第一話 予言の成就
小学三年生の頃、背がとびきり小さかった僕は何かと笑いの種にされることが多かった。先生に当てられて、何も答えられなくて、笑われる。鬼ごっこして、誰も捕まえられなくて、笑われる。見張り係をやらされて、自分だけ先生に捕まって、笑われる。過去の失敗を
あの頃の僕は今にして思えばあまりにも純粋で、上手く道化をやれていたんだと思う。笑われても、笑ってくれていると思っていたし、もてあそばれていても、遊んでくれていると思っていた。喧嘩も、相手が怒っていて自分も怒っているから、おあいこなんだと思っていた。たとえそれが一方的な暴力だったとしても。喧嘩した後も、相手が怒りを収めたから仲直り出来たんだと思っていた。
ずっと昔、君に対して小学生の頃の自分のことを話したことがあったよね。その時に君が「それってイジメじゃないの?」って言って、その時に僕は「イジメなんかじゃないよ。喧嘩も僕が原因なんだし、お互いにふざけ合っていただけだよ」と返した。でもこうして改めて振り返ると、自分だけが気づいていなかっただけで本当にイジメだったのかもしれない。ヒエラルキーから解放された今なら、そう思えるよ。
「でも君はそれを捨てようとする。また自分から危険なヒエラルキーの中に組み込まれようとしている」
「そうかもしれない。確かに君と過ごした日々はヒエラルキーとは無縁だった。君の言いなりになっていれば今後も一生そうだったのかもしれない。でもそれは、新しい可能性への挑戦を諦める理由にはならない」
「新しい可能性なんて、もうないんだ。君に待ち受けているのは悲劇的な幕切れだけだ」
「僕もそう思っていたよ。君のせいでね」
そう、君に出会ってから全てが変わった。それから、長い時間の中で全ての可能性が一つずつ潰えていったんだ。そして君だけが今ここに残った。僕を
あの日の放課後、僕はクラスの男子とかくれ鬼に興じていた。僕は絶対に見つかりたくなかった。だって、見つかって鬼になったら最後、絶対に捕まえられない背中を延々と追いかけまわすことになるから。息が切れて痛くて苦しい肺を手で押さえつけながら。だから絶対に見つかりたくなかったんだ。
そこで僕は音楽室の真下にある空洞に身を隠すことにした。その空洞というのは、第一運動場と第二運動場の境目に位置する中庭の、校舎へと伸びる斜面を登った先にある、建物と斜面の間に出来た小さな隙間のことだ。植物保護の観点から普段は絶対に足を踏み入れてはいけないと注意されている中庭の斜面だが、あまり守る生徒はいない。面白半分で草木に足を突っ込む生徒ばかりだ。しかしその
その空洞は子供一人が頭から入って奥でようやく丸まれるくらいのスペースしかなく、外からの光は全く入ってこない、夏なのにヒンヤリとした場所だった。暗闇の冷たさを最初に思い知ったのが、あの空洞だった。今にして思えば、真上にあるのがいつも冷房で涼しい音楽室だったからなのかもしれない。
そこで僕は一体どれだけの時間を過ごしたのか、正直よくわかっていない。誰にも見つからないことを祈りながら、しかし一方で最終的には誰かに見つかるだろうと楽観していたのだ。そして気付いた時には眠りこけていたのだ。眠る直前の、自分の身体と暗闇の境界もわからないまま薄れていく意識の中で、毎週追っていたアニメのことを考えていたのは辛うじて思い出せる。夕方の五時から始まるアニメで、かくれ鬼が早めに終わって家に帰れたらいいなぁ、今日ばっかりはこんなことしてないで今すぐ家に帰りたいなぁなどと思っていた。走ることを除けば遊ぶこと自体は嫌いではなかったが、その日に限ってはいつにも増して退屈で
そしてかくれ鬼の最中であることを思い出したその時、空洞の中で僕を呼ぶ声がした。聞いたことのない女の子の声――それが君の声だった。
僕はもそもそと足を伸ばし、側壁に手を伸ばし、上手いこと身体を押しやりながら足から外に出ようとした。するとその足が君の身体にぶつかったのか、小さな悲鳴が上がった。それが空洞の中でやけに不気味に響いたことも覚えている。まるでコウモリか何かが鳴いたかのような――あの日のことは覚えていることばかりだ。
「私も覚えてるよ、君を見つけたあの日のこと」
「僕が君と出会った最初の瞬間だ。僕のことを『最初から何も変わらない』と君は言ったけど、あの頃と今とを見比べるとどう? 何一つ同じものはないと僕は断言できる」
「ううん、その日は最初じゃないの」
「僕にとっては最初だったんだ。君はもっと前から僕のことを気にかけてくれていたのかもしれないし、だからもしかするとどこかでちょっと話したことくらいはあったかもだけど……ごめんだけど正直全く記憶に残っていないんだ」
「私が言っているのは君自身の話じゃなくて、別の世界の君の話。だから記憶にないことを気に病む必要はないの」
「……別世界とか、そういう宗教じみた話は今は一旦なしにしよう」そう、まさしく宗教なのだ。そして僕がその最初にして唯一の信者だったのだ。未来教とでも言うべき宗教の中で彼女を教祖と崇め奉り、『悪い未来』が潰えていくことに
なんとか空洞から脱出すると、空はもう青みがかった夜に覆われていて、星がちらほらと輝き始めていた。その時初めて君の顔を見た。大部分が影になっていたはずだけど、暗闇の中で目が慣れていたからか僕の目にはくっきりと映っていた。ふんわりとウェーブのかかった黒髪に、シャープな輪郭、暗闇の中でも光を絶やさない大きな瞳。学年も一つ上だし、身長もあの頃の僕からすれば見上げるほどの高さだったものだから、君のことがとても大人びて見えた。変わった変わってないの話をするならば、君こそあまり変わっていないように思う。君はあの頃から務めて大人であろうとしていた。容姿から言動まで。「大人にならないと。私は大人なんだから」って、出会った頃の君はことあるごとにそう言っていた。自分の気持ちを落ち着けるための、自己暗示の呪文だったんだろうね。そしてそれがてきめんに効いた。君はその小さい頃の理想のまま大人になれてしまった。その大人像が歪んだものかどうかは別としても。
さて、そんなに時間が経っているとは思いもよらなかったから、僕はとても慌てた。きっと遊んでいた男子たちが心配して探しているに違いない、と考えた。しかしグラウンドを見回してみるとそんな雰囲気ではなかったので、ホッとしたやら悲しいやらよくわからない気持ちになった。実際に次の日に聞いた話では、かくれた僕を驚かせるためにみんなでさっさと帰ってしまった、という話だった。
次に、もしかすると親が探しに来ているかもしれない、と考えた。しかしクラスの男子たちと同様、その気配はなかった。もっとも、こっちに関しては考えていたよりももっと大ごとになっていた。「学校に生徒は残っていない」という警備員の言葉を信じた母は、「学校の外で事件に巻き込まれているに違いない!」と考えて警察に捜索願の届け出を出していたのだ。
誰も探していないのなら、そのまま家に帰るしかない。正門のある第一運動場の方へと歩き出した僕を、君が引き止めた。「そっちから帰るのは危ない」と。「危ないってどういうこと?」君は臆することなく堂々と答えた。「私は君を助けるために未来からやってきたの。そっちから帰ると、君は死ぬ」僕は何かの冗談だと思った。だからちょっと笑ってみせた。でも君は全く笑わなかった。君にも案外子供っぽいところがあるんだな、なんて思ったりした。僕はその雰囲気に馴染みがあったのだ。横断歩道の白い部分だけを歩くような、あるいは到底歩き続けられないような細い縁石の上を出来るだけ長く歩き続けるような、プライドを賭けて真剣に取り組むべき一つのゲームが唐突に始まった時の、あの雰囲気だ。「じゃあ、もしあっちから帰ろうとするとどうなって死ぬの?」「校舎から花瓶が落ちてきて、それが運悪く君の頭に直撃するの」「どこに落ちてくるの?」「詳しいことまでは知らない。誰も教えてくれなかった」「じゃあ、校舎の下は通らなかったらいいの?」「正門はもう閉まってて、裏門から帰ることになるの。そうなると結局校舎の下を通らなくちゃいけない」「じゃあ、どうやって帰ったらいいの? もしかして一日中学校にいなくちゃいけない?」「第二運動場から外に出る方法があるの」
第二運動場と歩道を隔てる金網の隅っこに、子供がギリギリ這って通れるくらいの穴が開いていた。その場所では何度も遊んでいて、記憶が確かなら穴なんて開いていなかったはずだった。「これ、もしかして――が?」あの時君のことを何と呼んでいたかあまり覚えてないが、きっと「お姉ちゃん」とかだろう。「ううん。私は知ってただけ」
君を先頭に、服を金網の切れ端に引っ掛けないようにしながら慎重に外に出た。そこで懐中電灯を持って巡回していた制服警官に見つかり、僕らは無事に保護された。無事に保護されたと言っても、見つかった瞬間は逮捕されるような気持ちだったし、勿論そのあとに警官と母の両方から二度も大泣きするぐらい怒られることになったのだけれど。そういえば、あの時の母は君の親に対してもイライラしていたんだっけ。警官が君の家に連絡したけれど親が一向に現れる気配がなくて、結局君を交番に置いて家に帰ったのを覚えている。君の親が放任主義の皮を被ったネグレクト常習犯だったというのは、高校生の頃に君自身の口から聞いた気がする。母親が毎日パチンコ漬けで、それが原因で夜な夜な父親と喧嘩していて。「やりたいことをやりなさい」が口癖で、でも自分ばっかりがやりたいことをやっている、みたいな話をしていたよね。なんとなく高校生になってからの話だと思っていたけど、よくよく考えると小学生の頃からそうだったんだね。
――話が逸れてしまったね。これで終わりだったら、僕たち二人はきっとこうはならなかったんだろうね。でも、君の予言は成就してしまった。少なくとも僕の中では。次の日の朝礼で教頭先生が話したことは、僕に大きな衝撃を与えたのだ。「放課後に校舎から花瓶を落とした生徒がいるらしい。もし下に誰かがいたらどうなると思っているんだ! 誰かはわからないが、こんな危険な悪戯は金輪際やめるように」と。僕はつい後ろを振り返って君を探そうとしたが、学年も背丈も違う君を見つけることなんて出来るはずもなく、朝礼台の前に立っていた先生に注意されて諦めた。もしかすると君は僕にだけ見えた幽霊で、もうこの世界のどこにもいないかもしれないとさえ思ったが、教室へ戻る道中で君の顔を見つけた。いや、君が僕を見つけたのかもしれない。全校生徒500人分の人混みに揉みくちゃにされながら、君は一言だけ僕に残したのだ。「ね? 私の言った通りだったでしょ」予言の完成だ。
その日から僕は3階の踊り場で君と会うようになった。3年生の教室と4年生の教室は横一列に並んでいて、その境目に位置する踊り場がお互いにとって一番楽な落ち合い場所だった。もっとも、学年が上がっても結局3階の踊り場を利用していたけれど。とにかく僕はクラスメイトと遊ぶことをやめて君と一緒に過ごすことを選んだのだ。だって、君に聞きたいことが次から次へと湧き上がって、尽きることがなかったのだから。「どうやって」「あることをしたら魂だけ昔に戻るの」「あることって?」「それはひーみーつー」「お姉ちゃんは何者なの?」
「「君の未来のお嫁さん」」
よく覚えていたね。黒歴史になっているのかと思っていたけど、別にそうでもないんだね。恋愛とはどういうものかを知る前に既成事実として突きつけられてしまうのだから、これほど強い呪いはないよ。
「呪い……ね。結局のところ、不可避の未来は全部呪いなのかもね」
「君の話では、未来は可変なはずだ。じゃなきゃ君は――」
「それでも不可避な部分というのは存在するものよ。たとえばそう、君が変わらなかったこととか」
まあいい。君の土俵にわざわざ乗っかるつもりはない。とにかく、君から聞きだしたタイムリープの話を総合するとこうだ。
君は僕の死の運命を変えるために未来からタイムリープしてきた。これが初めての経験ではなく、君は何度かタイムリープを繰り返している。というのも僕があらゆる状況で「死にやすい」人間だからだ。君が言うには運命の悪戯だそうだが、なんとも都合のいい言葉だなと今は思う。本来可変なはずの「未来」を「運命」だとすることで不可避性を付与しつつ、その不可避な「運命」に「悪戯」という気紛れ属性を付与して回避可能性を示唆することに成功している。結果として特別な人間――君の話で言う君自身のことだ――によってのみ変えることが出来るのだという印象を植え付けることが出来る。確認する術が存在しない、言ったもん勝ちのことを君は言っているにすぎないのに。
そう、タイムリープという前提を一度でも認めてしまえば、あり得る全ての可能性が言ったもん勝ちになってしまう。勿論君の一人勝ちだ。しかし僕は――少なくともあの頃の僕は、その前提を呑み込んでしまった。一つにはそれがあまりにも重大な警告であること、そしてもう一つは、予言の成就で信憑性が上がってしまったこと。生死に関わる警告は、そのあまりにも強いプレッシャーによって、意図的に無視することは極めて難しい。そして、君のそのピンポイントに鋭い先見は、「未来を知っている」以外で説明をつけることが出来なかった。でも、ここまでの話を総合すると、おかしい点があるということに気付かない? それとも、おかしい点に目を瞑りつつ、「一生気付いてくれるな」と内心祈り続けていたのか。
君は何度も過去に戻って僕の死を回避させているのに、どうして花瓶の落下地点を把握していなかったのか? 君は「誰も教えてくれなかった」と言ったが、そもそも君自身が何度も遭遇しているはずだ。そして僕に回避行動を促すということは、あの花瓶によって少なくとも一度は僕が死んでいるはずだ。ならば事故現場として学校内に捜査が入るのが自然な流れだ。テレビドラマでよく見るあのテープを貼るかもしれないし、少なくとも立ち入り禁止区域は発生するだろう。そうなれば、大まかな位置の把握ぐらいは生徒なら誰にでも出来る。そして、誰にでも出来るなら君がそうしない理由はない。なぜなら、その落下地点は次から必ず回避すべきポイントだからだ。確かに小学生の君に教えるような人は誰もいないかもしれないが、君が知るための手段は必ず存在する。
まあただそれも、「言ったもん勝ちの論理」によっていくらでも説明がつけられる。たとえば、落花地点を話すことで別の死が発生してしまう、とか。あるいは、それを教えると僕と君の仲が上手くいかなくなる、とか。だから、言ったもん勝ちの「前提」を覆さない限り、この疑問点は意味を為さない。
さて、ここからが本題だ。今日はこの「前提」を覆しに来たんだ。一見悪魔の証明のようにも聞こえるかもしれないが、必要なのは「タイムリープがありえないのを証明すること」ではなく「タイムリープより信憑性の高い解釈を提示すること」。僕がタイムリープを経験したことがない以上、僕の中に巣食う「前提」を覆すにはそれで充分なんだ。
僕が提示する解釈、それはあの花瓶を割ったのは他ならぬ君自身だった、という解釈だ。実は中学生の時、君について先輩から聞いたことが一つある。君は小学生の頃、クラスの女子から嫌がらせを受けていたそうだね。思い出したくないことかもしれない。もしそうだったらごめん。その嫌がらせの一つに、机の上に教室の花瓶を置かれる、という嫌がらせがあったんじゃないかと僕は考えている。不幸にして死んでしまった子の机の上には
「――何か反論ある?」
「金網から出る時、花瓶の割れる音が聞こえたよね」
「いや、記憶にない」
「私が『今、何か聞こえた?』って言って、君はそれに
「全く記憶にない。ただ、たとえそれが本当だったとして、君がそう言っただけだろう。そして恐らく僕はそれに頷いただけ。そりゃ何かの音がどこからか聞こえてくることくらいはあるだろうし」
「君の覚えている範囲でしか反論できないなら、私から反論できることは何もないよ。君自身が自発的に反論を見つけてくれるのを、ただ祈ることしかできない」
「別にそんなことはないよね? さっき話した通り、僕はあの日のことについて、細かいところまで結構覚えているし、だからこそ間違っていればどこかに矛盾点があるはず。反対に、君のことについては推測に頼っている部分がかなり大きくて、もし僕の解釈が間違っているなら君はそれについて反論できることがあるはずだ」
「君は自分の解釈に合うよう記憶を拾ってきたみたいだけど、逆に言うとその解釈に合わない部分は思い出すつもりがないから無意識的に切り捨てているわけ。一方で、私が私自身の過去について『そんな事実はない』と言ったところで、君はそれを確認する術を持たないわけで。それこそタイムリープして、私の過去を確認してきてくれないと」
「なんだか、珍しくやぶれかぶれだね」
「君の話の進め方はアンフェアで、取り付く島もないからね。残念なことに」
「――そう。確かにフェアじゃなかったかも。ごめんね」
ただ、誤解しないで欲しいのは、君のことを疑っているのはこの日のことだけが原因ではないということだ。一つのことに別の解釈を見つけただけじゃ、君と僕のこの二十年の信頼関係は崩せない。ただ、それが二つ三つと出てくるとそうもいかなくなる。
さて、僕の疑念を決定的にさせた出来事について語ろう。
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