29.弾ける切なさ
夜、わたしは自室の机に向かっていた。
押し花の使われた便箋に、ペンを近づけては何も書けないで手が止まる。ペン先が渇いてしまって、何度インクに浸したことだろう。
自嘲の溜息をついたわたしは、意を決して文字を
『会える?』
これだけを書いた便箋を折り畳み、いつもは使わないけれど今日は封筒に入れた。そこにジルの名前を書いて、差出人にはわたしの名前を記していく。
ジルに手紙を送るのは初めてじゃないのに、何だか無性にドキドキするのは……気持ちを伝えようとしているからかもしれない。
震える手で送受信箱に手紙を置く。
もう何度も繰り返した操作だ。間違える事もない。あっという間に光に包まれたその手紙は、ジルの元へと送られていった。
今日は返事が来ないかもしれない。
いや、もしかしたら今日どころか……ずっと来なかったらどうしよう。
ジルが気持ちを伝えてくれたあの日、逃げるように帰ってきてしまってから連絡もしていないのだ。嫌われていてもおかしくない。呆れられていたってしょうがない。
そわそわする気持ちを押し込めつつ送受信箱を見つめるも、いつもならすぐに返事がくるはずのそれはちっとも光る気配が無かった。
「……出掛けているかもしれない。それか、もう眠っているかも。明日になれば返事が来るかもしれないし……」
落ち込みそうになる気持ちを、自分で励ましながらわたしは部屋の中をうろうろと歩き回っていた。
こんな事をしていたって仕方がない。刺繍でもして気を紛らせよう。そう思ったわたしは刺繍道具一式が入った籠をローテーブルに置いて、そこで作業をする事にした。
──コツン
作業を始めて暫くが経った頃。そんなに長い間でもないけれど、短い時間でも無かったと思う。
音が、響いた。
窓を揺らす小さな音。
それに気付いたわたしは、もしかしてと思いながら窓へと近付いた。大きく窓を開くと冷たい風が頬を刺してくるようだった。
「……ジル」
家の前の通り、外灯台の側でジルが大きく手を振っている。
その表情はいつものように穏やかで、わたしの好きな柔らかな笑みを浮かべていた。
わたしは窓を閉めるとコートだけを掴んで部屋を飛び出した。
階段を下りた先で母に行き合ったから、「出掛けてくる」とだけ伝えて外に出る。後ろで母が何かを言っていたけれど、鼓動が喧しくて耳に入ってこなかった。
コートに腕を通しながら待ってくれていたジルの元に駆け寄ると、首にマフラーを掛けられる。ジルが身に着けていたそれは暖かくて、それだけで泣けてしまいそうだった。
「コートだけだと寒いでしょ」
「……ジルが風邪を引いちゃうわ」
「風邪を引いたらフィーネちゃんに看病してもらうからいいんだ」
「……バカなんだから」
わたしの悪態にも軽く笑ったジルは、わたしの手を引いて歩き出す。お互い手袋をしていないから、温もりが直接伝わってきて、わたしからもぎゅっと強く手を握った。
ジルは何も言わなかった。
馴染みの公園には、相変わらず誰もいない。
こんな夜にわざわざ暗い公園に来る人もいないのだろう。薄く積もった雪の上に刻まれるのは、わたし達の足跡だけだ。
雪を払ったベンチに座ると、ジルが持っていた紙袋から木製のカップを取り出してくれる。前にわたしが落ち込んでいた時も、こうして温かいものを用意してくれたっけ。
差し出されたカップからはお酒の匂いがした。
「急いで温めたから、熱すぎたらごめんね」
「ううん、ありがとう」
両手でカップを包むと、じんわりと熱が伝わってくる。悴んでいた指先にも熱が灯るようだ。
「いつ会えるか聞くつもりだったんだけど、どうやって手紙を書いたらいいか分からなくなっちゃって。急かしちゃったわね」
「フィーネちゃんが会いたいって思ってくれたら、僕はいつだって飛んでいくからいいんだよ」
会わない時間が続いていたのに、ジルは何も変わらなかった。
避けていたわたしを責める様子もない。その優しさが少し切ない。
「……避けていてごめんなさい。それなのに急に呼び出したり、我儘だって分かってる」
「僕がそれだけの事をしたからでしょ。でも後悔はしていないから、怒ってくれてもいいよ」
カップに満たされているのは温められた赤ワイン。まだ熱いそれをふぅふぅと吹き冷まして口に運ぶも、強い酒精を一気に吸い込んでしまって噎せてしまった。
背を撫でてくれたジルも、カップを口に運んで同じように噎せこんでいるものだから笑ってしまった。
「怒るのはジルの方よ。わたしが我儘だって、怒らないの?」
「僕はそんなフィーネちゃんも好きだから」
はっきりと紡がれる想いは、前回の時と変わらない。
わたしの鼓動が跳ねるのも、あの時と同じだ。
「……わたしね、ジルに話さなきゃいけない事があるの」
「うん」
「バカげてるって笑ってもいい。信じてくれなくてもいい。でも……聞いてくれる?」
「もちろん」
どこまでも優しい声に、少しほっとしながらわたしはまたカップを口に運んだ。もう噎せこむ事はなかった。
それからわたしは──前世、それから前々世の記憶がある事を話していった。
そのどれもが、恋を叶えて死んでしまったという事を。
自分が死ぬのも怖い。でも……恋人が死んでしまう事も恐ろしい。
わたしのせいで好きな人が壊れてしまうのを見るのは辛い。
そんな記憶があったから、誰とも恋をしないと決めていた──そんな話を、ジルは時折相槌を打ちながら聞いてくれた。
笑う事もなく、口を挟む事もなく、ただ静かに。
「一人で怯えて、ジルの気持ちを受け入れなくてごめんなさい」
「謝る事じゃないよ。話すのに勇気がいっただろうに、伝えてくれてありがとう。僕はずっと君の事が好きだったんだ、これからだって好きでいるよ。君が絆されてくれるまで、死ぬ間際まで待っていられる」
ジルはそう言って笑うと、わたしの頬を手の平で包み込んだ。目元を親指の腹で撫でる仕草が擽ったいけど嫌ではなかった。
「わたし、ジルの事が好きよ」
口に出すと、胸の奥にあった切なさがぱあっと弾けて消えていった。
紡いだ想いにジルが紺碧の瞳を瞬かせたのも一瞬で、嬉しそうに笑うものだから、わたしもつられるように笑ってしまった。
ゆっくりと降り落ちる、花弁みたいな雪が気にならないのは、彼の腕に抱き締められていたからかもしれない。
そこは冬だと言うのも忘れるくらいに、暖かな場所だった。
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