第4話 獣

真っ暗な夜に、自分の足音だけが響く。足場の悪い森の中を駆け回って、早々に息は切れた。木の根や張り出した石に躓くたびに、手に持った灯籠が揺れ、不気味な影を映す。

「ランツァ……!」

荒い息の合間に絞り出した言葉は、木々の葉音に消えた。虫達がカナカナと鳴き、黒黒とした視界が恐怖を煽る。

……もう、遅かったら……。

先の見えない孤独な状況下で、どろどろと最悪の事態ばかりが浮かぶ。だから、

「ランツァー‼」

少しでも考えないようにと、彼女の名前を呼んだ。


一心不乱に駆け回ったせいで、ふと気づくと来たことのない場所にいた。

ここ…どこだ……。

立ち止まって周りを見渡すも、この暗さでは方向もわからない。灯籠の光が遠くまで照らすわけもなく、闇の中にぽつりと残る。

このまま、先に行くか……戻るか。

酸素の足りない頭で必死に考えていた、その時だった。

——リン…

はっとして顔をあげる。どこからか、微かに鈴の音が聞こえた。

「ランツァ……?」

 聞こうとしないと聞こえないくらいだが、でも確かに響いている。

 どこだ……どこから聞こえる……?

——リン…リン…

 サワサワと乾いた葉の音の隙間から、鈴の音の居場所を探った。心臓がうるさい。周りで鳴く虫の声も邪魔だった。灯籠を下に置いて、その場に膝をつく。規則的に鳴り続ける鈴の音を手繰り寄せるように、目を閉じて手を握った。眉間に皺がより、目元に力が入る。

——リン……


——こっち


 周りの音が消え、何もない空間に意識が飛ぶ。自分の息も、森の匂いもないまっさらな場所で、柔らかく、凛とした響きが鼓膜を揺らす。


——こっちだよ


 玲瓏たる鈴の音は翠の匂いがした。目をつむったまま半身だけ振り返る。

 「……そこか」

 自分の右斜め後ろ、この方向から、音は聞こえた。目を開けて、そのまま闇を辿った。灯りも、鈴の音ももういらなかった。心に残った澄んだ心地が、行く先を示す。無我夢中で走り、そして、突如道が途切れた。

「す……っご」

不自然にひらけた木々の合間。その中央に異様な存在感を放つ、一本の大木が聳え立っていた。周りの木々よりも遥か上方で枝葉を伸ばし、幾重にも重なり、絡み合った太い根が地面を覆う。荘厳な佇まいに思わず息を呑んだ。樹冠の端からゆっくりと月光が差し込み、陰影が和らぐ。青く照らされた樹皮は歪にひび割れ、うねり、まだらに苔むす。そして、その太い幹の周りを、無数の淡い光が踊り漂っていた。

「……ランツァ」

何の理由もなく、そう確信する。見つけた安堵と、この場の緊張で足が震えた。よろめきながら、大木に近づいていく。月光に当たった自分の姿は、想像以上にボロボロで、土に塗れていた。

帰ったらあったかい風呂に入ろう。ほぅと息をついて、右足を張り出た根にかけたその時だった。

「ゔぁっ……」

甲高い叫び声が脳を貫き、咄嗟に耳を塞ぐ。だが、次には全身が痺れ、視界は暗転し、左半身に衝撃が走った。硬い根の感触と、無造作に生えた草が頬に当たる。

なに、これ……

ガンガンと痛む頭に耐え、無理やり目を開けると、目の前の光景に総毛立った。気がつけば、周りは荒い息遣いと、妖しい眼光で埋め尽くされていた。幹の周りを蠢いていたのは、獣達の底光りした双眸だったのだ。

“喰われる”

そう悟っても、止まない叫び声が平衡感覚を狂わせ、立ち上がるどころか、短剣に手をかける事すら出来ない。地を這うような唸り声と、樹皮が割れる音があちこちで響き、獣達の包囲が縮まっていくのが分かる。耳に当てた手が震え、歯がガチガチといっていた。どう息を吸うのかも分からず、視界が滲み、頭は割れそうに痛い。

だが、1つの光が獣との間に降りてくると、全てがピタリと止んだ。サラサラと木々が葉を擦り、小さく虫達が鳴いている。

「この者は大丈夫よ。あとは私に任せてちょうだい」

静閑な空気の中に冴え冴えとした声が響き、獣達が去っていく。奴らのどす黒い熱気が消えて、思い出した様に心臓が動き出す。極度の緊張状態から解放されて、身体の力が抜けていく。

「——」

光の玉がそっと何かを告げる。だが、それを聴き取ることは出来なくて、目の端の翠を残して、俺は意識を手放した。



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