34.怖気立つ正体
だんだんと冬が深まっていくのが感じられる、ある日の午後だった。
道の端に積もった雪は、小さな山となって凍りついている。幼い子どもがそれに昇っては滑り降りる事を繰り返して、楽しそうな笑い声を響かせていた。
お得意先の貴族邸へ刺繍花を飾った帽子を届けた帰り道。
成人前のお嬢様が刺繍花を大層気に入って下さったとのことで、わたしに指名が入っての品物だった。
届けた先のお嬢様はこちらまで嬉しくなる程に喜んで下さって、わたしを見送る時もずっとかぶっていたほどだった。
そんな風に気持ちよく歩く道は、夕暮れの色に染まっている。
赤と金、それから夜の気配を纏った紫色が空や雲を染めていくのが美しい。あまりの美しさに空を見上げながら歩いていたら、不意に強い風が吹いた。
「あっ……!」
まるで意思を持っているかのように、わたしの首に巻いていたマフラーが解けてしまう。
マフラーは風に乗って、裏路地へと飛んで行く。それを追いかけて、わたしは走り出していた。
幸いにも路地を曲がってすぐのところにマフラーは落ちていた。
泥がついてしまったから、洗わないといけない。巻いて帰るにも憚られるから、寒さを我慢しなければならないようだ。
溜息をついた、その時だった。
──視線を感じた。
首の後ろが総毛だつような、ぞわぞわとする不快な感覚。この感覚には覚えがある。ジルと食事をしていた時にも感じた、あの──
背後で、足音がした。
勢いよく振り返った先にいたのは、ナンシーさんだった。
まさかこんなところで会うなんて思わなくて、少し怖い。
ナンシーさんは前回に会った時よりも、
肌は荒れ、目の下にはクマが濃い。乱れた髪には相変わらず、紺色のリボンが飾られている。
自分の見た目に気を遣わなくなったようにも見えるのに、そのリボンだけが鮮やかだった。
「私、ジル先輩に告白したんです」
急に言葉を紡がれて、声を掛けるタイミングを逃してしまった。
ナンシーさんはまっすぐにわたしを見つめていて、その視線は刺々しいなんてものじゃない。研ぎ澄まされた刃のよう。
間違いない。前に感じた視線は、ナンシーさんだ。
それに気付いたわたしは自分の意思とは関係なく、後退っていた。距離を取った分だけ、ナンシーさんが詰めてくる。
賑やかな通りの喧噪が、ひどく遠い。
「でも……『フィーネちゃんが好きだから』ってふられてしまって。やっぱり、あなたが居たら、ジル先輩は私の事を見てくれないんですよね……」
感情の乗らない声が恐ろしかった。
人の気配は全くしない。
いつもなら裏路地だってそれなりに人通りがあるはずなのに。まるで切り取られた世界の中に閉じ込められてしまったようだった。
「だからお願いです。消えてほしいんです」
ナンシーさんの周りに風が起きた。
そうだ、彼女も魔法適正があるのだ。ジルと同じ研究所の職員だもの、魔法を使えないわけがなかった。
ナンシーさんの生み出した風は、その肩あたりでくるくると回っている。その勢いは増していって、視認できるほどの竜巻が小さいながらも幾つも現れた。
「痛い思いはしたくないでしょう? あなたがジル先輩に近付かないと誓ってくれたら、それでいいんです。あなたは怪我をしないで済むし、私だって手を汚さないで済む。お互いにとって悪い話じゃないわ」
「……あなたは何を言っているの? ジルの気持ちなんて全部無視して、それでも……ジルが好きだって言えるの?」
「っ……偉そうに言わないでよ。あなたがいなくなれば、ジル先輩は私の事を見てくれる! あなたへの気持ちだってなくなって、私の事を好きになってくれる!」
泣き声にも似た叫びは空に消えていく。
身の危険を感じるけれど、それでも……ジルから離れるなんて言えるわけもなかった。
「わたしはジルと一緒にいる未来を諦めない」
ジルはわたしのことを選んでくれた。
わたしの前世、前々世のことを話しても、それでも傍に居てくれた。わたしの話を笑わなかった。
それなのにわたしが逃げるだなんて、出来るわけがない。
わたしだってジルの事が、好きなのだから。
「あなたが何をしようとも、わたしはジルの事が好き。離れたりなんてしない」
本当は、すごく怖い。
もしかしたら、これで死んでしまうのかもしれない。
恋を叶えて、やっぱり死んでしまうとしても──ジルを諦めるなんて出来なかった。
「……私が冗談でこんなことをしていると思っているの? 自分だけは傷付けられないってそんな風に思っているんでしょう!」
「そんなことはないけれど……」
「最初からあなたが嫌いだった! ジル先輩の隣に、当たり前の顔をして立っているあなたなんて消えてしまえばいいと思ってた!」
ナンシーさんの感情に呼応するように、竜巻の回転が激しくなる。風を切るような音が聞こえて、背筋が震えた。
どうにかして逃げないといけない。
ジルから離れないと告げたことに後悔はないけれど、それでも好んで怪我をしたいわけではない。
ゆっくりと一歩後ずさる。
背中を向けるのも怖いけれど、逃げ出さないと──そんな思いを読んだかのように、わたしの足元に向かって竜巻が飛んできた。
足元で弾けた風の刃がわたしのブーツを切り裂いている。
皮のブーツのおかげで怪我はしていないけれど、その風刃の鋭さに体が震えた。呼吸が浅く、短いものになっていく。
「今更逃げるなんて無いでしょう? 怪我をしたくないならジル先輩を諦めたらいいだけよ」
先程までの感情の昂ぶりが嘘のように静かな声だった。
その緑色の瞳は
「少し痛い目にあえば、ジル先輩を諦める気にもなるんじゃないかしら。ねぇ、そう思うでしょ?」
今すぐに逃げなければ。
そう思うのに足が動かない。
ナンシーさんが払うように手を動かす。
それに応えて幾つもの竜巻がわたしに向かって進んでくる。時間の流れがゆっくりと動いているかのようだった。
竜巻が弾けて、風の刃になるのが分かった。
あれで貫かれたり切り裂かれたら、きっと痛いだろうな。死んでしまうかもしれない。
ジルはきっと泣いてしまう。
その涙を拭いてあげられないことが悲しくて、前世のわたし──ルゼットのことを思い出していた。
壊れていくイヴァンの傍に寄り添っていたルゼット。わたしはまた、そんな恋人を見る事になってしまうのだろうか。
不意に、光が溢れた。
目の前に広がるのは青色、それから……赤が舞った。
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