たった、一度きりの人生

クロロニー

プロローグ 変えられない運命

「――そう。結局、君を変えることは出来なかったってわけね」


 喫茶店特有のゆるやかな静謐せいひつの中で、彼女はぽつりと呟いた。マスク越しの彼女の表情をうかがい知ることは出来ないが、その消え入りそうなかすれ声からは微かな悲哀の色が漂っていた。その悲しみには同情の余地があった。なぜならこの選択は僕の遅すぎた我儘わがままであり、彼女も容易には引き返せないところに来ていたからだ。だが僕はその言葉の間違いを指摘せずにはいられなかった。彼女ときっぱり決別するために。


「いいや、変わってしまったんだよ、君のせいで」


 そして僕の中から全てが消え去ったのだ。彼女の存在を除いては。僕の中にあった幾多いくたの可能性は、二十年かけてゆっくりゆっくりと、一つずつ丁寧に排除されていった。まるで洗脳をするかのように。――いや、これこそ洗脳そのものだったのかもしれない。決別を告げた今ならわかる。たった一つの嘘を深く信じ込ませることで、彼女は見事に僕の意志を操ってみせた。それを洗脳と呼ばずして何と呼ぶ?


 しかしそんな僕の反論を意にも介せず、彼女はゆっくりと首を横に振る。


「ううん、君は全く変わっていないよ。最初に出会った時から」


 自分がタイムリープしてきたということを二十年間主張し続けた一人の女は、目を逸らすことなくそう言ってのけた。その瞳は心なしか潤んでいるようにも見えた。


 ――往生際の悪い。


「わかった。君があくまでそう主張するのなら、僕にも考えがある。一度振り返ってみようじゃないか。僕たち二人の人生と、君の吐いた壮大な嘘を」


 一口も口をつけられていないアイスコーヒーのグラスから水滴がしたたり落ちる。彼女がそれを頼んだとき、まさかこんな話になるとは夢にも思っていなかっただろう。それはまるで彼女の焦りを表しているようだった。かすれ声になるほど喉が渇いているのなら飲めばいいのに、マスクを外せば魔法が解けてしまうとでも思っているのだろうか? 今は彼女の一挙手一投足に苛立いらだちを覚える。


 彼女は目をつむりながら大きく息を吸い、そして身体を震わせながらゆっくりと吐き出した。子供の頃は、彼女のその冷静さを保とうとする仕草に大人らしさを感じ、

「自分も大人にならなければならない」と思わせられたものだった。今はただ、相手を威圧するための威嚇いかく行動にしか見えない。それはきっと最初からそうだったのだろう。驚くべきことに彼女は二十年間何も変わらなかったのだ。


「……いいよ、それで君の気が済むなら」


 やっとのことで絞り出した言葉がそれだった。あくまで自分は嘘を吐いていないと、そういうスタンスでいるらしい。僕がカマをかけているだけだと思っているのか、それともどんな手を使ってでも反論しきる自信があるのか。どちらにしても随分ずいぶんと馬鹿にされたものだ。勿論この発展途上の宇宙で絶対に起こりえないなんて事は何一つない。だから僕は100%自分が正しいとは思っていない。しかしそれでも、99%の自信は持っている。――僕は怒りを落ち着かせると一瞬だけ、1%の可能性に揺らぎそうになった。しかしその1%は彼女への同情の1%でしかなく、たとえそれが極々小さい可能性の中にある一粒の真実だったとしても、それは既に僕の人生にとって不要な真実なのだ。


「残念ながら逆なんだ。もうこの話は、君の気が済むかどうかという話でしかない」同情なんてしていたらキリがない。一度信じないと決めた以上、それが真実であってもふたをする覚悟をしなければならない。「まずは僕らが最初に出会ったあの日のことから――」

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