではあまり笑ってくれなくて。


 そんな人が今ここにきて、満面の笑みを浮かべている。


 死の間際だというのに、半人前の弟子が作った剣を見て、もう思い残すことはないと満足そうに笑っている。


 そんなガリウスの顔を見て、堪えていた感情が、想いが濁流のように一気に溢れ出す。涙と嗚咽はもう止められなかった。


「俺の方こそ、あなたが師匠で、あなたの弟子でいられて……幸せでした」


 畳の上に落ちた涙が次々と大きな染みを作っていく。

 血が出るのではないかと思うくらい、拳を強く握った。

 返答が返ってくることはもうない。


 居間にはただ一人、悔しさと寂しさに打ちのめされた少年が座っているだけ。

 旅立った師はさぞ幸せそうに、薄く笑みを浮かべたままだ。


 それが、少年が慕い、憧れ続けた一人の鍛治師の最期だった。






***






 ガリウスがこの世を去ってから1ヶ月。

 色んなことが瞬く間に過ぎ去っていった。


 葬儀はラステル村ではなく、この家で静かにおこなわれ、俺と両親、そして村長が立ち会った。

 師匠は工房のすぐ側に埋められた。

 きっとその方が喜ぶだろう、と。


 あの師匠のことだ。きっとあの世に行っても鉄を打っているだろう。


 だがガリウスを失ったという事実は重く、受け止めるのに時間はかかった。

 しばらくは食事もまともに喉を通らなかった程だ。


 師がこの世を去る直前に完成させた剣を抱きしめ、ただ過去の思い出に浸る日々。


 自分は何かを返せたのだろうか。

 あの人の弟子として、恥ずかしくない人間になれるだろうか。


 後悔はある。不安もある。だがそれ以上に、貰ったものの方が遥かに多かった。


 それにいつまでも泣いていては旅立った師に情けないと怒られてしまう。


 そう思ったら俺は不思議と笑っていて、再び鎚を手に取っていた。






 女神歴994年 4月

 鍛治師ガリウスの工房


 枯れ木に囲まれた小さな家の側。

 そこに置かれた石碑の前に俺は座っている。


 82歳でこの世を去った名工、ガリウス=ローグラントが眠る場所だ。


「師匠は花よりこっちの方がいいですよね」


 墓石の前にそっと干した梅を供える。

 昔からガリウスはこれを好んで食べていたのをよく覚えている。

 顔をしかめそうになる程の酸味だが、その刺激が気にいっていたんだとか。


(そう言えば、昔勝手に食べたら怒られたっけ)


 懐かしい記憶に思わず笑みが溢れた。


「俺、アストリア王国に行こうと思います。まずは自分の店を持って、色んな人と出会って、もっと沢山の経験を積みたい」


 師の名前が刻まれた石碑に向けて、一人決意を固める。

 正直なところ、即座に店を建てれる程の技術も資金も無い。

 我ながら無計画にも程がある。


 だが今はそんな困難すらも楽しみで仕方がなかった。


「最高の鍛治師になったら帰ってきます。お土産はそうですね……東の国のお菓子とかどうです?」


 冗談混じりに独りそう呟く。

 自分でも驚くぐらい、胸は晴れやかだった。


 沢山のものを貰った。

 それは鍛治の技術だけではない。

 鍛治師として、人としての心の在り方も。


 どれだけ時が経とうとも、これからどんな道を歩むことになったとしても、師匠と過ごしたこの時間は絶対に忘れない。


 最後に大きく深呼吸をして、立ち上がる。


「それじゃあ、行ってきます!」


 そう言って歩き慣れた道を踏みしめる。

 思い出の一つ一つを噛み締めるように、一歩、また一歩と。


 向かう先は雲一つ無い青い空。


 俺はまだ見ぬアストリア王国に向けて歩き始めた。

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