28.緑色の敵意
ジルへの恋心を認めたあの夜から数日、わたしはまだ彼に連絡をする事が出来ないでいた。
忙しいといえば忙しい。新しいドレスの注文が毎日のように入るから、刺繍花は作った端から消えていく。夜も残業をする事が多いけれど、これも今の時期だけだと納得している。
でも、ジルに連絡が出来ない程に忙しいわけでもない。……一歩を踏み出す事が出来ていないだけなのだ。
気持ちを伝えるなら手紙じゃなくて直接がいいとか、顔を見て言いたいだとか、色々な理由を付けているけれど……ただ単純に、自分が弱いだけだと分かっている。
今日こそは、今日の夜こそはジルに連絡しよう。
手紙を送って、いつ会えるか聞いてみよう。
そう心に誓ったわたしは──ほくろをお化粧で隠す事をやめた。
誰も気付かないだろう小さな事だけれど、前世と前々世を受け入れるというわたしの決意だったりする。
そんな思いを胸に仕事に励んでいたのだけど……お昼休みになって、わたしへの来客があった。
来客、と聞いて嫌な予感がしたのも仕方がない事だと思う。リーチェが取り次いでくれたその人はやっぱり──ナンシーさんだった。
前回と同じく家の庭の方へ案内しながら、彼女に感じる違和感に首を傾げていた。
いつもと同じように可愛らしいけど、何かが違う。
「すみません、お時間を頂いてしまって」
「いえ、大丈夫です。それで……今日はどうしました?」
相変わらず紺色リボンの飾られた黒髪が、風を受けてふわふわと揺れている。
ナンシーさんはわたしを真っ直ぐに見つめながら口を開いた。その視線には相変わらずの敵意が宿っていた。
「私、ジル先輩が好きなんです」
「……知っているわ」
心のままに想いを口に出来る彼女は、やっぱり眩しい。
「お願いだからジル先輩から離れて下さい。いま、ジル先輩と会っていないでしょう? そのまま……ジル先輩の前から消えてほしい」
「どうしてジルに会っていないって知っているの?」
「それは……」
疑問を口にしたら、彼女は口ごもってしまう。何か後ろめたい事があるのかと、それ以上追及する気にはならなかった。
彼女にもわたしの気持ちを告げよう。もう、逃げないと。
「……わたしね、ジルが好きなの」
「な、っ……! だって、恋はしないって……」
「そうね。そのつもりだった。でも……ジルの事が好きだって、認めてしまったの」
わたしの言葉に、ナンシーさんは目を吊り上げて怒っている。そこで違和感の正体に気付いた。
彼女が以前会った時よりも、窶れているような気がするのだ。艶々だった唇は乾燥しているし、目の下にはお化粧で隠れていないクマがうっすらと見えている。
「今更何なのよ! あなたなんかより私の方がジル先輩の事を好きなんだから!」
悲鳴のような高い声が庭に響く。庭に面したリビングの窓から、心配そうにリーチェが覗いているのが見えた。
「私にはジル先輩しかいないの」
ナンシーさんの瞳から光が消えていく。敵意の色も消え、残っているのはただ虚ろな緑色。ぞくりと背筋が震えた。
「私を見てくれたのはあの人だけ」
悲痛な声が風に消える。
いつの間に降り出したのか、視界に雪が混ざっている。風に流される雪の向こうで、ナンシーさんはわたしの事を見つめていた。
「あなたには他にもいっぱいいるじゃない。ジル先輩じゃなくてもいいでしょう? ……お願いだから取らないで」
頷く事なんて出来なかった。
わたしはナンシーさんから目を離さずに、首を横に振った。開いた口から立ち上るのは白い吐息。
「わたしもね、ジルじゃないとだめなの」
それがわたしの本心だった。
支えてくれて、いつも一緒に居てくれて、わたしの事を見守ってくれた彼に惹かれていた。その心を認めてあげるまでに随分と時間が掛かってしまったけれど、もう誤魔化す事なんて出来なかった。
わたしの言葉を聞いたナンシーさんの瞳に敵意が戻った。色を濃くした緑の瞳はどことなくぎらついているようで、その視線に射抜かれたわたしは思わず後ずさってしまう。
「そんなの許さない。あなたにジル先輩は渡さない」
刃のように鋭い声だった。
体が動かなくて、何も言葉を返せない。
そんなわたしを一瞥して、ナンシーさんは踵を返して立ち去っていった。
その背中を見つめる事しか出来なかったわたしは、彼女の姿が見えなくなって、ようやくと深い息を吐き出した。
自分で思うよりも緊張していたらしい。震える手を誤魔化すように、ぎゅっと拳を握り締めた。
「……お姉ちゃん」
おずおずと掛けられた声に振り返ると、困ったような顔をしたリーチェが立っていた。頭に積もった雪を払いながら笑って見せるも、上手く笑えていたかは分からない。
「……大丈夫?」
「ええ。……驚かせちゃったわね。中にまで声が聞こえていたでしょう」
「うん。あの人……ジル兄ぃの事が好きなんだね」
わたしとリーチェは家へ入るべく足を進めた。
積もり始めた雪が足元を濡らしている。このまま降り続けるのだろうか。溶けてしまうなら、夜には寒さで凍ってしまうだろう。
「そう。前にも『ジルに近付かないで』って釘を刺されていたんだけど……何だか今日は様子が違ったわ。追い詰められているのかもしれない」
「ジル兄ぃに伝えた方がいいよ。……あの人、怖かったから。お姉ちゃんが刺されそうで嫌だな、私」
リーチェの言葉に、前世までの事が思い浮かんで苦笑いが漏れてしまう。
安心させるようにその頭を撫でるも、妹の表情は晴れなかった。
家に入ってエントランスで雪を払うと、指先が悴んでいる事に気付いた。随分寒くなっていたらしい。
「心配してくれてありがとう。わたしも色恋沙汰で事件になるのは嫌だから、充分に気を付けるつもり。もう来ないと思うけれど……もしまたあの人が来たら、わたしは留守にしているって言って貰おうかしら」
「その方がいいよ。それから、一人で出歩かないでね。お遣いとかは私が行くから」
「ありがとう。さ、お昼ご飯を食べちゃいましょ。リーチェもまだ食べていないんでしょ?」
食堂の方からはいい匂いが誘っている。
今日はとうもろこしのポタージュがあるはずだ。祖母が来てくれていて、朝からキッチンで忙しそうにしていた。
リーチェも気持ちを切り替えたように、笑みを浮かべながら大きく頷いている。
「そういえば……ほくろ、隠すのやめたんだね」
「え? 気付いていたの?」
「そのほくろに憧れていたんだもん、わたし」
「そんなの初めて聞いたわ」
「ね、次のシーズンは付けほくろを流行らせようか。お姉ちゃんのほくろを見ていたら、やっぱり素敵だなぁって思っちゃった」
そういう妹の顔は、デザインを考えている時の母の顔によく似ていた。
なんとなく目元のほくろを撫でながら、ジルも気付いてくれるだろうかと、そんな事を思っていた。
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