3.紅蓮

 目前に迫る死を自覚した。


 狩られるものとは、喰われるものとは、こういうものなのだと実感する。


 もう狼達からは逃げられない。

 でも、この状況からは逃げ出したくはない。


 きっとあの牙に噛まれれば痛いだろう。あの爪に裂かれれば痛いだろう。


 だがせめて情けなく泣きじゃくることだけはするまいと強く歯を食い縛る。


 地面に手を滑らせ、傍に落ちていた一番太い木材をしっかりと掴んだ。


 これが最初で最後の抵抗だ。






 刹那、視界の端で火花が散った。


 その直後、爆発にも似た轟音と共に何かが俺の頭上を通り過ぎる。

 俺は髪の毛先が僅かに焦げたのを直感的に悟った。


 否、それは火花などという生易しいものではなかった。


 横一閃に飛翔する一条の火炎。

 赤より赤い、紅蓮の刃。

 大気を焼き尽くさんとする灼熱の波が、一直線に狼の群れへと飛翔する。


「Gruuuuuu……!?」


 突如起こったその不可解な現象に狼達は怯えたような声を漏らし、警戒心を強めた。


 だが、それが彼らの最後の言葉になった。


 十数匹の狼と炎の波が衝突する。

 辺りを呑み込むほどの灼熱の奔流、白を塗り潰す炎の赤色が視界いっぱいに広がった。


 衝撃は熱風となって頬を撫でた。口の隙間からは高温の空気が入り込み、肺が焼かれるかのような感覚を抱く。


 肉体からの危険信号を感じ取り、俺は咄嗟に口元を覆い、目の前の異常から顔を背けた。




 それは一面の銀世界に突如として現れた死神の鎌のようだと思った。

 薙ぎ払われたそれは、炎の刃となって一匹残らず獣を蹂躙し尽くしたのだ。


 浅い呼吸を整え、再び狼達のいた方を見る。

 そこにはもう雪原を支配した狩人の姿は無く、強者によって散らされた肉塊がただ転がっているだけだった。


「やれやれ、また一からやり直しだ」


 転がる狼の死体には目もくれず、その人物は背後からゆっくりと現れた。

 どこにでもいるような白髪の翁だった。

 何故か上半身は衣服を纏っていない。

 最初は痩せているようにも見えたが、その肉体は見れば見るほど不思議な逞しさが感じられる。


 しかし何よりも先に、目を奪われたものがそこにあった。


(あれは、何だ……?)


 剣。老人の右手には剣が握られている。


 しかし村を守る衛兵が持つような粗雑な剣ではない。

 かと言って家具の一つとして飾られるような優美な剣でもない。


 刀身は高熱を帯びた赤に染まり、大気中の僅かな水分を蒸発させ続けている。

 こんな剣は今まで生きてきた中で一度も見たことがない。


 あるとすれば、それは、それはまるでおとぎ話の──




 やがて、ゆっくりと近づいてきた老人は、膝を突いて俺と目線の高さを合わせた。ホワイトウルフとは別の怖さがある。


 次の瞬間、老人は結構な強さで俺の頬を引っ叩いた。

 バチンッという強烈な音と共に、身体が平衡感覚を保てなくなり、そのまま雪の上で横倒しになる。


「え……?」


 左頬に走る激痛を堪えながら混乱する頭を整理し、老人を見上げる。


「小僧、どうしてこんな所に一人で来た」


「それは、その……」


「あの村は結界で覆われていたはずだ。まさか気づかなかったとは言うまい」


「き、気づきませんでした……」


 あれだけ父さんが念を押していたにも関わらず、俺は大事なことを忘れていた。


「魔力に鈍い人間は結界の外に出ても気づき難い。クロム、お前もその一人だ。くれぐれも気をつけるんだぞ」


 今になってそう言われたことを思い出す。

 しかし例え結界の存在を感じ取れていたとしても、俺は足を止められなかったと思う。


 それほどまでにあの金属の響きは魅力的で、一時とは言え完全に心を奪われてしまったのだから。

 時間が経つにつれて、改めて自分の愚かさに気づかされる。老人がいなければ、俺は今頃この世にいなかっただろう。


 とにかく感謝を伝えなければ。目の前の老人は窮地から救ってくれた命の恩人なのだから。


「あの、助けてくれてありがとうございました!……ところで、その剣はどこで手に入れた物なんでしょうか!」


 思わず好奇心がそのまま口から漏れてしまった。老人は呆れた様子で俺を睨む。


「お前、反省してるのか……?」


 もちろん反省はしている。何なら一月の間、老人の召使いとして働くことも厭わない所存だ。


 しかしそれはそれとして、目の前で今も熱を放ち続ける剣を見過ごせるはずがない。

 あれは俺が夢にまで見た、正真正銘の“剣”だ。


 長い静寂が訪れる。老人は黙り込んだままだ。流石に気まずくなって俺は言葉を付け足す。


「あ、あの……やっぱり南の方にあるアストリア王国とかに売ってるんですか?」


 アストリア王国は非常に栄えている大国だ。一振りで魔物を焼き尽くすような剣が売られていてもおかしくはない。


 やがて老人はため息を吐いたかと思うと、はっきりとこう言った。


「どこにも売っとらん。儂が作ったからな」


「作っ……た?」


 帰ってきた返答は予想外のものだった。

 作ったということは、目の前の老人がその剣の作り手であり、鍛治師であることを示している。


 次第に心臓の鼓動が早くなっていく。


「まぁこいつはまだ未完成でな。鍛えている途中だったんだが……全く、余計な面倒をかけてくれたな」


 老人は再び俺を睨む。その瞳には確かに怒りが宿っていた。

 そして全てが繋がった。


 昔、商人の爺さんに頼んで大きな街から買ってきて貰った武器の作り方が記された本。

 ボロボロになるまで読み返したその頁の、ある一説を思い出す。


「曰く、鍛造と呼ばれる手法は刀身を叩き、内部から余分なものを取り除く工程である」


 俺が湖の前で聴き、導かれるように辿った金属の音。

 あれはおそらくあの剣を鍛える最中に発生した音だったのだ。


 そんな俺の心境なぞ知らんとばかりに老人は立ち上がり、踵を返して湖のある方角へと歩いていく。


「フン、まぁいい。結界の内まで送ってやる。これに懲りたら二度と馬鹿な真似は……」


「弟子にしてください!!」


 そう言って俺は流星の如き速さで血に頭をつけていた。考えるよりも先に身体が動いていた。


「何のつもりだ?」


 老人は訳が訝しむようにこちらを見つめる。

 それもそうだろう。10歳にも満たない少年が土下座という東の国の文化に習って頭を下げたのだ。

 自分でもその行動に驚いている。


「ずっと、鍛治師になるのが夢だったんです」


 ほとんど無自覚にそう喋っていた。

 偽りの無い今の本心。幼い頃から目指し続けた鍛治師になって最高の武器を作るという夢。


 しかし、雪に覆われたこの地に教えを乞える人物などいなかった。

 他の街から取り寄せた武具の名鑑を眺めて、手に届かない悔しさに涙を流す日々があった。


(──そんなのは、もう嫌だ)


 可能性があるのなら何にでも縋る。お金が必要なら死ぬ思いをして稼ぐ。食べ物が無ければ土でも喰らう。

 これ以上、自分を誤魔化して夢を諦めたくはない。


「馬鹿者。10年早いわ、出直せ」


「10年も待てません!」


 食い気味に反論する。老人の良い分は正しい。労働力になるかも怪しい幼い子供を弟子にして何の得がある。

 それでも俺は諦めない。諦められない。


「無礼は承知の上です!求められるなら働きます!あと、肩とか叩きます……?」


「老人扱いするな!!儂はまだ80だ!」


(80って結構な年では?)


 という突っ込みをギリギリで飲み込む。

 そんな馬鹿げたやり取りがしばらく続いて、続いて……


 気がつくと視界が徐々に霞み始めていた。


「あ、れ──?」


 長時間息を止めていたせいか、あるいは狼から逃げる途中に何度か転んで頭を打った余韻が遅れてやってきたのか。


 いずれにせよ小さな身体で無理をした代償は大きく、俺は抗いようのない微睡みの底にゆっくりと落ちていった。

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