32.食事と視線

 新作ドレスの注文もやっと落ち着いて、残業をしなくても回るようになってきた。

 売上もなかなか好調なようで、【アムネシア】の全従業員に臨時手当が出たほどだった。


 街を歩けば、腰から大きく膨らんで落ちる、特徴的なスカートを纏う女性が多く見ることが出来る。貴族も平民も関係なく、愛されるデザインになっているのだと実感する。それが嬉しくて、誇らしい。

 そんなドレスやワンピースに飾られるのは、わたしの作る刺繍花。見かける度にいつもよりも胸を張って、背筋を伸ばして歩いてしまう。



 そんなある日の、夜。

 やっと都合をあわせる事が出来て、ジルと食事に行くことになった。


 仕事の合間に編んでいたマフラーも完成して、包んで紙袋に入れてある。黒から紺、そして青色に変わるグラデーションがきっとジルに似合うと思って選んだ色だ。

 

 喜んでくれるだろうジルの顔を思い浮かべるだけで、胸が弾む。


 身支度を済ませたわたしは、最後に姿見を確認した。

 緩く巻いた髪を編みこんでからシニヨンにまとめ、耳には細い金鎖から花が揺れるピアスを飾った。

 化粧をした顔の、ほくろはもう隠れていない。

 黒いコートは暖かいのに軽くって、去年から重宝しているものだ。それにわたしの瞳のような濃いピンクのマフラーを巻いた。


 よし。

 バッグと紙袋を手に、わたしは部屋を後にした。



 エントランスではリーチェに揶揄からかわれ、紙袋の中を追及される。何が入っているかなんて、知っているはずなのに。

 それを軽く流してから家を出ると、外灯台のそばでジルが待っていてくれた。


「お疲れさま、フィーネちゃん」

「ジルもお疲れさま。入ってきたらよかったのに」

「こうやってフィーネちゃんを待っているのが好きだから。今日も可愛いね」

「……ありがとう」


 気持ちを重ねてからというもの、ジルは事あるごとにこんな言葉を口にする。その前からも褒めてくれたり、ちょっとした変化に気付いてくれる男ではあったけれど……なんだか恥ずかしくなってしまうのも仕方がない。

 嬉しいけれど。


「ねぇ、今年はマフラーを編んだんだけど使ってくれる?」

「やった。いま巻いてるのも暖かくて好きなんだけど、僕の為に編んでくれたなんて嬉しいな」

「今のもわたしが編んだやつでしょ」

「フィーネちゃんが編んでくれるのが暖かすぎて、他を買う気がなくなるんだよね。僕に似合うものを知っているのは、君だしさ」

「そう言ってくれるのは嬉しいわね」


 歩きながら紙袋を手渡すと、早速中を確認してくれる。

 お行儀が悪いけど、なんて笑いながら器用に包みも開けていくと、その笑みが嬉しそうに深まった。


「綺麗な色だ。ありがとう、フィーネちゃん。大事にする」

「どういたしまして」


 ジルはその言葉通り、大事にしてくれると知っている。

 喜んでくれると分かってはいたけれど、実際にこうやって喜ぶ顔を見れるのは嬉しいものだ。


 新しいマフラーを腕に掛け、いま使っていたものを畳んで紙袋にしまっていくから、その袋は一旦わたしが預かることにした。ジルはありがとうと言いながら、新しいマフラーを首に巻いては嬉しそうにまた笑った。


「暖かい」


 マフラーに顔を埋めるその様子に笑いながら、わたし達は運河通りへと足を進めた。


 積もった雪が踏み固められて、氷のように磨かれている。

 お店の明かりや光飾りを反射して、まるで水鏡のよう。美しい光景に、また胸が弾んだ。



 今日は中で食べることにして、以前に牡蠣と蕪のソテーを買ったお店を選んだ。

 相変わらず外にも沢山のテーブルが並んでいて、それなりに外で食べる人がいるけれど、今日はちょっと厳しいくらいの寒さだったからだ。


 オレンジ色の明かりが灯された店内には、ピアノの音色が流れている。

 ピアニストの女性が鍵盤を撫でるように音を奏でる様は、見ていてとても美しい。


「お待たせしました」


 わたし達のテーブルの横に、ウェイターがワゴンをつける。

 注文した料理とワインでテーブルが満たされて、美味しそう、と声が漏れたのも仕方がない事だと思う。ジルは笑いを噛み殺していたけれど。


 注文したのはビーフシチュー、牡蠣のグラタン、海老と温野菜のサラダ。ビーフシチューにはバゲットがついているから、あとでジルに温めてもらおう。


 わたし達は白ワインで満たされたグラスを掲げて乾杯をした。

 一口飲んで、その甘さに驚いてしまった。葡萄そのもののような甘みがあるけれど、ちっともしつこくない。余韻は爽やかで、これは簡単にグラスを空けてしまいそうだから気を付けて飲んだ方がいいかもしれない。


「美味しいね、このワイン」

「ええ、とっても。でも飲みすぎちゃいそうで怖いわ」

「酔っぱらっても送るから大丈夫だよ」

「ジルも酔っぱらうかもしれないじゃない?」

「そうならない為のこれ・・でしょ」


 シガレットケースをテーブルに置いたジルは、またグラスを傾けてワインを味わっている。

 確かにジルが歩けないほどに酔っぱらった姿なんて見たことはないから、まぁいいかとわたしもまたグラスを口に運んだ。


 両手を組み、恵みに感謝の祈りを捧げる。

 それからフォークを手にしたわたしは、まずは牡蠣のグラタンを頂くことにした。


 牡蠣の殻が器になっていて、なんだかそれだけで美味しそうに見えるのだから不思議なものだ。

 熱いのかと恐る恐る牡蠣の殻に触れると、やっぱり熱くて肩が跳ねた。


 殻の端っこを指先で摘んで……うん、これなら大丈夫。


 グラタンに入れたフォークが、サクっと軽い音を立ててチーズの中に沈んでいく。チーズとホワイトソース、それから大振りの牡蠣を掬うと湯気が立っている。

 すぐに口に入れたい衝動を堪えて吹き冷ますけれど、我慢できずに口に運ぶ。思った以上に熱くってじわりと涙が滲んできた。


「……大丈夫?」


 ジルが心配そうな声を出すけれど、その唇は弧を描いている。

 返事も出来なくて熱い吐息を逃がしてから、ようやく咀嚼して飲み込むことが出来た。


「これ、すっごく熱い」

「見たら分かるよ。美味しいものを我慢できないところも可愛いけどさ、火傷しちゃうよ」

「でも美味しいから、ジルも熱いうちに食べるべきだと思うわ」

「君、懲りてないでしょ」


 可笑しそうにジルが肩を揺らすから、わたしも笑ってしまった。

 熱い口を冷まそうとワインを口に運んで、ふぅと一息つくことが出来た。


 ジルは海老と温野菜のサラダを食べている。

 色鮮やかな大きな海老と、芽キャベツにカリフラワー、それからにんじん。


 わたしもサラダを食べようとした時だった。


 首筋がざわつく感覚。

 周囲を見回しても何もない。でも──誰かに見られている気がする。


 ジルも周りに視線を向けているから、わたしの勘違いではなさそうだ。

 何かは分からないけれど、気持ちのいいものではなかった。


「ねぇジル……いま──」

「──フィーネさん?」


 掛けられた声に後ろを振り向くと、テーブル間の通路で足を止めている人がいる。

 薄茶の目元は赤く染まっていて、お酒を楽しんでいるようだ。


「ドミニクさん」


 ドミニクさんはわたしの向かいに座っているジルに目を向けて、眉を下げて会釈をした。

 なんとなく気まずくてジルの方をそっと伺うと、にっこりと笑って会釈を返していた。

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