第37話 見たことない顔を見せているのはお互い様
(1)
カイラに言われた程汗なんてかいていない。そう思っていたのに。
不服ながらナオミに用意された部屋へ行く途中、ぽかぽかしていた身体が徐々に冷えてきた。厨房と厨房以外の場の温度差にぷるり、背筋が震える。
言われた通り、これは着替えた方がいいかもしれない。部屋の前に辿り着いた頃にはもう、ナオミは考えを改めていた。
用意された部屋に入るのは本日二度目だが、落木事故で一晩世話になったときにも使用したので勝手はなんとなく覚えている。
コート掛けにかけた、さっきまで着ていた服と似たような地味で黒っぽい服に着替え、乱れ髪をまとめるために一度下ろす。
濃いブルネットの髪がさらさらと肩を、背中を流れるのを軽く払いのけ、窓辺の鏡台に直そうとして──、ふと窓の外へ目を向ける。
三階のこの部屋からはちょうど裏庭全体が一望できる。音を立てないよう、そっと窓を開けてみる。
チャヤのカップを手に招待客たちは和やかに歓談し、ときどき、テーブルに並ぶ野菜のキッシュやキューカンバーサンドに手をつけていた。
甘い菓子類より多めに甘くない軽食を用意するべき、と進言したのはやはり正解みたいだ。甘いチャヤばかり飲んでいても嫌になってくるだろう、と口直しに普通の紅茶やコーヒーも用意してあり、給仕役のハリッシュとクリシュナも場を仕切るセバスチャンも忙しなく動き回っている。
その周りを、招待客が同伴する幼い子供たちが無邪気に駆け回っていた。
大人と違い、子供が食事より遊びに走るのは常なのでこれは仕方ないこと。
子供たちの様子を除けば、端から見る分には首尾上々のようだ。
あとはチャヤが招待客たちから好評得られればいいけれど──、『忌憚なき意見感想』を求められても建前や社交辞令はどうしたって付き纏う。が、どこまでが建前か本音か。言葉の本質を見抜くのはルードとクインシーの仕事だ。
そろそろ窓を閉めよう……として、階下から視線を感じた。つられてその先を辿り、行きついた先にはナオミを見上げるルードがいた。
長い髪が流れ込む秋風に靡き、視界を邪魔する。
流れる髪を手で押さえ、階下のルードをじっと見下ろす。
ルード以外は誰もナオミの存在に気づかず、まるで二人の間でのみ別の時間が流れている、ような感覚に陥った。
私ときたら、何を考えているの。
夢見がちな少女めいた、くだらない発想が一瞬でも過ぎるなんてバカバカしい。
今度こそナオミはルードから目を逸らし、窓を閉めようとした──、が、次の瞬間、ルードが微笑みかけてきたせいで……、できなかった。
いつもの皮肉っぽい笑みや余裕めいた笑顔なら、無視を決めて窓を閉めていたのに。
なんで!今に限って!
家族や使用人たちだけに見せる、あの柔らかい笑い方なんてするのよ!!
物凄く不覚で認めたくないけど。本当に、本当に、ごくごく、ごくごく一瞬のみだけども!動悸が走ってしまった自分が悔しくて悔しくてたまらないったら!
今すぐ窓をぴしゃん!と閉め切ってしまいたい。
頭ではそう思っているのに、ついつられてナオミもごく自然に笑い返してしまった。
そう、これはただの条件反射、条件反射……、と誰に対してか分からない言い訳を内心で繰り返していると、ルードが笑顔から鳩が豆鉄砲を食ったような顔に変わっていた。失礼な。
三度目の正直。今度こそ、今度こそ、今度こそ!窓を閉めるのよ。
なのにルードはすでに表情を戻し、階下からナオミを小さく手招いてくる。
『私はそちらへは行きません』とゆるゆる頭を振り、唇の動きのみで呼びかけるルードを無視し、ナオミはようやく窓を閉めた。
(2)
ナオミの髪は癖がなく、さらさらなところが美点でもあり難点でもある。
あまりにさらさらで滑りが良すぎるため、却って髪が上手くまとまらない。
この国の女性はごわごわとした髪質や巻き毛ゆえの悩みもあるようで、ナオミの直毛は羨ましがられるが、何事も一長一短だと思う。
別に流行りの凝った編み込みなどではなく、ぎゅんぎゅんにキツめのシニヨンに結いたいたいだけ。でも、頭皮が痛むくらいぎゅっと髪を引っ張っても気を抜くとすぐに崩れてしまう。実は毎朝の悩みだったりする。今も鏡台の前でひとり、格闘中だ。正直着替えより時間がかかっている。
下宿アパートでの起床時はこの格闘時間込みで身支度を行うので余裕を持てる。しかし、余裕がないと余計に手の中でまとめた毛束が滑り、緩んでいってしまう。
「あぁ……、だんだん疲れてきたっ」
もう後ろで一つにくくるだけにしよう。
いつまで経っても厨房に戻らなければカイラが心配するかもしれない。
適当に、雑に後ろで手早く髪をくくる。
地味な服装と相まって、益々使用人とほとんど変わらない身なりに。
構うものか。どのみち今日は表に出るつもりなど一切ないし。
「早く戻らなきゃ」
鏡台の前から立ち、部屋を出かける寸前、ノックがした。
誰、と問うより先に、「まだ、いますか??」とルードの声。
戸惑いながら扉を開ける。
「ええ、いますけど……??」
「よかった、間に合った」
「試飲会場には私、顔を出すつもりなどありませんよ??身なりもこんなですし」
自らの服を見せつけるように、軽く引っ張り上げる。
「まさかと思いますけど、それでわざわざ会を抜け出して来たんですか??」
「いけませんか??」
ルードは唇を思いきり尖らせ、拗ねたように問いを重ねる。
さっきの笑顔といい、今の拗ねた顔といい、私は一体何を見せつけられているの。
先程感じたのとはまた違ったむず痒さが、腹の底から胸の奥へとせり上がってくるじゃない。
「気を遣っていただいたことには感謝します。でも、今日の私は厨房でチャヤ作りの指導です。今だって、カイラさんの計らいで着替えをしに来ただけで、戻ろうと思ったところですから」
「着替えを……」
「不埒なこと考えないで」
「何も考えてませんよ……」
だったら、わざわざ復唱しないで、というのは飲み込んでおく。
突きすぎては気の毒だ。
「それに……、下手に私はあの場に出て行かない方がいいと思うんです」
「なぜ??」
「私はあくまでデクスター家に雇われる一家庭教師。家庭教師が雇用先で表立ってしゃしゃり出てくるのはあまりよろしくないことかと。例え、貴方たちデクスター家が良しとしても世間では違います」
「そんなこと」
「この家の中だけなら問題ないでしょう。でも、外部の方が集う場合、私の方で自重したいのです」
「……わかりました。貴女がそう仰るのでしたら」
本日二回目。ルードは不貞腐れた顔をナオミに見せた。
一回目と違い、子供っぽさは微塵もなく、ひどく憂いを帯びていたが。
「せめて厨房の近くまで送らせてください」
『いえ、遠慮しておきます』と言いかけて、やめる。
厚意を無下にし続けるのに気が引けてきたからだ。
「お言葉に甘えますけど、お願いします」
素直に受け入れたら受け入れたで、ルードはまた変な顔を一瞬見せた。
この人、こんなに表情豊かだったかしら。首を傾げながら、揃って部屋を出た時だった。
誰かが激しく泣き叫ぶ声が下の階からたしかに響いてきた。
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