第29話 閑話休題➂

(1)


 雨は夜の間に上がっていた。

 朝のうちにコートは完全に乾き、いつもより時間を遅らせ、数日振りにクリケットの試合が再開された。

 ルードが復帰し、チーム・ガーランドとの間で広がっていた点差が縮んでいき、接戦へと展開していった。

 そんな白熱戦の最中、休憩を告げる笛の音が灰色の空に高く響く。


 流れる汗を拭い、コートから休憩所のテントへ向かっていると、作りたての料理や甘い菓子類、紅茶の香りが混ざり合った匂いが漂ってきた。空腹感を駆り立てられ、ルードの足取りは自然と速くなった。

 あの国出身のガーランド家料理番の腕前は確かなので、休憩中の食事はルードのひそかな楽しみでもある。自家で雇うインダス出身の料理番の味が一番舌に馴染んでいるが、他家の食事に舌鼓を打つのも悪くない。


「完全に調子を取り戻したようだね」


 広いテーブルに広げられた数々の料理。

 どれから手を付けようか思案中、いつの間にかクインシーが隣に立っていた。


「えぇ。まぁ、打ち身といってもごくごく軽いものですし」


 大皿に盛られた焼き立てミートパイを手元の小皿へ取り分けながら、素っ気なく答える。


「冷めないうちにいただいた方がいいですよ。お父様の分も取り分けましょうか」

「いや、自分で取るよ」


 にこやかに断り、料理を物色するクインシーを横目にパイを口に入れる。

 狐色に輝くパイ生地はサクサクと歯触りが良い。中身のチキンは味付けは元より、バジルやセージ、黒コショウなどハーブや香辛料が効かせてあるため、チキン特有の臭みがまったく感じられない。


「我が家の味に近い気がする」

「ケジャリーやスープカレーもありますし、気を遣ってくれてるかもしれません」


 最も、デクスター家の料理、特にカレーを利用した料理はもっと香辛料が効いている。普段の味付けだと客人が吃驚してしまうため、来客との会食時は辛味をかなり抑えて料理を作らせているくらいだ。


 親子共々、しばし無言で食事を口へ運ぶ。

 仲が悪いわけじゃない。むしろ良好な方だと思うが、男同士などそんなもの。

 セイラを間に挟んでいれば多少は会話が弾むだろうが、当のセイラはガーランド夫人イヴリンの友人たちに遊んでもらっている。きゃははは、と朗らかな笑い声が聴こえてくるし、当分義父と義兄の元へはやって来ない。


 ガーランド夫人か。

 コート外周、芝生の観客席へそれとなく目線を配らせる。

 芝生に敷いた大きなシートの上、背もたれのある簡易的な椅子にイヴリンはエヴニゼルと並んで座っていた。彼女の周りにはいつものごとく一定数人が集まり、会話の中心となって和ませている。


 端から見たら女主人の役割を立派にこなしている。

 でもその実態は──、ルードは思考を止めた。

 これ以上の詮索はすべきじゃない。それよりも……

 今度は遠くに相対する、対戦チームの休憩所へ視線を巡らせる。

 新たに向けた視線の先には、料理を前にレッドグレイヴ夫人とパーシヴァルに挟まれ、談笑するナオミの姿があった。


 ガーランド家最大の秘密であり、醜聞に繋がる事実──、マダム・ドラゴンの存在を知った後も、彼女は何事もなかったかのように振舞い続けている。

 今でもそう、二人と談笑する彼女の表情は普段と比べて随分柔らかい。ひと晩眠った後、昨夜の記憶がごっそりと抜け落ちたのではと思いたくなるほどだった。





 昨夜──、ナオミが放った挑発的な発言であわや一触即発かと思われた。

 肌を刺すような、心臓が痛くなるような緊張に満ちた沈黙が降り、絶対的に分かり合えない母娘は互いに睨み合っていた。

 インダスでいつか見た、見世物でのコブラとジャコウネコの亜種マングースの決闘みたいだ。一度始まったらどちらかが倒れるまで死闘を繰り広げそうな様相に、異常なまでに高まっていく緊迫感。

 完全なる部外者観客者のルードが割って入る隙なんてない。家政婦長だけは酷く狼狽しながら、両者を宥めすかすも十中八九右から左へ素通りしていそう。


 ダイニングテーブルの端、ナオミが持ち込んだキャンドルランプの芯が短くなってきた。長居するにも限界がある。

 ナオミも一瞬気になったのか、キャンドルランタンをちらりと見やり、またマダム・ドラゴンと再び睨み合い、そして、やっと口を開いた。


「ひとつだけ、ひとつだけ質問させて」

「かまわないわ」


 意外にも普段通りの落ち着いた声音に安堵し──、かけて、すぐに違和感が擡げてきた。怒りより更に上の段階へ到達してしまったのでは??

 すぐ隣にいるのだから顔を見ればわかること。けれど、決して見てはならない気がして、あえて確認しなかった。

 顎をつんと持ち上げ、どこか威圧的なマダム・ドラゴンの方が余程わかりやすい。声も明らかに怒りに満ちているし。


「お義母様の気持ちを考えたことは??貴女の手助けしてくれたとかいう、あの国の方にも相当な迷惑かけたでしょうに、その方の気持ちは……」

「私にとって重要じゃない人の気持ちなんて。そんなの、いちいち気にしてたらキリがないし、身動き取れなくなってしまう」


 マダム・ドラゴンは低い鼻先でせせら笑うと、ナオミの質問をバッサリと切り捨てた。潔すぎていっそ清々しい。


「身動きが取れない??貴女は自ら軟禁状態になりにきたじゃない」

「違うわね。誰かに言われて身動きが取れなくなるのは嫌だけど、私は自らこの状況を選んだ。だから今の自分に充分満足よ」

「…………そう。わかった…………」


 ナオミは素早く身体の向きを変え、キャンドルランタンに手を伸ばした。


「ナオミお嬢さ……」

「大丈夫。今夜の件は黙っておくから」


 家政婦長の弁解がましい喚き声など顧みず、ナオミは静かに退室し、ルードは慌てて後を追った。特に速足でもなく、普段と同じ歩調だったので即追いついたものの、かける言葉が見つからない。

 地下の階段を上がりきっても一階の廊下へ出ても。二階へ続く階段を上がっても、二階の廊下へ出ても。ふさわしい言葉が一向に出てこない。

 とりあえず彼女の自室の前まで送ることにしたが、特に受け入れるでも拒絶するでもない反応のなさに調子が狂ってしまう。


「それでは……、おやすみなさい」


 終始無言のまま、とうとう彼女の部屋の前に到着してしまった。

 余計な言葉は言わず、定型的な挨拶だけ済まし、背を向け──


「……貴方がいてくれて、助かりました……」


 聞き逃してしまいそうな、振り絞った声が背中を撫でる。

 しかし、つられて振り返ってみたときにはもう、扉が閉ざされたあとだった。







(2)


「Miss.ガールが気になるのかい??」

「その呼び方、彼女は嫌がってますからやめるべきですよ」

「おや、散々『姫』呼びしていたお前が言える立場かね??」

「今はもう呼んでません、今は」

「今は、ねぇ??」


 ふぅん、と意味深な流し目を送られ、内心ムッとする。

 すべて見透かした上であえて黙って静観。一度はやりたいようにやらせ、ルードが失敗して初めて『……すると、……という結果に繋がる。わかったかい??』と諭し、納得させるのがクインシーの教育方針。口ぶりから察するに説教を始める気だろうか。

 仕事や家に関する事柄なら甘んじて傾聴するが、母が亡くなって以降、現在進行形で女性関係が絶えないクインシーにだけは色恋沙汰に口出しされたくない。


「彼女は本当に笑わない人だからなぁ」

「え??」


 身構えていると、クインシーはルードと同じ方向、ナオミを見ながらひとりごちた。


「僕の目には笑っているように見えますけど」

「うん、微笑んではいるよ。でも笑ってはいない。彼女が声を立てて笑うところ、少なくとも私は一度も見たことがないのだねぇ」


 言われてみれば、彼女が見せる表情は厳格なものか、不機嫌か呆れ、無に近いかのどれかが大半だ。穏やかな表情も見ないこともないが、せいぜい微笑むのが関の山。

 淑女にとって声を出して笑うのは下品とみなされる。しかし、くすくす、ころころと控えめな笑い声なら辛うじて許される。彼女はそれすらしていない、気がする。


 意識的にせよ無意識にせよ、声を立てて笑わないことが彼女の『鎧』だろうか。


「『鎧』か」

「鎧??」


 訝しむ父に、なんでもないと頭を振りつつ、心を保つための『鎧』はルードにも充分覚えがある。『鎧』があったからこそ、今の彼は形成されたと言って過言ではない。


『鎧』は年を経るごとに重さと厚みを増していく。

 いつか圧し潰される。その前に『鎧』を脱いで楽になれ──、大半の人々は諭し、時に脱がそうとさえしてくる。大きなお世話だ。放っておいてほしい。自尊心を大事にして何が悪い。楽になるのが怖いと思う者だっているのに。ルードも、おそらくナオミも。


 以前であれば、ナオミは『鎧』を脱がした方がいい人間だと考えていた。が、昨夜の件で誤りだと分かった。『鎧』を脱がせるよりも『鎧』についた汚れを磨き、細かな傷を修復すべきだと。一連の作業もナオミが主で行い、あくまでルードは補佐であればいい。


 ある意味夢の中の姫と恋人の騎士みたいだと可笑しくなった。

 ただし、どこまでも意思の赴くまま自由に生きるキャサリン姫と違い、ナオミは自身の与り知らぬところで複雑に絡む因縁や思惑に抗うのに必死だ。

 将来はあの国の田舎でひとり、のんびり暮らしたい気持ちも今なら理解できる。理解できるけれど。


 願わくば、その時。

 彼女の隣に並んでいたい。


 絶対に嫌だと断固拒否されるのは分かっているから。

 今はまだ胸の裡だけに留めておこうと思う。

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