第5話 夜明け

「——ン、チュンチュン起きて」

穏やかな声で名前を呼ばれ、ゆっくりと意識が浮上する。

「……ん……あぁ……?」

しぱしぱと目を開けると、小さく微笑んだランツァがいる。

「ランツァ……?」

「そうだよ。チュンチュン起きて」

そう言った彼女の後ろに映るのは、見慣れた家の風景だった。窓辺に置かれた短くなった蝋燭が、室内をほんのりと照らす。その炎が揺れた瞬間、脳内に残った無数の光がフラッシュバックして、慌てて飛び起きた。

「ランツァ⁉︎……え、夢⁈」

辺りを見回しても、何も変わったところはなく、自分自身、寝衣を着ている。カーテンの隙間から外を見ても、まだ夜が明けるには少し早いようだった。リアルすぎる夢に、どっと力が抜けた。一体どこからが夢だったかも分からない。

「嘘だろ……怖すぎだわ……」

はぁーっとため息をついて顔を覆い、起こした上半身をそのまま元に戻す。指と指の隙間から、宙に浮くランツァを見上げて、つい口角が緩む。

「大方、うなされでもしてたんだろ?ありがとなー起こしてくれて」

寝転がったまま、右手を上げてランツァに向ける。   

「ティンケ!」と言って、ペチリと手を合わす。この感触が何気に好きだった。だが、差し出した掌に彼女が合わせることはなく、俺の腕だけが居心地悪そうに宙に残る。

「……?ランツァ?」

明らかにいつもと違う様子に、心臓がドクンと鳴る。睡魔に委ねそうだった意識を引き戻して起き上がる。宙に浮いた彼女は、薄く膜の張った双眸を細めて、静かに笑った。

「夢じゃない。さよならだ、チュンチュン。この夜が明けたら、私は森に帰るよ」

すぅっと目が覚めるのが分かった。何か、言わなければ。だが、意に反して頭は真っ白で、開いた口から出るのは意味を持たない吐息だった。

 「元々、冬の間だけの約束だったから」

 約束……?

 聞き覚えのないそれに、一抹の不安が募る。ランツァは、この後どこへ行くんだろう。何かされるのか。それともさせられるのか。……ランツァまでも俺を置いて、いこうとしている。無意識に唇を噛んだ俺の心を読んだらしい彼女は目を少し開いて首を振った。

 「大丈夫だって。そんなチュンチュンが心配するようなものじゃない。私はただ、ハルラ〈母なる木〉にお願いしたの。冬の間……私達の時間感覚だと一晩の間だから、『ちょっと夜更かしさせて』って」

 ギザギザの歯がニュイっと見えて、しかし、その顔はいつもより覇気はなかった。

 「ずっと気になってたの。森から見える小さな小屋から、ある時突然、夜の間だけ悲しい匂いがするようになった事」

 聞いたことのない、円な声。はっと気づいて、火の弱まった暖炉の方を見る。その上の小さな小瓶には、今はランツァが見つけた青い花が咲いている。

 「私、彼女に会ったこと、ある」

 「え……」

 ランツァは小瓶を見つめたまま、眉をへにゃりと下げる。

 「だって、あの紐、ランツァが作ったんだもん」

 こっちを向いた彼女は誇らしそうで、嬉しそうで、それでいて寂しそうだった。

 「私の事は、忘れてるはずだけどね」

 徐に、暖炉の前であの紐を眺める母の姿を思い出した。紅く照らされた顔は、眉間に皺を寄せつつも、ふんわりと穏やかな表情で。いつも、雨上がりの空のようにまっさらな笑顔をたやさない母親だったから、不思議に思って「どうしたの?」と幼い自分は聞いたのだ。

あの時、なんて——


『この紐はね、母さんの大切な友達にもらったの。確か、笑顔の可愛らしい子だったわ』

『確か……?』

曖昧な言い方に首を傾げると、母さんは苦笑して俺の頭を撫でた。

『うん、母さんね、あの子の事が大好きだったはずなのに、あの子の記憶は全くないの。どうしてなんだろうね。とっても思い出したいのに、どうしても思い出せないの。だから、この紐を見るたびに、寂しくて、悲しくて、あの子に謝りたいと思う』

炎の爆ぜる音の中、紐をきゅっと握ると、直前の言葉とは相反して、母さんはふふっと笑った。

『でもね、その後必ず、心がわくわくして、楽しくって、何故だかいつも笑えてしまうの。そのくらい、あの子といるのが大好きだったみたい。それが分かる事が、母さんは嬉しいわ』


あぁ、そうだ。あの紐を見るたびに、母さんはうれしそうだった。

「母さん……覚えてたよ」

気がつけば、ぽつりと呟いていた。小さく揺らめく外炎を眺めて、表情が緩む。

「覚えてた。ランツァの事は忘れちゃったのかもしれないけど、あの紐はいつも腕に巻いていたし、何よりも大切にしてた」

ランツァを見ると、目をまん丸くしてぱちぱちと瞬きを繰り返していた。

「ふははっ、驚きすぎ」

ランツァの顔が面白くて、笑いながらベッドの上にあぐらをかく。

「え、だって……だって私、記憶消すの、得意なんだもん」

「記憶を消すとは」

「や、あの、私達キトミリル〈森の従者〉は異種族には姿を見せちゃいけない決まりなの。だから、彼女にバレちゃった時も、別れ際に消したんだ……けど……」

オロオロと空中を右往左往し始めたランツァに、また笑いが込み上げてくる。さっきまでの重たい空気がふんわりと溶けて、部屋の中が心なしか明るくなった。

「ねぇ、ランツァ。その“はるら”とか“きとみりる”とかよく分かんないから教えてよ」

指でランツァを突っついて、ベッドを降りる。

「えぇ……私、バレたら怒られそうなんだけど」

「どうせ俺の記憶も消して帰るんだろ。いいじゃん」

蝋燭を手に、さっさとキッチンへ向かう。

「いい……くなくない」

「それどっち」

うだうだしているランツァはほっといて、棚に並んだ壺の1つに手を伸ばす。パコっ開いた丸い口から、柔らかな森の匂いが膨らんだ。ブレンド茶を2つ作って、暖炉の前にクッションを並べて。あかい光の中に広々と陣取った。

まだもう少し、夜が明けるには早いから。

「ランツァー。浮いてないでこっちこーい」

「うえぇー」

ふよふよと宙に漂っていた彼女は、首だけこちらを向けて如何にも『嫌です』と言わんばかりの表情をする。

「そんな顔くっしゃくしゃにする?」

「根掘り葉掘り花掘り芽掘り、ランツァ達の事聞くんでしょー?なんか悪いことする気分」

はぁとわざとらしくため息をついて、ちびちびとブレンド茶を飲んだ。

「言い方に悪意ありすぎない?それに記憶を消されるとはいえ、俺は聞く権利はあると思う」

「だけどさぁー」

「あと、今日急にいなくなった罰な」

温かいマグカップを包みながら、さらっと付け足すとランツァが顔を上げた。

「あれは、ごめん。ハルラ〈母なる木〉に『夜明けですよ、早く戻りなさい』って怒られてたの」

神妙な様子の彼女を見たら、少しジクジクと燻っていた感情もどこか消えてしまった。

「怒られたのに、抜け出してきて良かったの?」

「……こっち世界の夜明けまでは許された」

ランツァは、何故か少し不服そうに口を尖らせていて、それで先程、時間感覚が違うと言っていたことを思い出す。

……えぇ。まさか。

「それってランツァ達にとってはどのくらいなの?」

嫌な予感を抱えつつ聞けば、瞳がグルンと一周して、こちらを向いた。瞬間、眉間に皺が寄り、おもいっきり睨んできた。

「分かりやすく言うなら、大体、チュンチュンが洋服着替える時間と同じくらい」

「短っ!」


それから、ランツァが語り出したあの森の話は、本当にあるのかと疑ってしまう程、神秘的で、不思議だった。ハルラ〈母なる木〉というのは、俺も見たあの異様な大木のことだった。森の始まりで、全ての源。あの大木があるから森は保たれ、あの大木を守る為に、ランツァ達キトミリル〈森の従者〉は生まれたのだと言う。

「異種族が間違ってもハルラ〈母なる木〉を枯らさないように、見つかる前に引き離すのが、私達の仕事。ミコン〈鈴音〉で誘導したり、リアフィオグ〈森の狩人〉と協力して追い払ったりするの」

「じゃあ、リアフィオグ〈森の狩人〉ってもしや……」

脳裏にあの眼光の群れがよぎり、無意識に服の端を握りしめていた。掌にしっとりとした心地が残り、心臓がトクンと鳴る。

「うん、ごめん……来ると思わなくて。止めるの一歩出遅れた……。あ、でも違うの!あの時、別にチュンチュンは襲われそうになってたわけじゃないんだよ」

「え?」

獣は人を襲うものだと思っていたせいで、他の理由がまるで思いつかない。首を傾げた俺を前に、ランツァは言いにくそうに続ける。

「ハルラ〈母なる木〉から離れろっていう警告の意は少なからずあったけど、それ以上に、あの子達が異様にチュンチュンに食いついたのは、私の匂いが残っていたから。それで、私と勘違いした子達に続いて、みんながそうだと思ったみたいで……『早く遊ぼう』ってせがんでた」

脳に響き渡ったあの尖り声は、彼らの言葉だったらしい。全くもってその真意は伝わらなかったが。

「……まじか。俺、あの巨大な獣達に遊んでって言われてたの?」

頬をかきながら、ランツァは苦笑いで頷いた。

「うん……チュンチュン、リアフィオグ〈森の狩人〉の声にやられて倒れたでしょ?」

「……おう」

「そこでみんな、初めてチュンチュンが私じゃないって気づいたんだって。チュンチュンが気を失っちゃって、あの子達めちゃくちゃ心配してた。あと沢山謝ってた」

森の獣……否、リアフィオグ〈森の狩人〉達が、恐ろしく危ないというのは、ただの偏見に過ぎなかった。彼らが、森で暮らす幼気な優しい生き物だということは、ランツァの話で十二分に分かった。

「チュンチュンをここに運んでくれたのも、あの中のリアフィオグ〈森の狩人〉だよ。私が浮かせられる容量はそんなに多くないからね」

「そっか……お礼しないとだな」

胸中に微かな苦味を覚えつつも、そのままの感想が溢れ出る。ランツァは口元をむずっとさせて、眉をハの字に下げた。

「ありがと。みんなに伝えとく」


 暖炉にくべた木々が軽やかに爆ぜ、ランツァの表情がコロコロと変わる。キトミリル〈森の従者〉達のお祭りの事、ハルラ〈母なる木〉に怒られた出来事、まだ教えていない薬草の穴場やランツァお気に入りの花など、いろんな事をランツァは自分から話してくれた。もちろん、彼女が知る母さんの事も。

読書が好きだったとか、お茶を淹れるのが上手だったとか。俺の記憶にある母さんは、家でゆったりしている事が多かったから、ランツァ以上に外で駆け回るのが好きだったと聞いて驚いた。母さんにせがまれるまま、弓の作り方から使い方までも伝授したそうだ。

「俺にも教えてくれればよかったのにー。弓とか使ってみたかった!」

「だってチュンチュン、外出るの嫌がったじゃん!家の中の方が好きそうだったから弓なんて教えようと思わなかった!」

「まぁ、この話聴かなきゃやろうとしない説はあるよな」

「ほらぁ!」

夜が更けていく。2人で作ったブレンド茶をゆっくりと飲みながら、森の匂いが広がっていく。改めてランツァの弾丸トークにまともな相槌をしていると、何よりも先に口が疲れてきて驚いた。頬が痛い。喋るのって疲れる……!と叫んだ俺に、ランツァがジジクサイとか言ってくるからまた軽く喧嘩した。

「ねぇ、チュンチュンの話はないの?」

「え、俺の話?」

出し抜けに話の中心が自分に回ってきて戸惑っていると、ランツァは頷いた。

「そうそう。面白かったこととか、これからやりたいこととか、将来の夢とかさ。なんかないの?因みに私の目標、今日を生きる!」

「なんだそれ」

誇らしげにガッツポーズをするランツァに呆れ笑いがもれる。

「いやいや、『今日を生きる』って十分すごくて大事だからね⁇」

「そうだけども!えー……将来かぁ〜」

揺らめく炎を眺めて、ぼんやりと考える。火の粉が舞って、すぅと消える。顔があったかい。膝を抱え直して、ただ前を見つめた。

「んー『ただいま』って、言えるようになりたい」

「『ただいま』?」

首を傾げるランツァを見、また、膝に頬を預けた。

「だって、いつも見送ってばっかだから。ガキの俺に仕事をくれるとこなんてないから、俺はずっと留守番で、父さん達だけが外に行って、働いて、食料とか持って帰って来てくれるだろ?

……早く大人になって、自分で稼げるようになって、家で待っている誰かに、『ただいま』って言う方になりたい、かなぁ」

言い切ってから不意に湧いてきた羞恥心を隠すように、ちびちびとブレンド茶を飲んだ。

「そっか」

ランツァがふよふよと近づいてきて、俺の人差し指を小さな指できゅっと握る。こっちを見上げたランツァはいつも通り、ニュイっと笑っていた。

「じゃあ、ランツァが『おかえり』って言う!」

呆気に取られて、へぇ……?と自分の呆けた声を聞いた。

「記憶消すんじゃねーのかよ」

「うん、消すよ?」

「おい」

じゃあ出来ないだろという俺のジト目を見事にスルーして、ランツァはくるんと回る。

「いーの!」

ワンピースの裾がひらひらと動き、クッションに着地すると、真っ直ぐにこっちを見た。

「ランツァが約束したいから、いーの!」

「…あっそ」

元気いっぱいの声色に、力が抜ける。ははっと笑いながら肩をすくめた。

そして、徐々に疲れが見えてくると、示し合わせたようにお互いふわぁとあくびをした。意識ははっきりしているけれど、流石に頭が少々重たい。気がつけば、窓の外で、朝焼けが闇を空の端に押し上げていた。

——リン……

いつか聞いた玲瓏たる響きが、ゆったりと鼓膜を揺らす。

「インヴェルノ(記憶よ)・スコンパティリーエ(消えよ)」

はっと顔を上げると、ランツァの背には見たことのない、透き通った羽がひらいていた。黒かった髪も新芽のような澄んだ翠色に染まり、空気を含んだワンピースがさらさらと色を変える。振り返った彼女の姿は、儚い朝露を纏っていた。

「……またね」

鈴の音がくるりと心を包み込む。視界が揺れる。鼻の奥がつんとして、彼女の声がもう一度こだました。目がしぱしぱする。脳が思考を放棄している。

記憶は、残らないというのに。寂しくて、苦しいはずなのに。頬を流れた雫は、妙に心地よかった。

「あぁ……またな」

彼女が、冬の白い靄のように溶けていく。ゆっくり、1つずつ、丁寧に。絡み合い、鮮やかな紋様を成した紐が綻んでいく。

——いつか、また。もう1度出会えたならば。

透明な、細い朝日が差し込んで、空白からこぼれ落ちた雫が小さく瞬く。

——俺は、君と……


トサっと乾いた音を立てて、少年の体がクッションに包まれる。静かに閉じた瞼の端から一筋の涙が伝う。

澄み切った春の日が照らしたその顔には、晴れ晴れと穏やかな笑みが浮かんでいた。

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