第3話 ティンケ

細く開けた窓から冷気が入り、ただでさえ冷たかった板間がキンと冷える。本当は開けたくないけれど、少しは換気しないといけない。吐く息が漂っては消え、分厚い上衣の下で俺は小さく身震いをした。

「チュンチュン!」

 いつのまにか側でふよふよ浮いていたランツァが、勢いよく名を呼ぶ。両手を上にして、これでもかというくらい口角が上がっている。

「……なに」

ランツァが笑顔満点で話しかける時は、どうでもいい事か絶対嫌な事かの2択だ。すなわち、どちらであってもちょっとした地獄が待っている。顔をしかめながら埋み火をかきおこして、薪に手を伸ばす。

「今から野草を摘みにいきましょう!」

そらきた!

やけくそに薪を投げ込んで、思いっきり睨んだ。

「ぜったいやだ!」

「いいからいいから」

変態じみた笑みを浮かべて、ヒラヒラと小さな手を振ってくる。

「どこも良くない!」

ここ数日で気温はぐんと下がった。本格的に冬がきて、暖炉にも火が入っている。そして、今日はまた一段と冷え込み、朝方なんて寒すぎて起きたくらいだ。

「そもそもこんな真冬に野草なんて咲いてないでしょ」

「今の時期が1番取れる野草があるんだな〜」

ニュイっと笑って小さなグッドサインをこちらに突き出す。

「ヴィシド・アルンガトフォリア・ボリリーレ、ジャロフィオレ・アラディージュ・デリジオゾ、カッティンバ・コンデディオーネ・ピッコラフォロトロンデ・フィオレヴャンコ!」

訳分からん。

独特な節をつけたこの歌は、ランツァが毎日飽きずに歌っているものだ。大まかな歌詞はやっと分かるようにはなったものの、その意味はからっきしだ。

「それ本当なんて言ってんだ?」

続きを歌っていたランツァが、目をまん丸にして振り返る。明らかに俺が興味を示した事に喜んだのだが、次の瞬間、ピタッと動きを止めて何か考え始めた。大きな黒目が右に1周すると、コクンと首を縦に振った。そしてまたニュイっと口角が上がった。

「行ったら分かるから!」


「さっむ‼︎」

上下共に綿の入った厚い衣を着込み、さらに上からジェツォ(木の繊維を編み込んで作られるマント)を羽織ったのにも関わらず、普通に寒かった。ずっと家の中でぬくぬくとしていたからかもしれないが、身体の震えが止まらない。

「ねぇ、ランツァの体温はどうなってんの?この極寒の中でノースリーブってどういうこと⁇」

出会った頃から一切変わらず、髪は上方で結い首元は吹きさらし。上衣の1つも掛けずにノースリーブのワンピースから、細い手足がのぞいていた。

「ランツァ達は外界の気温なんて関係ないもん!元気イコールぽっかぽか〜!」

ひゃっほーいとクルクル飛び回る彼女に言葉も出ず、大人しくその後をついて森に入っていった。ランツァは行く道中、意味もなく空中を彷徨いながら進んでくれた。お陰でどこへ向かっているのかがまるで分からない。しかも俺があまり行ったことのない方面に進んでいくものだから、命の危機すら感じる。

遭難でもしたら一生恨んでやる……。

ギリギリと握った拳だが、次には能天気な歌声でその気勢はそがれてしまう。

「トレ・フラスタレグァート・ノントカーレ〜!」

グルグルと回りながら、今日もその口が滞ることはなく、奇妙な呪文が漂い続ける。例年ならば、冬になって森に入ることも、家から出ることすら滅多になかった。ただ春を待ち、静まりかえった家の中でぬくぬくと過ごす。最初こそ、うるさすぎて疲弊させられていたが、ランツァの弾丸トークに慣れれば悪いことばかりでもなかった。

軽い足音を立てながら、ほうっと息を吐く。白い靄がふわふわと消えて、足元の色彩に目が止まった。ランツァを見失わないように気をつけながら、小さく群生した赤い花を1輪摘む。出発時に持たされた大きなマチのある籠にそっと入れたその時、前方から快活な声が響いた。

「チュンチュンー!あった!これ!この葉っぱ!」

「え、これ?」

ランツァがぶんぶんと茎を揺らしていたのは、小さな穂が沢山ついた、細長い葉だった。膝くらいまで伸びた茎から四方いっぱいに葉が垂れ下がり、少し離れたところにもいくつか生えていた。

でもこれって……。

「葉がぬめっとしてて気持ち悪いやつだよな」

数年前、1度だけ触った事があった。手に触れた時の滑る感じがなんとも不快で、その後何回も手を洗った覚えがある。

「そうそう!ちょっと触り心地は悪いけどおいしいよ!」

「食うの⁈」

バッと振り返ってランツァを見ると、既にケタケタと笑いながらその葉を摘み始めていた。

「チュンチュンだってネバッコイモノ食べたことあるでしょ?」

「あるけども」

「それと同じだから!悪いものじゃないし!ヴィシド・アルンガトフォリア・ボリリーレ!“ぬるっとした緑の葉っぱ、ゆでて食べるとおいしいよ!”」

「あ、それ野草の歌だったのか」

「そう!」

俺が何もしない間に、ランツァは一盛り摘み終えて、パサパサと籠の中に放り込んだ。

「ゔぇぇ……あ、花!」

せっかく摘んだのに、一緒にぬめっとされては困る。

「ちゃんとよけたって」

「……おう」

その後もランツァはあれやこれやと探し回り、結局、昼過ぎ始まった野草探しに日が傾くまで付き合わされた。


「疲れた」

バタンと扉を閉めると、身も蓋もない感想が口から飛び出す。連れられるまま森の中を歩き回ったせいで足が痛い。ヘロヘロとそのまま床に座り込むと、もう動きたくなくなって目を閉じる。

「チュンチュン」

「あー」

「それ片さないと腐る。または虫に全部食われる」

重い瞼を押し上げて、声のする方を見れば、ランツァが呆れたように籠の淵に座っていた。

「……知ってる」

こういう時だけ正論言ってくるんだよなー。

はぁっと声に出して息をつくと、キシキシと鳴る身体でキッチンに向かった。


籠いっぱいになった野草たちを大甕に移し、溜めた水で葉についた土や虫をすすいでいく。綺麗になったものは、ランツァが暖炉の側に張った細縄に吊るしていた。いいように乾燥できると長持ちするのだとか。

「ジャロフィ……何だっけこれ」

軽く振って水滴を払って、手に持ったイモのような球根を見せる。

「ジャロフィオレ・アラディージュ・デリジオゾ!黄色い花、ぼこぼこした根が食べられる!」

「……いちいち長いよなー」

ぽいっとランツァに放ると、手足を使って綺麗にキャッチした。

「まだ短い方だって!えーっと……あ、それ!いっぱい枝分かれしてるやつ!」

根っこを抱えたまま、ピシッと指さした先に、白い花のついた野草があった。

「これか?」

持ち上げた1本だけでも主軸から4本の茎が枝分かれして、もさもさと小さな葉が伸びている。

「そうそれ!カッティンバ・コンデディオーネ・ピッコラフォロトロンデ・フィオレヴャンコ!」

「長っ」

眉間に皺を寄せながら、白い花と対峙していると、ランツァはどうだと言わんばかりの顔をした。

「でもそれ薬になるからあると便利なんだよ」

「へぇー」

1つずつ、ランツァの野草知識を教えてもらいながら片付けていくと、時間はあっという間に過ぎ去っていた。

全てが終わる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていて、慌てて部屋の蝋燭に暖炉の火を移した。それから、横に避けておいた赤い花を、暖炉の上の細長く、口の小さな小瓶にさす。でこぼことした表面には、緑を基調とした綺麗な紐が巻いてあった。

「……母さん」

目をつむって深呼吸をする。暖炉の炎がぱちぱちと爆ぜ、キッチンの方からはランツァの歌が聴こえてくる。家中に広がった森の匂いを溜め込むように、ゆっくりと息をついて、目を開けた。小さく揺れた赤い花に破顔すると、「チュンチューン!」と呼ぶ声がした。

「あー今度は何やったんだお前ー」

また何かやらかしたなと思いつつ、キッチンで好き勝手やっている彼女の元に向かった。

冬が、楽しい。無意識に顔が緩んでいた。


「チュンチュンー!やっばい、水こぼしたー!」

「げっ、またやったの⁈凍る!床凍る‼︎」

慌てて床を拭いてから、暖炉の炭を空壺に移して床を温める。ふとカタカタと金物が当たる音がして顔を上げれば、鍋が吹き出しそうになっていた。

「だあーもうランツァ!私に任せろって言ったの誰だ‼︎」

「ごめんって!でも料理は得意だよ!」

「知ってるけども!」

ランツァが作る飯はどれも美味しい。人間用の大きな包丁も、自分の身体を浮かせているように、色んな調理器具を浮かせては毎日器用に作ってくれている。

ただ、オーブンやらコンロやらを一気に使って、収集がつかなくなるのがいつもの流れだった。

「味が良ければいいってか!いい加減学習しろ!」

「今日こそ片付けるから!私も!後で!」

「どうせ食べたら寝るだろ!」

火を弱めて、オープンを開け、こぼれた水が床で凍らないように拭いては温める。ドタバタとランツァが荒らしたキッチンを次から次へと片付けた。

「これでマズイの作ったら家から出す!」

「それとこれはちがう!」

「一緒だわ‼︎」

ぎゃんぎゃんと争いながら、今日も飯が出来ていく。採れたての野草を使った品々はどれも青々としていた。軽快な調理音とランツァの歌。家中においしい匂いが広がって、早くも腹が黙っていなかった。


「本当にこれ食べるの?」

手に木で作ったスプーンを持ったまま、ゔぅと顔を歪める。

「大丈夫だって言ってるじゃん!何回繰り返すのこのやりとり!」

というのも、事の発端はこのテーブル中央に鎮座した、山盛りのルク(茹でた葉物をつぶした木の実や穀物で和えたもの)だ。荒く潰したイチクの実が紅く照り、コチャの種が混ぜてある。これだけならば俺も食った事のある組み合わせだし、普通に美味そうだ。が、その下で柔らかくなっているのは、他でもないあの野草だった。こわごわと少しすくってみれば、とろんとした粘り気がある。

……ぬゔん。

「あーもう!はよ食え!」

「おわっ⁈」

しびれを切らしたランツァが、ルクを飛ばして無理やり口の中に入れてくる。グイッと勢いよく放るものだから、危うく息が詰まりそうになった。しかし、刹那、その味に驚いて目を見開く。モッソモッソとよく噛んでから、喉を鳴らす。器の縁に立った彼女は誇らしそうだった。

「だから言ったじゃん」

「……ごめん」

酸味のあるイチクと、あの野草の相性は抜群だった。初めは少し苦いが、噛むほど甘味が増す。とろっとした中に、コチャの種で歯応えがあるのも嬉しい。

「じゃあ、はい!」

元気な声が響き、ランツァが小さな手を俺に向けて突き出してくる。

「……えっと?」

「チュンチュンがルクを食べられましたで賞」

「はい?」

彼女の意図がよく分からず、目を合わせたままとりあえずルクを咀嚼する。

「……え?」

呆けた顔になったランツァがゆるゆると手を下ろした。

「ん?いや、何?」

「……えぇぇ⁇」

信じられないといった顔で、まんまるい目がこちらを見る。

「しらないの?ティンケだよ⁇」

「てぃんけ?」

頭上にハテナの浮かんだ俺を前にして、ランツァが目をパチクリさせた。そして、次の瞬間、急に表情がスンと消えた。

「もういいや」

珍しすぎるランツァの真顔に固まっていると、何の前触れもなく、突然、右腕をつねられた。

「いてっ⁉︎何すんだ…ああ⁇」

気がつくと自分の意思に関係なく、右腕がふわふわと浮いていた。動かそうにも動かせない。

「は⁉︎ランツァお前何やった⁉︎」

彼女を見ると、もういつも通りの笑顔に戻っていて、何か企んでいるだろう事がすぐに分かる。

「……何する気だ……」

「ランツァはティンケしたいだけだもん〜!じゃあはい!」

満面の笑みでランツァは右手を顔の横に構える。俺の右手もまた然り。どうやらランツァが動く通りに俺も動くらしい。

「んで、こう!」

こちらに向いた手のひらが、斜め上の方向に突き出され先程のランツァと同じ格好になった。これがなんだというのだろうと不思議に思っていると、ピシッと手を挙げたままの彼女がふよふよと浮き上がった。飛んだ先には同じくピシッと挙げた手のひら。

「……え、あ、そうゆうこと?」

ニュイっと笑ったランツァを見て、ようやく、やらんとした事が分かった。ペチリと小さな音が鳴る。

 「ティンケ!」

 手と手を合わせたまま、ランツァが嬉しそうに叫ぶ。

 ランツァがしたかったのは、ただのハイタッチだった。彼女の格好で分からなかった自分にも驚きだし、何よりも、

 「ハイタッチのために俺の右腕乗っ取るなっての!」

 なんとも幼稚で微笑ましい行動に、思わず笑いがもれる。ペチペチと繰り返しながら、指の間からひょこっと顔が出る。

 「ランツァ、ティンケ好き!」

 「みたいだな。なんで今まで言わなかったんだよ」

 すれば良かったのにと苦笑しながら続ければ、ランツァの目が再びまんまるくなった。きらんきらんと輝かせて、ほわわぁと開いた口からは尖った小さな歯が見えた。

 「いいのー⁉︎」

拍手でもするのかというくらいの高速ハイタッチが始まって、俺はとうとう堪えきれずにゲラゲラと笑いこけた。

 「あたたっいった!待って!ランツァ!俺も動かしてるの忘れてる!」

 「あ、そっか!」

きゅっともう1度腕をつねられ、同時に手の制御が戻ってくる。指を曲げたり伸ばしたりしながらランツァを見ると、何も言わずに姿勢良く浮かんでいた。綻ぶ顔をそのままに、手のひらを彼女に向ける。

「ティンケ!」

2人の声が重なって、ペチリと小さな音が響いた。


その日から、何かとかこつけてランツァはハイタッチを催促するようになった。朝起きたとか、飯食ったとか、野草が取れたとか、なんの変哲もない小さな行動に、“出来たで賞”と称してティンケと叫ぶ。ペチリとたおやかな音が鳴るたびに、ランツァは嬉々として飛び回り、自分自身ほっと暖かくなるのがわかった。

ランツァの歌で起きて、飯食って、キッチンではぎゃんぎゃんと争う。ある時は森の中を駆け回り、ある時は採った野草のブレンド茶制作に勤しんだ。滅茶苦茶に不味い組み合わせを見つけて、ランツァに飲ませたらその日の晩飯は作ってくれなかった。振り回されるままに日々はあっという間に過ぎて、いつのまにか、春はすぐそこだった。


そして。

「あ……ヤジュー!」

ある晴れた朝、開け放った窓辺に座って外を眺めていると、黒い体躯に白いお腹、翼の先の黄色が特徴的な、大きな鳥を見つけた。

ヤジュー。春になると、この地方に戻ってくる渡り鳥。毎年、俺に春を告げる渡り鳥。

「春だ……父さんが、帰ってくる!」

湧き上がった興奮のままに立ち上がって、キッチンにいるだろう彼女の元に向かう。

「ランツァ!春だよ!父さんが帰ってくる!」

バタンと開けた扉の向こうでランツァが手を伸ばして待っている……と、思ったのに。

「あれ?ランツァ?」

浮き上がる調理器具も、快活な歌声も、そこには何もなかった。この冬の間、俺以外住んでいなかったかのように、全てが定位置に戻っていて、閑散としている。

「……さっきここにいたはずなんだけど……?」

ランツァの名を呼びながら、家中を探す。身体が小さいから、ベッドの下とかの狭い隙間にも入れてしまう。またしょうもないかくれんぼが始まったと思いながら、グルグルと隠れそうなところを見て回った。が、随分と長い時間探しても一向に見つからない。

「ええぇ……あいつどこ行ったんだよ」

全力で隠れられては、探し回るのも段々と面倒くさくなってくる。そのうち飽きて出てくるだろうと思い直し、探すついでに家の掃除をした。

日が暮れていく。やることがなくなって、ランツァと作ったブレンド茶を入れた。ちびちびと飲みながら、本を読んだり、そういえばと思い出した服の穴を繕って過ごす。

辺りが真っ暗な闇に包まれて、夜が来る。数杯目のお茶はすっかり冷たくなってしまった。いつもなら、もうキッチンで晩飯を作り始めている頃だ。

「……ランツァ?」

こんなにも、音沙汰なしに姿が見えないのは流石におかしい。嫌な汗が、背中を伝った。森に、行ったのかもしれない。家の中は散々探したから、次にあるとしたら、いつも行っている森だ。

『夜の森には出るなよ』

脳内に響いたのは、いつかの父さんの声だった。

『日中に出くわすことはまず無いが、夜になると、あの森は獣が目を覚ますからな。夜になったら、絶対入るな』

再三、出発前から言われ続けた言葉。心臓がうるさいくらいに鳴り響く。

『獣に襲われたら、お前なんてひとたまりもないぞ』

……俺が、ひとたまりもないのなら、俺よりも小さいランツァは……?

窓の外は、暗い。灯りがなければ、足元もおぼつかないだろう。

「でもあいつ飛べるし……」

『森にはいろんな獣がいる。父さんよりも背の高い奴もいれば、地を這うやつもいる。空を飛んで上から襲ってくるやつもいるんだぞ』

呼吸が浅くなっていく。

「森のことなら、なんでも、知ってたし……」

『俺は鍛えているから、ある程度は対抗出来るかもしれんが、それでも危険だ。ひょろっちいお前が勝てる相手じゃないからなー』

視界が歪む。

「あいつが、森にいるかもわかんないし……!」

『武器を持たすにはお前はまだ少し幼いから、日が暮れたら家の中にいると約束してくれ。頼む』

震える手を握り込んで、無理やり笑顔を作る。

「あ、あいつなら大丈夫だって!明日になればどうせひょっこり出て……‼︎」


『トレ・フラスタレグァート・ノントカーレ!』


 「……っぁ」

 一番最初。玄関先で聞いた彼女の声。

 『元気イコールぽっかぽか〜!』

 寒くて、凍りそうな日。あんなに、冬の森を歩き回ったのは初めてだった。

 『カッティンバ・コンデディオーネ』

「……ピッコラ、フォロトロンデ……フィオレヴャンコ」

薬になると教えてもらった野草。長くてややこしいから、最初こそ歌えなかったあの歌も、最近はずっと……ずっと一緒に歌っていた。

『やっばい、水こぼしたー!』

作るものは全て美味いのに、片付けだけが出来なくていつも言い争った。何度か床が凍って、溶かすのが大変だった。

『いいのー⁉︎』

一体、何度あの笑顔に、救われただろうか。つぅーっと雫が頬を伝う。

“冬が、楽しい”

もう、感じる事なんて、ないと思っていたのに。

『ティンケ!』

君の、お陰で。

『チュンチュン!』

この冬の記憶が、濁流のように押し寄せる。全ての記憶にあの笑顔があった。


「……くっそっ…たれ!!!」

勢いのまま立ち上がって、手に当たったマグカップが落ちて割れる。近くにあった椅子を片手に、キッチンの方へ向かった。キッチンの、隣の部屋。ドアには南京錠がかかっていて、鍵はいつも父さんが持っている。でも、知っていた。ここが、何の部屋なのか。

勢いそのままに頭の上から椅子を振り下ろす。立て付けの悪い扉が派手に軋むも、流石に壊れない。獣のように唸りながら、何度も、何度も打ちつけた。

武器庫。数は少ないが、山越えをするにも、ここらの地域で暮らすにしても、ある程度の武器は最低限必要だった。だが、俺が扱うにはまだ少し早くて。武器なしで行くのは無謀すぎるからと、父さんは俺に日が暮れてからの外出は禁止した。

やがて耳をつんざくような木が折れる音が響き、ドアの中央にひしゃげた座面がめり込んだ。引き抜いた椅子を横に捨て置いて、わずかな隙間から部屋に入ると、ドアの穴から差した光が棚に置かれた銃や太刀を照らした。

危険である事は、分かっている。使った事のない銃はやめて、普段使っている小刀より少し長く、鋭利な短剣を選んで腰に刺す。鞘の重みも、飛び出る柄も慣れないけど、どうにか走れるはずだ。小さな灯籠に蝋燭の火を移して、玄関の前に立った。

……父さんごめん。

短剣を抜き、扉に文字を刻む。このメッセージが、本物にならない事を願って、剣を鞘に戻した。扉を開け、闇の中に足を踏み入れる。月は雲に隠れ、手元の灯籠だけが唯一の灯りだった。駆け出した夜道に人の気は全くない。

背を向けた扉が、嫌に空恐ろしくこだました。



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