36.手紙

 冬にしては暖かく、穏やかな陽射しが窓から降り注ぐ午後。

 屋根の雪が溶けているのか、雨のような滴の音が規則的に響いている。


「お姉ちゃん、お客さんだよー」


 自室で本を読んでいたわたしは、階下から聞こえる妹の声に顔を上げた。栞を挟んで本を閉じながら立ち上がるも、来客に思い当たる節もなく、内心で不思議に思いながら部屋を出ようとした。


 ドアノブに手を掛けると同時に、ドアが大きく開く。


「わ、っ……!」


 ノブを握ったままのわたしは開いたドアに引っ張られ、そのままドアを開けた人へと突っ込んでしまった。


「大丈夫? だからノックした方がいいって言ったんだけど……」

「でもそのお陰で役得だったでしょ。リーチェちゃんに感謝しなきゃね」


 わたしを受け止めているジルは困ったように眉を下げ、その隣のリーチェは悪戯っぽく笑っている。


「ごめんね、フィーネちゃん」

「大丈夫だけど……お客さんってジルだったのね」

「うん、いきなり訪ねてきてごめん。美味しそうなケーキが売っていたから、一緒にどうかと思って」

「私達のは?」


 わたしが体勢を整えたのを見て、ジルが腕を離してくれる。あれ・・からもう二週間程になるけれど、体に不調はないようで安心してしまった。


「リーチェちゃんとメリドくんにもちゃんとあるよ。おじさんとおばさんにもね。これはみんなで食べてほしいのと……こっちは日持ちするお菓子だから、おじいちゃんとおばあちゃんに渡してくれる? いつものアップルパイのお礼」


 ジルは持っていた紙袋を二つ、リーチェに渡している。機嫌よくそれを受け取ったリーチェは、ありがとーと軽い調子でお礼を言うと、駆け足で階段を下りていってしまった。


「あの子ったら。みんなの分もありがとう」

「どういたしまして」


 改めて扉を大きく開きジルを自室に促すと、慣れた様子で入ってくる。昔からわたしの部屋で遊んだり勉強をしたりしていたのだから当然かもしれない。

 わたしもジルに部屋を見られて、恥ずかしいとは今更思わない。


「座って。お茶を用意してくるわ」

「飲み物も買ってきたんだ。コーヒーでいい?」

「ええ。ありがとう」


 何もすることがなくなってしまったわたしは、ローテーブルの前に座るジルの隣に腰を下ろす。ラグが敷いてあるしクッションもあるから、足が痛くなることはないだろう。


 ジルは紙袋から蓋のついた木製のカップを二つ取り出して、わたしと自分の前に並べてくれた。それからお皿とフォークも出してくれて、その表情は楽しそうに綻んでいる。


「楽しそうね?」

「んー? うん……急に訪ねてきても嫌がらないから、何だか嬉しくて」

「バカね、嫌がるわけないでしょ。来てくれて嬉しいもの」

「それならよかった」


 ジルは用意したお皿の上に、箱から出した色鮮やかなケーキを乗せてくれた。

 全体的にピンク色をしたそのケーキの断面はいくつもの層になっている。チョコレートのスポンジに、イチゴの香り立つピンクのムース、それから生クリームが綺麗に重ねられている。一番上にはまた色の違うベリーのような濃い色のクリーム。

 砕いたピスタチオが飾られている様は、まるでお花のように美しかった。


「綺麗なケーキね」

「でしょ。フィーネちゃんと一緒に食べたいなって思ってさ。さぁ、召し上がれ」

「いただきます」


 手を組み、恵みに感謝を捧げてからフォークを手にした。

 崩すのが勿体ないから、そうっと上の層だけを掬い取って口に運ぶ。


「んん、美味しい」


 一番上のクリームはやっぱりベリーだ。酸味が強いけれど、下のクリームやチョコレートのスポンジが甘いから、よく合っている。


「うん、美味しいね。期間限定らしいから、今度はお店に食べに行こうか」

「いいわね。楽しみにしてる」


 カップに乗せられた蓋をよけると、湯気が立ち上る。蓋の内側についた水滴が、コーヒーの中に落ちてしまった。

 カップを口に寄せて香りを楽しんでから、コーヒーを一口飲む。

 広がる酸味の奥に、ゆっくりと苦味が現れて……うん、美味しい。ケーキが甘いから、これくらいの苦味が美味しい。


「あのさ、バルシュさんのことなんだけど」


 ナンシーさんの名前に、思わず居住まいを正してしまう。座り直して、カップをテーブルへと置いた。


「田舎に嫁いだお姉さんのところに身を寄せるって。フィーネちゃんに手紙を預かっているけど……どうする?」

「読むわ」


 ジルが差し出す手紙を受け取ると、そこにはしっかりとした字で謝罪の言葉が綴られていた。



 わたし達が治療院に転移をして、ジルが治療を受けている間のこと。

 ナンシーさんは警邏隊に、自分がやったと告げたそうだ。傷害の罪で逮捕されるはずのナンシーさんを留めたのは、傷の癒えたジルだった。


 あれは魔力が暴発した事故であること。

 彼女が故意に傷付けようとしたわけではないこと。


 もちろんジルがそんな話を警邏隊の人にする前に、彼はわたしに相談をしてくれていた。わたしが法の下に裁く事を望むなら、そうすると口添えて。

 わたしは、ジルの言葉を受け入れた。


 怖くなかったわけじゃない。

 怒りがないわけじゃない。


 でも……自分の魔法で、想い人ジルを傷付けた彼女をただ恨むだけなんて出来なかった。

 それに故意ではないとしても人を傷付けた彼女には、決して軽くはない処罰が下った。


 魔導研究所は免職。魔法の使用が出来なくなる魔導具を装着され、監護人の元で一定の年数を過ごすことを義務付けられた。定期的に監護人と共に国の施設での面談を受ける事になるそうだ。


「……ナンシーさんは、どうしてあんなにジルに執着していたのかしら。恋心に理由を求めるのも、おかしいのかもしれないけれど」

「うん……それはね、本当にちょっとしたことだったと思うんだ」


 ジルはコーヒーを一口飲んでから、穏やかな声で話し始めた。


「彼女は魔法適性があって研究所で働く事になったんだけど、魔法を上手く使うことが出来なかったんだ。魔力の扱いがあまり上手じゃなくてね、それでひどく悩んでいたらしい。自分に自信を無くしてしまった時に、僕がアドバイスをしたみたいなんだ。……申し訳ないことに、僕はあまり覚えていないんだけど。後輩が悩んでいたら声を掛けていたから、きっとそのうちの一つだったんだろうね」


 ジルの声だけが響く、静かな部屋。階下でケーキにはしゃいでいるリーチェとメリドの笑い声が聞こえてくるけれど、ひどく遠い場所のように感じた。


「それで魔力を扱えるようになって……それから、かな。彼女が僕に好意を伝えてくるようになったのは」


 私はナンシーさんの言葉を思い出していた。


『私を見てくれたのはあの人だけ』


 彼女はわたしにそう言っていた。

 きっとジルが思う以上に、ジルの言葉は彼女を救ったんだと思った。


 どんな言葉だったのか、何に救われたのか。

 それを知っているのはナンシーさん以外にいないけれど……恋心に昇華されるくらいに、大切な出来事だったのだろう。


 ナンシーさんからの手紙に視線を落とす。

 手紙のすみには小さな字で、【お幸せに】と書いてあった。

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