24.幸せの在り方

 リンゴを食べて、ついでにワインも一口飲んで。

 それから顔を上げると、ジルの傍には今日も青いリボンが可愛らしいナンシーさんが居るのが見えた。

 そのナンシーさんの腕を引っ張っている女性はわたしと目が合うと、申し訳なさげに頭を下げてくれている。とりあえずその女性に会釈をした。


「ね、ジル先輩! ナンシーも一緒にいいでしょう?」

「だめだよ」


 ジルは表情を崩す事もなく、ワインを飲んでいる。ナンシーさんに目を向けないその様子から、わたしはジルが苛立っているのを感じ取った。長い付き合いだから分かるんだけれど。


 ナンシーさんはそんなジルの様子も気にせずに、にこにこと笑っている。酔っているのだろうか、少し頬が赤くなっている気がする。


「折角のフィーネちゃんとの時間なんだから、邪魔しないでほしいんだ」

「ほら、行くよ。すみません、お邪魔しちゃって……!」


 ジルの声に、女性は先程までよりも強くナンシーさんの事を引っ張っている。しかしナンシーさんはその場から動こうとしない。


「……レングナーさん、こないだの話ですけど考えてくれました?」


 少し声が低くなった。

 笑みを浮かべているのに、わたしを見つめるナンシーさんの緑瞳は鋭さを帯びているようだ。


「ジル先輩に伝えること、ありますよね?」


 先日、わざわざ【アムネシア】に来た時の、あの件だろう。

 ジルから離れるように、ジルは他の誰かと幸せになるべきだと言うように……ナンシーさんはそれをわたしに望んでいた。


 耳が痛かったし、その通りだと思うところだってあった。

 でもそれは、わたしとジルの問題なんじゃないだろうか。だから──


「……ないわ」


 そう、答えた。

 

「はぁ!?」


 わたしの答えに納得がいかないとばかりに、ナンシーさんが声を荒げた。先程まで浮かんでいた笑みも消え、眉間に皺を寄せてわたしの事を睨んでいる。


「私があんなにお願いしたのに! いつまでそうやって付きまとうつもりなんですか!」


 ナンシーさんがテーブルをドン、と拳で叩く。その衝撃でテーブル上のお皿が揺れて、倒れそうになったグラスを何とか両手で受け止めた。


「……待って。僕の居ないところでフィーネちゃんに会ったの? いつ?」

「あっ……私、レングナーさんにお話があって……それで……」

「お店に来たのよ。休憩時間だったからいいんだけど」

「いや、良くないよね」


 鳥肌が立った。

 空気がひりつくような、不穏な雰囲気。それを醸し出しているのは目の前に座るジルだった。


 ナンシーさんも、その腕を引く女性も顔色を悪くしている。きっとわたしもそうなのだろう。


 無表情のように見えて、その瞳は明らかに怒りの色に染まっていた。鋭い眼差しに息が出来なくなる程に。


「フィーネちゃんに会いにいくとか、やめてくれるかな。その口振りだと、どうせくだらない事でも言いに行ったんだろうけど」

「で、でも……! レングナーさんに付き合ってたら、ジル先輩は自由にならないじゃないですか! 私のこと、見てくれない!」

「どうして見なきゃいけないの。僕はフィーネちゃんに強制されているわけじゃなくて、彼女と一緒に居たいって自分で思っているんだよ。外野にとやかく言われたくない」

「そんな……」


 はぁと大きな溜息をついたジルの目がすがめられる。その瞳で見つめられているのはわたしじゃないのに、恐ろしくて心臓が早鐘を打った。


「僕達の時間を邪魔しないで、さっさと消えてほしい。これでも結構怒っているんだ」


 顔を青くしたナンシーさんが唇を震わせている。何かを伝えたいのに言葉にならないようだった。そんな彼女の腕を支えるようにして、連れの女性が何度も頭を下げながらこの場を離れていった。

 周囲に目を向けると、多少の騒ぎになっていたのか、こちらへ視線を向けている人達もいる。気にしていないとばかりにワインを飲んだけれど、先程までの芳しい甘さは飛んでしまっていた。


「フィーネちゃん」

「……はい」


 名前を呼ばれているだけなのに、威圧されているように感じられる。

 思わず肩を跳ねさせると、くつくつと低く笑われてしまった。整った顔立ちが、優しい笑みを浮かべていた。


「バルシュさんのこと。何で教えてくれなかったの」

「なんとなく言い出せなかったっていうのもあるけど……まぁ、いいかなって」

「良くない。嫌な思いをしたでしょう?」


 スプーンを手にしたジルが食事を再開する。それにつられるようにわたしもスプーンを取って、チキンのトマト煮を食べる事にした。

 口に運んだチキンは冷めてしまっているけれど、口の中でほろりと崩れるくらいに柔らかい。トマトの酸味も程よくて、煮崩れた野菜の旨味も合わさってとても美味しい。……温かいうちに食べられなかった事を、悔やむくらいに。


「しなかったって言えば嘘になるけれど……」

「まさか彼女の言い分に納得したわけじゃないよね?」


 どうしてこの男はこんなにも鋭いのか。

 その瞳が全てを見透かしているようで、目を合わせる事が出来なかった。


「……付き合わせているのかなって、そう思ったのは事実だから」

「なんでそう思っちゃうかなぁ。もっと僕の言葉を信じてほしい。……僕は君の傍にいるって、前にも伝えてる」


 どくん、と鼓動が跳ねた。

 胸がざわめくどころじゃなくて、締め付けられるなんてものでもなくて。まるで嵐の中に放り込まれてしまったみたい。

 心が、想いを自覚・・しようとしている。


「ジルの言葉を疑っているわけじゃないわ。でも……わたしは、あんたに幸せになってほしい」

「君が傍にいなくて、幸せなんてあるとでも?」


 渇いた喉を潤そうとグラスを口に運ぶけれど、いつのまにか飲み干してしまっていたらしい。残っていたオレンジだけがワインに濡れて艶めいていた。


「困らせたいわけじゃない。でも覚えておいて。僕の幸せは、君と過ごすこの時間だってことを」


 ジルがあまりにも真っ直ぐにわたしを見つめるものだから、わたしは頷く事以外に出来なかった。

 何を言えば正解なのか、騒ぐ鼓動を落ち着かせる術も知らないわたしには、何も分からなかった。


 深い紺碧の瞳を見つめる以外に、出来ることなどなかった。溺れるくらいに深い、青の色を。

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