33.願いを込めて
ドミニクさんはわたしの前に座るジルを誰だと問うわけでもなく、また、ジルも同じようににこやかな笑みを浮かべているだけだ。
紹介するべきなのか、どうしたらいいのか。
するとしたって、何と言ったらいいものなのか。
悩んでいるわたしを見かねたのか、ドミニクさんは店の外を指で示した。
「店の仲間と食事をしに来たんです。もう帰るところではありますが」
入口付近では何人かが談笑しているのが見える。遠目ではっきりとは見えないけれど、皆、酔いが回っているのか楽しそうだ。
「ではまた、お店で」
「はい。どうぞお気をつけて」
また会釈をして去っていくドミニクさんを見送って、ふぅと一息つけたのも束の間だった。
「誰?」
どことなくひりついた雰囲気に覚えがあるのは──そうだ、リーチェとジルが話をしていたあの時のよう。
そういえばリーチェはジルのことを何と言っていた?
『あの人……独占欲の塊みたいなもんだよ』
リーチェの言葉を思い出したら、ジルは穏やかに笑っているだけなのに、何だかそわそわしてしまう。
「お店に出入りしている、生地問屋の人よ」
「問屋……ああ、
ジルの前で生地問屋さんの話をしたことがあっただろうか。
内心で不思議に思いながらワイングラスを口に運ぶ。香りが飛んでしまっているけれど、やっぱり甘くて美味しい。
「前にリーチェちゃんが話していたよ」
「別にあの人とは何もないわよ」
「それは分かってる。君の一番傍にいたのは僕だから。それに……引き下がったみたいだし」
ドミニクさんが今もわたしに好意を持ってくれているか、推し量ることは出来ない。だからジルの言葉にも何と返事をしていいのか分からずに、わたしは薄く切られたバゲットを一つ取ってジルに渡した。
「温めてくれる?」
「喜んで」
そんないつものやり取りは、先程までのどこか緊張した空気ではなくなっていた。
それにほっとしながら、ジルが指先に炎を灯すのを見つめていた。
揺らめく炎は楽しそうに弾んでいるかのようにも見える。
パチパチと爆ぜるような音のせいかもしれない。
炎がバゲットの表面を撫でると、小麦の香りが強くなる。表面がきつね色に炙られて、もう見るからに美味しそう。
「はい、どうぞ。熱いから気を付けてね」
「ありがとう」
両手でバゲットを受け取ると、確かに熱い。
そのままずっと持っていられなくて、両手で何度も受け渡しをするようにして少し冷めるのを待った。
ジルはまた他のバゲットを炙り始めている。
バゲットをかじると外側はパリッと香ばしいのに、中はもっちりと柔らかい。
塩味の中に甘味も感じて、やっぱりバゲットは温めるのが美味しい。
半分ほど食べたバゲットに、今度はビーフシチューを少し乗せた。
零れそうだから思い切って全部を口の中に入れると、ジルが肩を揺らして笑いを堪えているのが見える。
間違いなくわたしの食べ方だろう。お行儀の悪いことは分かっているけれど、ジル以外には見ていない。はしたないと眉を顰めるほど大きな口ではなかったはずだ。
「美味しそうに食べるよね、本当に」
「すっごく美味しい」
ジルの声に咎める色はない。
それどころか真似するようにバゲットにビーフシチューを乗せて、大きい口で食べている。うんうん、と頷いているのは美味しさを実感しているのだろう。
見ればジルは籠の中のバゲット全てを温めてくれていたようで、湯気が立ち上っている。
こんがりと炙られたそれはやっぱり美味しそうで、わたしがもう一枚と手を伸ばしたのも仕方のない事だった。
今日のデザートは葡萄のタルトにした。
緑色、紫色、赤色。大きさや色も様々な葡萄が、小さな丸いタルトカップの中に積み上げられているのは何とも可愛らしい。
「美味しそう。ジルはデザートいらないの?」
「うん、今日はワインの気分だから」
ジルはそう言うと、お代わりをしたワイングラスを掲げて見せる。
お店の照明できらきらと輝く透明感のある黄色がとても綺麗。
「そうだ、大事なことを忘れるところだったわ」
「ん?」
わたしはフォークに刺したマスカットを口に運んでから、バッグの中から薄い手の平サイズの包みを取り出した。
差し出した包みを受け取ったジルは、丁寧に包装紙を剥がしていく。
中から現れたのはハンカチだ。わたしが魔法布と魔法糸を使って全面に刺繍をしたものだから、日常遣いにするには難しいかもしれない。
「僕のあげた魔法布と、糸だよね? こんなに複雑な刺繍……すごく綺麗だ」
「御伽噺に出てくるような古い図案なんだけど……女神様の加護が宿るっていう刺繍なの。旅人の無事を願って刺繍された布は、旅人を危険から守ったって。……別にジルがどこかに旅に出るとか、そういうんじゃないのよ。えぇと……ほら、前に話した、わたしの……前世の話が関わってくるんだけど」
「うん、ちゃんと覚えてる。……そっか、僕が危険な目に遭わないようにって、これを用意してくれたんだね?」
「効果があるかは分からないんだけど……」
刺繍を指でなぞるジルの表情は、とても優しくて嬉しそうだった。
それを見てほっとしてしまったわたしは、またフォークを手にしてタルトに取り掛かった。
タルトにナイフを入れると、思っていたよりも生地が軽くて簡単にナイフが入ってしまった。中に詰まっていたのは、たっぷりのカスタードクリーム。一口大に切り分けたそれに赤い葡萄を乗せて口に運ぶ。
カスタードの甘みと、葡萄の酸味がとてもよく合っている。生地は水分を含んでいるからかしっとりとしていて食べやすい。
「おばあちゃんが刺してみた時は何も起こらなかったんですって。でもジルの魔法布と魔法糸で刺してみたらどうなるだろうって思って、やってみたの。……何か感じるものとかある?」
「あるよ。これは……魔導回路だ」
ジルの指先が淡く光る。その白い光が刺繍に触れると、ハンカチ自体が穏やかな光を放つかのように輝き始めた。
わたしが目を丸くしていると、その様子が可笑しかったのかジルが低く笑う。
「糸は解かないし大事にするから、調べさせてもらっていい? なんの魔法式なのか興味があるんだ」
「もちろん。守ってくれるような効果があればいいんだけど」
「僕の為に刺繍してくれたんだね。ありがとう、フィーネちゃん」
わたしはテーブルに身を乗り出して、ハンカチを持つジルの手を両手で握った。
伝わる温もりが愛しくて、切なくて。失いたくないと心から思った。
「ジルと一緒にいたいの。これからも、ずっと。だから……お願い、気を付けてね」
「それはフィーネちゃんもだよ。危ないところには近付かないように」
「分かってる」
ジルもわたしの手を握り返してくれて、指が絡まる。
紺碧の瞳が熱を帯びたように濃くなって、わたしだけが映っていた。
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