35.薬と刺繍と、薔薇

 目の前の光景が、信じられなかった。

 信じたくなかった。


 目を塞いでしまいたい。

 また、わたしは繰り返すのか。


 青の長髪が風に舞う。

 雪の上に滴る赤い血。その滴りはあっという間に広がって、熱さで雪を溶かしている。


 わたしを庇った・・・その人の体から力が抜ける。膝をついたその背中は紛れもなく──


「……ジル?」


 震える声で名を呼ぶと、ゆっくりと彼が振り返った。


「無事で、良かった……」


 いつものように穏やかに笑うその頬からも、血が流れている。


「な、んで……いや……っ……」


 ナンシーさんがその場に崩れ落ちる。血の気の引いた顔は真っ白で、見開いた目でジルの事を見つめていた。


「う、っ……」


 ジルの低い呻き声にはっと我に返ったわたしは、ジルの前に膝をついて傷の状態を確認した。

 至るところが切り裂かれて血が溢れている。一番ひどいのが胸の傷で、流れる血がジルの白衣を真っ赤に染めていた。


「どうして……っ」


 涙が溢れて視界が滲む。コートのポケットから出したハンカチで胸の傷を押さえるけれど、ハンカチはあっという間に血に濡れてしまった。


「君が……危ない目に遭っているんじゃないかって、勘だったんだけど……っ。間違ってなかった……」

「バカ! それであんたが死んじゃったら、わたしはどうしたらいいの……!?」

「……フィーネちゃんが傷付くより、ずっといいよ」


 そう言って力無く笑ったジルは、わたしへと体を預けてきた。触れる肌が冷たい。出血が止まらないと、このままじゃ……。


 泣いている場合じゃない。

 まだジルは生きているんだから、出来る事がきっとあるはず。


 折れそうになる心を奮い立たせ、わたしは茫然としているナンシーさんへと目を向けた。


「ナンシーさん! 人を呼んできて!」

「あ……わ、たし……」

「早く!」


 怯えたように肩を跳ねさせるナンシーさんは、わたしとジルを交互に見て、それから立ち上がった。

 表通りへと駆け出して行くナンシーさんの足元は覚束ない。ショックを受けているのは彼女も一緒なのだろう。


 もしかしたらあのまま逃げてしまうかもしれない。でも……きっと大丈夫だと、そう思った。思うしかなかった。


「大丈夫……死なないよ」

「バカ、こんなに血が出てるのに何を言ってるのよ。一緒に居てくれるんでしょう? こんなところで死なないでよ……」


 ジルの背中を支えながら、胸の傷を強く抑える。使い物にならなくなったハンカチから血が滴っている。


「……一緒に、いるよ。だから泣かないで。……フィーネちゃん、僕の右ポケットから……っ、薬を取ってくれる?」


 浅く短い呼吸。額には汗が浮いているのに、ジルの体は冷えていくばかりだ。

 わたしは言われるままにポケットを探り、何かのメモに埋もれそうになっていた小瓶を取り出した。


 ジルは受け取ろうとするけれど、震える手ではそれも上手くいかないようだ。

 わたしは小瓶の栓をしていたコルクを抜いて、それをジルの唇に寄せた。ゆっくりと傾けていくと、噎せることなく飲めたようでほっとする。でも……これは一体?


 疑問を口にするよりも早く、ジルの体が青い光で包まれ始めた。

 暖かくて、優しい光。


「……もう、死ぬことは無いと思うけど……血を失いすぎてるから、治療院に行きたいな」

「いまのは……?」


 わたしに凭れていたジルがゆっくりと体を起こす。理解が追い付いていないわたしだけど、ジルの呼吸が先程よりもしっかりとしていることに気付いた。


「……しまった。飲めないって言って、薬を口移してもらえばよかった」

「バカ。そんなのいくらでもしてあげるわよ」

「大胆」


 あははと笑うジルが小憎らしいけれど、でも……死の気配が近付いている様子はない。これはあの薬のおかげなんだろうか。


「……本当に死なない?」

「うん。治療院にさえ行ければ大丈夫。……君の傍に居続けるために、君を安心させる為に、僕も色々やってきたんだ」

「……理解が追い付かないわ」


 わたしの言葉にジルが可笑しそうに肩を揺らす。

 ジルが死なないと分かったのに、涙は止まらない。悲しくてじゃない、安心してのものだから泣いてもいい。


「それに……フィーネちゃんのおかげだよ」

「わたし?」

「そう。君がくれた、あのハンカチのおかげ」


 ジルはそう言いながら、白衣の内ポケットから血染めのハンカチを取り出した。刃に貫かれたのか破れてしまっているけれど、それは間違いなくわたしの刺繍したハンカチだ。

 魔法布と魔法糸を使って刺繍したあのハンカチ。


「これが衝撃を和らげてくれたんだ。御伽噺で盾になったっていうのは間違いないみたいだね」

「……わたしのハンカチが?」

「そう。これがなかったら心臓を貫かれていたと思うよ」


 なんでもない事のようにさらっと紡がれるけれど、その恐ろしさに血の気が引いた。

 わたしはやっぱり、ジルを失うかもしれなかったのだ。


「だからフィーネちゃんのおかげ。……僕を守ってくれてありがとう」

「そんな、そんなの……わたし、の方がっ……守られて……!」


 わたしでもジルを守れたのだ。

 今回はあの悲劇を繰り返さなくて済んだ。それはもちろんわたしの力だけじゃないのは分かっているけれど……でも、それでも。


 運命を乗り越える事が出来たのだとしたら。


 嬉しくて、安心して、でも失うかもしれなかった恐怖が入り混じって。

 ごちゃまぜになった感情が行き場をなくして、わたしはただ泣く事しか出来なかった。


 ジルはそんなわたしをきつく抱き締めてくれた。

 首元にかかる吐息とか、髪が頬に当たる擽ったさとか、強くなる腕の力に、彼が生きていることを実感する。


「ごめん。フィーネちゃんにも血がべったり付けちゃった。でも離せそうにないんだ」

「いいわよ、別に。あんたが生きていてくれるなら、それでいい」

「可愛いこと言うんだから」


 そこでやっと気付いた。

 ジルの体が小さく震えていることに。わたしが震えているから、それだと思っていたけれど……。


「ねぇ、ジル? ……ジルも怖かった?」

「……怖かったよ。間に合わなかったら、君だって無事じゃなかっただろう? それに、僕が死んで、君を一人にするのも怖かった」


 間近な距離でわたしを見つめるジルは形の良い眉を下げ、困ったように笑っている。その紺碧の瞳は深く、わたしの事だけを捉えていた。


「必ず君を守り抜くって、誓ったんだ」

「……ジル」


 何かを伝えたいのに、うまく言葉がまとまらない。

 感情を言葉にすることがこんなにも難しいものだったなんて。


 だから、自分からもきつく抱き着いた。傷に障らないといいんだけど、なんて思っても離れることなんて出来なかった。


 ジルの首元に顔を埋めると、その白い肌に何かが浮かび上がっている事に気付いた。

 これは──薔薇?


 薔薇に見えなくない痣が、ぼんやりと浮き上がってきている。


「ジル、あなたやっぱり──」


 紡ぎかけた言葉は、裏路地に入ってくる人たちの声や足音に搔き消された。

 ナンシーさんが呼んだ人達らしく、警邏隊や治療隊の制服を着ている人達だった。


 彼らはあっという間にジルを担架に乗せると、わたしに側につくように指示をする。

 改めてジルの姿を見ると血だらけで、生きているのが不思議なほどだ。顔色も先程より悪いのは、やっぱり血を失いすぎているのだろう。


 ジルは死なないと言ったけれど、また不安がぶり返してくる。

 そんなわたしの様子に気付いたジルが手を握ってくれた。


「そんな顔しないで、フィーネちゃん」

「わたしが励ます方でしょ。あんたは怪我人なんだから」


 言いながら、わたしも強く手を握った。伝わる鼓動に安堵の息が漏れてしまう。

 

 治療隊の人が魔法を展開する光に包まれたと思ったら、わたし達は一瞬で治療院の中にいたのだった。

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