第三話 強欲な嫉妬

 野島慧と最初に出会ったときは高校一年生の時だった。同じクラスで出席番号が一つ違い。一学期の席順で常に一つ前の彼は常に視界の端に入る存在だったが、その時点ではまだあまりお互いのことを認識していなかった。僕が野島の存在を気に掛けるようになったのは二年生の頃からで、本格的に親しくなったのは三年生の頃だった。二年生の頃から文系理系でクラスが分かれることになるのだが、2人とも理系を選択したために結局僕と彼とは3年間同じクラスに所属することになった。今にして思えば僕の興味の方向性は理系よりもむしろ文系の方にあったように思うが、理系の進学を考えていた君の後を追うのに必死だったのだ。


 さて、野島慧は恐ろしく数学の出来る奴だった。それも、学校のテストでは測りきれないほど。ある時学校で受けさせられた全国模試の数学者の最上位に彼の名前が載っていたのを僕は知っている。他のクラスメイトは、そんな表には全く興味のない様子だったが。そういうわけで彼は自身の能力を周囲から不当に低く見積もられていたが、僕はそれをチャンスだと捉えていた。当時数学で伸び悩んでいた僕は、その秘訣を知るために彼に探りを入れることにした。塾は行っているのかとか、わかりやすい参考書が何かあるのか、とか。でも彼の愛読書は参考書なんかじゃなくてSF小説とミステリー小説だったし、塾とか行く暇があったらゲームしているような人間だった。しばらくの間正体不明の宇宙人みたいな存在だったが、三年生になって彼と一緒に勉強するようになってわかった。彼は問題の構造の把握が抜群に上手かった。それは数学に限らず全ての分野においてそうだったのだが、数学だけは唯一体系的な知識を会得していたおかげで、問題の解決に必要な道具を解答に組み込めたのだ。逆に言えば、他の分野も体系的な復習をこなすことでメキメキと頭角を現した。もっともそれでも文系分野に少し苦手意識を持っていたようだが。


 さて、三年生の夏ぐらいまでは昼休みの教室で少し勉強を教え合うくらいの仲だったが、お互いが同じ地元の国立大学の理学部を志望していることがわかってからは、週末に喫茶店で勉強会を開くようになった。――僕の志望理由は勿論、君と同じ大学に行きたかったからだ。彼はもっといいところまで行けそうに見えたけれど、どうやら興味ある研究室があったらしい。


 といっても受験勉強だけをただひたすらやっていたわけじゃない。お互いパソコンを持ち寄って、先生も教えてくれないような細かい疑問を二人で調べて、議論しあったり、もっと抽象的で観念的な、世界に対する感じ方を共有しあったりした。君のおかげか僕はあまり地に足のついていない考えの持ち主だったようで、そういう話は大いに盛り上がったのだ。


 そんな切磋琢磨し合える環境がこうそうしたのか、僕と彼は無事に志望学部に合格した。合格発表明けに久々に君に会えた時には、お互いに感極まって泣き合ったことを覚えている。今思い出しても奇妙な時間だった。そして公園で少し落ち着いてから、この一年のことを君に報告したのだ。すると君が顔をしかめて、言いにくそうに話を切り出した。「野島慧君って、あの、興奮してきた時にいつも少し言葉がつっかえる子、だよね」僕はとても嫌な予感がした。君は彼と全く面識がないはずなのだ。「彼は……かなり危ない」「危ないって、命の危険に関わる程なの?」「……うん」君は縁を切れとかそんなことは一切言わなかったが、その警告は暗に縁を切れと言っているようなものだった。


 しかし僕もその時に限ってはそんなことはないと思っていた。何故なら彼のことはこの一年でよくわかっているつもりだったからだ。君のことを疑っていたわけじゃないが、しかし君も全知全能ではないのだろうと、間違っている時もあるはずだと、そう考えていたのだ。


 そして問題の卒業式の日。その日は、卒業式が終わったらすぐに君と部屋を探しに行く予定になっていた。親には内緒で大学入学したら君と同棲することは前々から話し合っていたことだ。一人暮らしより安全で楽だから、そうしない理由はないという結論を二人で下していた。大学に近い部屋は早めに探しておかないとすぐ埋まってしまう。本当は合格発表の日にやっておくべきことだったのだが、大学生活で忙しい君の都合に合わせてその日に決まったのだ。


 だから卒業式が終わり、教室で行われる最後のホームルームが終わると、お互いに肩を抱き合っているクラスメイトを後目にさっさと帰り支度を整えてその場を抜け出したのだ。するとその後ろを野島が追いかけてきて、正面玄関で僕を呼び留めた。あの場の雰囲気が嫌だったから抜けて来たのか、と思ったら違った。「ちょっと、帰るのはやいって」なにやら僕にもうちょっと居て欲しかったらしい。「ごめん、ちょっと用事があるんだ」「ま、ま、全く薄情な奴だ、そんなに大事な用事、な、ないでしょ」「君以外に親しいクラスメイトいないし、別にいいかなって」「俺、お、俺がいるんだから」「君とは大学で会うんだし、今別れを惜しむ必要はないかなって」「卒業式って、ももっと特別な、日でしょ」僕の脳裏には君の警告がよぎっていた。なんだかわからないが、嫌な予感がしていた。「僕はあんまりそういうのはわからないかな。僕にとって特別なのは人だけで、場自体にはあんまり感じないタイプなのかな」そう言って僕はそれ以上議論する気はないという意思を示すために、校門の方に顔を向けた。「ま、待って、まだ伝えたいことが」野島は歩き出そうとする僕の左手首をガシッと掴んだ。そして手首を握るその手の荒々しさと強引さが僕の怒りのトリガーになってしまった。「だからさぁ! 大事な用事があるって言ってるじゃん!」


 その時の彼の怯えたような顔は、今も僕の脳裏にこびり付いて離れない。彼と再会してからだいぶ上書き出来てきたものの、やっぱりふとした拍子に思い出して、少しシュンとしてしまうわけだ。こうして野島とはしばらく疎遠になっていたわけだ。


 さて、この時の君の警告は、知るはずのない僕の友人の特徴をズバリと言い当てたのが信憑性を高めている原因だった。だが、今にして思えば、このくらいのことはいくらでも説明がつけられる。街中で僕たち二人を見かけた、というのでもいいし、元々野島のことをどこかで知っていた、というのでもいい。一番ありえそうなのは、僕の後ろをつけていた、という説だが。君は大学で成績優秀かつ部活熱心でアルバイトもこなしているものだから、休日なんて全く暇がないだろうと当時の僕は思っていたが、授業をさぼってもやり方次第で優秀な成績を修められることはもう既に知っているし、どれだけ熱心に部活をしていても中高の運動部以上に熱心なところはそうそうないということも知っているから、それくらいのことは可能だったんだと今は思ってる。


 君が野島を遠ざけようとした理由は、多分嫉妬しっとだ。僕の心の中に別の人間のためのスペースが出来るのが、そしてそれがどんどん大きくなっていくかもしれないということが、君は嫌だったんじゃないか? 創作に関してもきっとそうだ。自分のする話が僕にとって取るに足らない作り話になるのを恐れたんじゃないか?


「……大した自惚うぬぼれね」

「でも、君の今までの行動を考えてみれば、嫉妬深さを示しているようにしか思えない」

「嫉妬に関しては、否定も首肯もしない。ただ、私もそんなに愚かじゃない」

「愚かというより強欲だ」

「他人の悲劇的な運命を書き変えようとすることを強欲と言うのなら、きっとそうだわ。でも、誰だって私の立場に立ったら、それを望むはずよ」

「悲劇的な運命なんて最初からどこにもないんだ。そこに寿命があるだけで」

「ううん、ある。君がそれの生き証人」


 君は頑として自分の立場を譲らないようだね。まあ、僕から出来る話はこれだけだ。そして僕の結論はもう出している。あとは君が君だけの結論を出すだけだ。

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