エピローグ 一度きりの人生

「やっぱり君は、二十年を共に過ごした私より、たった二年の付き合いの野島を取るんだね」


 彼女は大きくため息をついた。喉の奥に溜まった熱をゆっくりと吐き出していくかのように。鈍色にびいろのマスクが少し膨らんで、揺れた。


「でも、彼ほど僕のことを理解してくれる人はいないよ。君以上にね」

「つまり、私は君に心を開いていたつもりだったのに、でも君は私には心を開いてくれてなかったってことね」

「ううん。開いていたよ。でも君は決して背中を押してはくれない。それどころか、いつも僕から挑戦する自由を奪っていくんだ」

「背中を押すのには基本的に責任が伴わないからね。でもね、それがビルの屋上だと話が別なの。ビルの屋上で背中を押したら、必ず責任が伴う。私は私の責任が伴う限り、絶対に君を死なせやしない」

「君にそんな責任を背負う資格も義務もない」


 僕の言葉を聞いた彼女は、嘲笑う時のような、喉が引きったような笑い声を出した。それは店内を虚しくこだまして、しかしすぐにBGMで掻き消された。


「やっぱり君は最初の時からなんっっっにも変わってないよ。別にそれが君の幸せっていうのなら、受け入れるつもりなんだよ。でもそれでいつも死んじゃうんだから世話ないよ、ほんとに」

「君は想像上の僕を勝手に殺しているだけだ。生きている僕は今ここにいるというのに」

「……どうやら私は、決して君達と同じ世界の住人にはなれないみたいだね」


 彼女は孤独に打ちひしがれるように目を瞑って、顔をふっと天井へ向ける。それから目にかかった髪の毛を振り払い、僕をにらみつけた。僕はその眼差しに敬意を払うように、じっと見つめ返した。しばらくの間、二人の睨み合いが続いた。


 その膠着こうちゃくを先に崩したのはやはり彼女だった。突然彼女はハンドバッグを握って立ち上がった。その瞬間、喫茶店に流れる時間が慌ただしく動き出した。からんからんというベルの音と共に扉が開く。従業員がメニュー表を引っ提げて応対する。女子高生三人組が対角線上の席へ案内される。


「いいよ、もう絶対に引き留めない。何千回でも何万回でも後悔すればいい。勝手に死んじゃえばいい」


 涙を隠そうともしない彼女は、それだけ言い残すと、腹立たし気な足取りで喫茶店から去っていった。


 確かに、彼女の言う通り、この選択のことはこの先何度も後悔するかもしれない。でも、一度きりの人生というのはそもそもそういうものなのだ。

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たった、一度きりの人生 クロロニー @mefisutoshow

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