5.師と弟子

 女神歴991年 3月

 ラステル村近郊の森




「ふぅ……よし!」


 威勢よく障子を開け放ち、小さな背丈で大きく伸びをして目を覚ます。

 口いっぱいに朝の空気を吸い込む。

 冬は終わったものの、やはり飛び込んできたそれはまだ少しだけ冷たい。


 人々は厳しい冬を乗り越え、無事に春を迎えた。

 外の景色は昨年の10月とは見違える程大きく変わっていた。


 一部の草木は生命力を感じさせる枝葉をこれでもかと広げており、春の訪れを告げる小鳥達の元気な鳴き声が聴こえてくる。


 そして枯れ木に囲まれた小さな一軒の家。ある鍛治師の老人が住まう秘密の工房。


 そこには10歳の誕生日を迎えたばかりの少年クロム=ファルクがいた。


「さて、朝飯の支度するかー」


 軽く欠伸をして、同居人を起こさないように足音を抑えながら、小走りに廊下を進んでいく。

 自分も随分とこの家に慣れたものだ。


 滑らかな木材の柱、黒い瓦の屋根。東の国タイカの建築文化を模して作られた家は妙に居心地が良い。

 今となってはどこに何の部屋があるのかまで手に取るようにわかる。


 程なくして台所に辿り着いた。俺は一度、時を計る魔道具を見る。

 現在の時刻は午前6時。同居人が起きてくる時間は決まって七時過ぎなので、あと1時間程の猶予がある。


「あと1時間……せっかくだし、久々に本気出すか!」


 袖を捲り、気合を入れる。俺は近くの棚から小瓶を引っ掴み、中から赤い結晶を取り出した。


 これは【火の魔石】というもので、僅かな魔力を込めるだけで数秒後に発火するという優れものだ。


 俺は父に習った通りに神経を集中させる。


「はっ──!」


 自分の内側から流れていく“それ”を右の手のひらに集約する感覚で導いていく。


 頃合いを見て魔石を炉の中へと放り投げた。細い薪の隙間に入り込んだ魔石はたちまち熱を帯び、やがて木々に小さな炎を灯す。


「よし、魔術も少しずつだけど上達してきたな。もしかしたらホワイトウルフの一匹や二匹ぐらい一人で倒せるかも」


(流石に群れで出てきたらお手上げだけど)


 最近は週に二日程、時間に余裕ができたジンクから魔術を教わっている。


 何故ならジンクは既に姉の教師役を卒業したからだ。

 当然、教え方が下手だから解雇されたという訳では無い。


 むしろその逆、それ程までに姉であるセレンの成長、飲み込みの速さは驚異的だったのだ。


 神童はもはや教えられる側ではなくなり、自らの好奇心のままにひた走る探究者となった。

 弟としては非常に鼻が高い。


 ともかく、ついこの間まで結界の存在すら感知できなかった少年は、何と魔石を通して火をつけられるようになったのだ。


 当時の自分からは想像もつかないだろう。

 次の勉強会ではどんな魔術を教えてもらおうか。


 期待に胸を膨らませつつ、俺は調理用の鍋を手に取った。


「うん、完璧だ……!」


 食卓に並べられた三種の品々。

 艶々の白米と適度に焦げ目のついた白身魚。

 そしてとっておきは母直伝の豆腐の味噌汁。

 輝いてすら見える朝食がそこにはあった。


 以前母から聴いた話によると、これらの料理は全て東の国に伝わるという和食と呼ばれる類らしい。

 薄味で胃に優しい味付けが特徴なんだとか。


 何はともあれ、あとは同居人が起きてくるのを待つだけだ。

 俺は座布団に腰掛け、温かい茶を啜る。


「はぁ……至福だ」


 思わず幸せな溜息が溢れた。

 この家で雑用係になった頃からおよそ半年の月日が経った。

 冬は終わり春を迎えたが、変わったのは何も季節だけではない。


 あの頑固者の老人と無謀にも住み込みで働くことを志願した少年。

 二人の関係性もまた大きく変化していた。


「あ、師匠! おはようございます」


「おう」


 居間に現れ、素っ気ない朝の挨拶を返したのは白髪の老人。


 名をガリウス=ローグラント。


 5ヶ月前のあの日、ホワイトウルフの群れに襲われて窮地に瀕した俺を焔を纏う一本の剣で救ってくれた謎の老人。


 皺のある彫りの深い顔。左側のこめかみには縦にうっすらと刃物か何かでついたような傷跡があり、それが余計に厳かな雰囲気を醸し出している。


 体格はやや痩せ気味ではあるものの、その皮膚の内側には逞しい筋肉、太い血管の存在が見て取れる。


 今年で81歳になるとは到底思えない。


「どうした?冷めるぞ」


「いつの間に……」


 気がつけばガリウスは食卓の向かい側座り、淡々と朝食を食べ始めていた。

 その最中、ボソっと「美味い」と呟いたのをもちろん俺は聴き逃さなかった。






***






 女神歴991年の1月。ただの雑用係から弟子へと昇格したのはちょうどその頃になる。


 掃除、炊事、洗濯。主に家事全般だが、その他の雑務も文句一つ言わず、真剣にこなし続けた。


 その傍らでガリウスの工房に忍び込んでは、彼の作業をこっそりと覗きに行く。


 気がつけばそんな日々は1ヶ月を過ぎ、2ヶ月を過ぎ……

 そして3ヶ月に達しかけたある日、ガリウスは突然こう言ったのだ。「弟子にしてやる」と。




「もっと腰に力を入れろ」


「はい……!!」


 金属同時がぶつかり合う音が工房に鳴り響く。

 灼熱の空気、飛び散る火花。

 俺は台の上に置かれた真っ赤に熱を帯びた塊に鎚を叩きつけていた。


 曰く、それは〝鍛造〟と呼ばれる作業。

 触れることすらできない超高温にまで熱せられた金属の塊を叩き、伸ばして、また叩く。

 鍛治師の実力が最も試されるとも言われている工程だ。


「違う、腕力だけで力任せに振ろうとするな。全身を使え」


「全身……」


 ガリウスの助言を聞き、細長く息を吐く。


 まず地面にしっかりと足を固定し直した。そこから腰を緩やかに、ゆっくりと動かしていく。


 流れに沿って上半身を捻り、握った鎚を頭よりも高く持ち上げる。


 そして、己の体重を乗せて一気にそれを振り下ろす。


 カァーン!!と一際力強い音が響き渡った。

 あまりにも強い振動に少し手が痺れる。


 「よし、さっきよりはマシになったな。あと200ほど打ち終えたら、一度折り畳んでまた500だ。気張れよクロム」


「ごひゃ……!?」


 槌を振り続けながら思わず絶句する。

 家の手伝いで薪割り用の斧は振り慣れていたため、同い年の子供達と比べれば自分はそれなりに腕力がある方だと思っていた。


 しかしこの機会に改めて自分の非力さを思い知った。

 持たされた金属製の鎚は斧よりも一段と重く、尚且つ柄が長いので取り回しが悪い。


 それでいてそんな重い物を500以上振り続けなければならないのだから、後日腕にかかる疲労は計り知れない。


 なにくそと無理矢理自分を鼓舞し、俺は赤い金属の塊に渾身の力をぶつけ続けた。


 その作業は実に1時間にも及んだ。




「はぁ、はぁ……これは、死ぬ……」


 地獄のような作業が終わっても荒い呼吸は中々落ち着かず、俺は工房の隅で仰向けになっていた。


「少し休んだら稽古をするぞ。木剣を持ってきておけ」


 ガリウスは少しも疲れを滲ませることなく一旦その場を後にする。

 稽古というのは剣の稽古のことだ。


 鍛治師たるもの武器を使いこなせなければ話にならない。

 そう言ってガリウスは鍛治の修行と並行して剣を教えてくれるようになった。


 こちらは今まで斧しか振ったことのない素人。

 だがガリウスは手加減などしない。


 少しでも隙を見せれば容赦なく木剣を叩き込まれ、地面に投げ飛ばされる。

 流石に痣が出来るほど強くは無いが痛いのに変わりはない。


 毎度毎度、土まみれにされ、頭に木刀を叩き込まれるのはもう懲り懲だ。


「今日こそは一本、取ってやる……!」


 向上心2割、恨み8割で力強くそう決心し、俺は壁にかけられた木剣を引っ掴んで外に出た。

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