2.雪原の狩人
「思ったより早く着いちゃったな」
ラステル村から北東に向けて歩くこと20分弱。早くも土の取れる湖前の雪原に到着した。
村からはやや離れているので、流石に道中の除雪は行き届いておらず、進めば進むほど足が深くに沈んでいく感覚は少しばかり楽しかった。
とは言え、それ以外は特に代わり映えのない風景だった。夏だと鳥が木の実をつついていたりするのだが、枯れ木にとまる鳥は一羽もいなかった。
冬に枯れない種類の草木も今は真っ白な雪が積もり、その姿を隠している。
しかし眼前に広がる大きな湖は油断すると見惚れてしまいそうな程に美しい。
凍結した水面は大きな一枚の鏡のように空を映し出し、湖の淵には枯れた木々が立ち並ぶ。
神秘的とも感じられる光景がそこにはあった。
そして、目的の土はもう足元に。
「あ、あった」
雪を少し掘り返すと、そこには普通の土とは違う、どちらかと言えば泥に近いような不思議な土が眠っていた。
早速、借りて来た小型の円匙を使って土を掘り返していく。
「よし、こんな感じでいいかな」
数分と経たずに任務は完了した。右手の瓶にはいっぱいに土が詰め込まれ、ずっしりとした重みが伝わってくる。
一息ついて周囲を見渡す。せっかく遠出したので寄り道でもしようかと思ったが、生憎と周りには雪しかない。
雪玉の投げ合いをする相手でもいれば少しは楽しめたのかもしれないが、当然今は自分一人しかいない。
「長居してもすることないし、帰るか」
そう思い、帰路を辿るべく立ち上がった。空はまだ明るいが、この季節になると暗くなるのは一瞬だ。
おそらく18時から19時の間にはもう既に日は沈んでいるだろう。
俺は懐に忍ばせていたとっておきの道具を取り出した。これは7歳の誕生日に父さんから貰ったものだ。
どこにいても時間が分かるという貴重な魔道具。
円盤に二本の針を取り付けたような見た目をしており、長い針は真上を向き、短い針は右を向いている。
見方は教えて貰ったので、この魔道具が16時を指しているのはすぐに分かった。
日没までまだ時間はありそうだが、あまり母さんを心配させるのも良くない。
早めに帰って晩ご飯の支度でも手伝ってあげよう。今日こそは味にうるさい姉さんに美味いと言わせて……
ィーーーーーン
ふと、耳に届いたのは何かの音だった。
それは獣の鳴き声ではなく、氷柱が積雪に刺さる音でもない。
しかし自然の一部であるかのような不思議な響きを帯びた音色だった。
「何の音だろう……?」
好奇心を刺激され、俺は湖の淵にまで近寄り、耳を澄ませる。
カァーーーン……
今度はしっかりと聴き取れた。
間違いない。これは金属同士が衝突したことで発生している音だ。調理用の釜に頭をぶつけた時の音にどことなく似ている。
音はその後も一定の間隔を空けて鳴り響く。おそらく目の前の湖を跨いだ向こう側、枯れ木が幾重にも屹立する場所からだ。
「……ちょっとだけなら大丈夫、なはず」
湖を見つめる。このまま凍った水面の上を進もうかと考えたが、万が一表面が割れて水中に落ちたら生きて帰れる保証は無い。
何せ最北の地の最も寒い季節だ。水に浸かった瞬間、数分と経たずに手足が満足に動かせなくなるだろう。
水場の危険性は嫌というほど母さんに教えられた。
俺は大人しく湖の淵を迂回し、吸い寄せられるようにゆっくりと歩き始めた。一歩、二歩、近づくほどに音は明瞭になっていく。
カァーン、カァーン……
不思議と寒さが薄れていくような感覚を抱いた。
いや、肌が微量な熱を感じ取っているといった方が正しいか。音が大きなるにつれて、確かな熱を帯びた振動がここまで伝わってくる。
一体この先には何があるのだろう。それを知りたい、ただその一心で進んでいく。
カァーン、カァーン……
かなり近づいて来た。けれどまだ遠い。遠過ぎる。
もっと近くでこの感覚を味わいたい。
どこからともなく湧き上がってきた欲望が更に自分を駆り立てた。俺は当初の目的も忘れて、ただひたすらに音の方へと走る。
「もっと、もっと近くで……」
それまで異変に気がつけなかったのが、俺の最大の過ちだった。
雪を被った草木が大きく揺れる。積もった雪は崩れるように落下し、生い茂った緑の葉が露出した。
明らかに他の生命の気配を感じ取り、無意識に足が止まる。
「何だ……?」
気がつけば金属の音はもう聴こえなかった。
その代わりに草木をかき分け、何かが雪原を疾駆する足音が響いている。
音は一つどころでは無い。周囲の草木はガサガサという不気味な音を立てて、雪を散らす。
十数秒後、辺りは静寂に包まれた。
まるで準備完了だ、と言わんばかりのその静けさに背筋が凍りつく。
やがて正面の草をかき分けて音の正体が姿を現した。
それは一匹の白い狼だった。
「あ……」
その先は声にすらならなかった。
目の前の狼が放つ鋭い眼光を浴びながら、母に言われた言葉が脳裏を過ぎる。
「それに、この時期はホワイトウルフっていう怖い魔物が群れで狩りをしているの。子供なんか一口で食べられちゃうんだから」
(あぁ、思い出した)
個体名【ホワイトウルフ】。
寒さに強い獣の魔物。他の生物が冬眠につき始める頃に本格的に動き始め、獲物は絶対に逃がさない雪原の狩人。
一匹だけなら大人一人で充分対処できるが、彼らの本質は群れることにある。
少なくて3匹、多くて10匹以上。仲間と連携するホワイトウルフは巧妙に獲物を誘い込み、時には格上の獲物すら仕留めてみせる。
果たして自分の周りには何匹いるのだろう。
気になるが数えている余裕などなかった。何よりも先にこの場から逃げなくては。
しかし頭では分かっていても身体は言うことを聞かなかった。
「ぁ……、ぅ……」
掠れた空気が口から漏れる。
二匹、三匹、次々と姿を現した狼達は獲物を舐め回すように見つめ、徐々にその距離を詰めてくる。
残り8メートル。強張った身体はピクリとも動かず、ただ目の前に迫る捕食者を待つだけの餌になってしまったかのようだ。
残り7メートル。息をするのすら難しくなる。それでも身体は脳からの指示を拒み続ける。
残り6メートル。狼の唸り声がしっかりと聴き取れるようになる。同時に指先から血の気が引いていく。
そして、残り5メートル。
その距離に差し掛かろうとした次の瞬間、近くの樹から垂れていた一本の氷柱が地面へと落下した。
ズボッという音ともにそれは雪の上に深々と突き刺さる。
それは何気ない環境の音に過ぎない。
ただし、警戒心の強い狼達は一匹残らずその音の出どころに目を奪われていた。
(今しか、ない!)
俺は恐怖で固まりかけた足に鞭を打ち、狼達の隙間から飛び出した。後ろを振り返ることなく、ただひたすらに走り続ける。
氷柱が奪ってくれた時間はどうやら3秒にも満たなかったようだ。
飛び出した一秒後には背後から自分を追いかけてくる狩人の足音が聞こえてくる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!!」
太い樹木を横切り、時には草木に突っ込む。
狼の牙から逃れるために精一杯の撹乱をしたつもりだったが、追跡者は止まらない。
(走れ、走れ、走れ、走れ!)
肺を最大まで活用して全力で足を動かす。息をする度に冷たい空気が入り込んでくるが、それすらも無視してただ走る。
だが永遠にも感じられたその一分の逃走劇は呆気なく終わりを迎えた。
細い枝に足を引っ掛け、俺は無様にうつ伏せに倒れ込んでしまったのだ。
「が……ッ!」
勢いよく地面に叩きつけられ、全身が悲鳴をあげる。しかし止まることは許されない。
雪まみれの身体を何とか起こし、背後に迫る狼達を確認する。
(十二匹、いや十三匹か)
追いかけっこを制し、人の子を完全に追い込んだ白い狼の群れ。その眼にはもう、獲物である俺しか映っていなかった。
何と愚かなんだろう。母さんの言いつけを守っていればこんなことにはならなかったはずなのに。
数分前の自身の行いを悔やんでももう遅い。五秒後の未来を想像して、俺の目元に熱いものが込み上げてくる。
(あぁ、俺って本当に──)
「バカだなぁ……」
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