30.雪の中、甘い声
お互いの距離がなくなって、伝わる温もりが同化して、鼓動さえも溶け合うような錯覚を覚えた頃。
ゆっくりと体を離したわたしは、間近に感じる優しい視線が気恥ずかしくて、持ったままのカップに目線を落とした。
口に運ぶと程よい温度に冷めたそれは、酒精の混じる湯気が立っていないからか飲みやすくなっている。
「正直、あと何十年も待つつもりだったから、嬉しいな」
ジルの声が弾んでいる。
実際、このまま恋心を無かったことにしていたら、ジルの想いに応えられるのはそれくらい先になっていたかもしれない。
「ねぇ、でも……いいの? わたしと一緒に居たら、死んでしまうかもしれないのよ?」
「分かってる。ああ、勘違いしないでほしいのは、君の言葉を疑っているわけじゃないってこと。それでも僕はフィーネちゃんと一緒に居たいし、君のことも自分のことも守ろうってそう思っているんだ」
その言葉に嘘偽りはないように思えた。
わたしの言葉を彼は笑い飛ばさなかった。ただの夢だと流さなかった。それが、嬉しい。
だからこそ、気になっていることもある。
わたしはワインを一口飲んでから、ジルに向かって体を向けるよう座り直した。
「あのね、ジルに聞きたいことがあったの」
「なに?」
「ジルは……ノクスとイヴァン、二人の記憶がある?」
胸が苦しくなるのは、ジルの答えが怖いから。
肯定されても否定されても、どちらも怖い。
彼が記憶を持っているのなら、またあの運命を繰り返してしまうのかもしれない。でも違ったら? わたしは彼のことを自分の運命に巻き込んでしまうのではないだろうか。
「……内緒」
「ええ?」
帰ってきたのはどちらでもない、曖昧な言葉。
長い人差し指を口元に添えたジルは悪戯に笑っている。
「僕がどちらを答えても、君は不安になるだろう?」
「そう、だけど……」
「それにもし僕に記憶があったとして、記憶に引き摺られるようにして君を好きになったと思われても困るしね。僕はそういうのに関係なく、フィーネ・レングナーに恋をしたから」
「……ジルの言葉が甘すぎるわ」
「あはは、慣れて貰うしかないかな」
わざとらしく睨んで見せても、気にした様子もなく、ジルは肩を竦めて見せる。
ワインを飲み干してしまったジルは、そのカップを紙袋に入れて、コートの胸ポケットからシガレットケースを取り出した。
ちょっとごめん、と断りを入れてから煙草を取り出すその指先が好きだ。
火が灯される時の軌跡や、煙草の火が強くなって赤く燃えるのも綺麗だと思う。
吐息のような紫煙がゆっくりと、ミントの香りを残して消えていく。
わたしの言葉は曖昧に流されてしまったけれど、それも彼の優しさだ。
好きになった人は、ジル・アーレント。それでいいのだ。
……なんて思いながら、わたしの視線はジルの首元へと向けられていた。
わたしにマフラーを貸しているから、首筋が露わになってしまっている。非常に寒そうだから、そろそろ返した方がいいだろう。
わたしはすっかりと暖まったから。
そんなわたしの考えを読んでいたのか、わたしがマフラーに手を掛けた時点で、その手がジルに捕まってしまう。
「いいから巻いていて。忙しい時期なんだから、体を冷やしちゃだめでしょ」
「でもジルが……」
「寒くないから大丈夫。触ってみる?」
「結構です」
捕まった手がジルの首元に引き寄せられる。
指先に触れる首筋は確かに暖かく、冷えたわたしの指先がじんじんとしてくるほどだった。
そういえば、ノクスの首には薔薇の刺青があった。イヴァンの首筋にはそれを焼き付けたかのような痣があった。
でもジルの首には何もない。白い肌にどこかほっとしてしまったのは、前世の名残が無かったからかもしれない。
手を下ろしたわたしは、カップを両手で包み込んだ。
ジルの肩に頭を預けて寄り掛かると、ミントが強く香ってくる。それを胸いっぱいに吸い込んでから、ゆっくりと息を吐いた。
ジルは携帯灰皿で煙草の火を消して、それからわたしの肩を抱き寄せてくれた。
ぴったりとはまる感覚が心地よいなんて、わたしも現金なものだ。
「……ご飯を食べに行きたいわ」
「いいね。でも今は忙しいでしょ? 落ち着いたら美味しいものを食べに行こうか」
「ジルは何が食べたい?」
「君となら何でも美味しいから、困るな」
「またそういう事ばかり言うんだから。こんなに甘い人だった?」
「だから慣れて貰うしかないんだって」
可笑しそうに笑ったジルは、肩を抱く腕に力を込めてわたしの事を引き寄せる。もちろんわたしも抗うつもりはなく、体を寄せるけれど鼓動がひどく騒がしい。
この心臓の音が大きすぎて、ジルに聞こえてしまうんじゃないだろうか。
わたしの心配もお構いなしで、ジルはわたしの髪に頬を擦り寄せては機嫌よさげに笑っている。
蕩けるような甘さを孕んだ瞳に、胸の奥が切なくなって、少し苦しい。でもこの苦しささえ心地よいのだから、わたしはどうかしてしまったのかもしれない。
「もう我慢しなくていいと思うと、堪えられなくて。可愛くて仕方がないんだ、フィーネちゃんのことが」
「……バカじゃないの」
「バカでもいいよ。そういう事を言っちゃうのも可愛いから」
「我慢強いんじゃなかったの?」
「そうだよ。小さい時に君に恋をして、それからずっと告げずに傍に居たんだから、充分我慢強いでしょ」
何と言っていいか分からずに黙り込むと、ジルはわたしの目元に唇を寄せる。優しい温もりに心臓が破裂してしまいそう。恥ずかしいのに、嫌じゃない。
顔に熱が集うことを自覚しながら、わたしはすっかり冷めてしまったワインを口に運んだ。
「好きだよ、フィーネちゃん」
「……知ってるわ」
「君が知っている以上に、好きだよ」
紺碧の瞳が真っ直ぐにわたしを見つめている。
わたしも、と言えたらいいのに、まだそれはちょっと恥ずかしい。
わたしはワインを一気に飲み干すとそのカップをベンチの端に置き、両手をジルの腰に回して抱き着いた。
言葉で伝えられない代わりに、少しでも気持ちが伝わる事を願いながら。
そんなわたしの狡さを拒むでもなく、ジルも両腕を回して抱き締めてくれる。
それが嬉しくて、苦しくて、切なくて──愛しかった。
ジルの肩越しに見た空からは、雪が降っている。
はらはら舞うその雪は、わたし達だけの世界を作ってくれているようだった。
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