23.美味しい時間
冬ドレスのお披露目から数日が経った。
相変わらず刺繍花の仕様書も山のように積み上がっているけれど、気持ちの余裕が出来てきた気がする。
今後の見通しがあれば、計画も立てやすいからかもしれない。
休息日という事もあって、わたしは部屋で刺繍に取り組んでいた。
これはジルから預かっている魔法布と魔法糸だ。魔導回路を図案として写した布に針を刺していくのは中々に細かくて大変だけど、刺繍花からの気分転換にはちょうどいいほどだった。
写した魔導回路を見ても仕組みはよく分からないが、なんだか綺麗な形だとは思う。
使っている布も糸も特別なものだけれど、刺繍をしたかぎりではいつもと何も変わらなかった。
ジルにはいつも、こんな魔導回路が見えているんだろうか。
適性がなくて魔法を使えない自分には知らなかったものだけれど、ジルの見ているものを共有出来ているのなら少し嬉しい。
大きな布への刺繍だから、出来上がるまであと二日は掛かるだろう。休息日の間にやってしまいたいな……なんて卓上カレンダーを確認した時だった。
机の上に置いてある魔法郵便の送受信箱がきらきらと光を放っている。
強い光が落ち着いて、水晶の上に現れたのは見慣れた青い封筒──ジルからの手紙だった。
相変わらずの丁寧な字を指でなぞってから、封を開ける。
それは今夜、食事でもどうかとのお誘いの手紙だった。
時計を見るともう夕方で、時間を確認したら急にお腹が空いてくるのだから不思議なものだ。
引き出しから押し花の便箋を取り出したわたしは、了承する旨を手紙に認めて送信した。口元が綻ぶ事には、気付かないふりをして。
化粧を終えてほくろもしっかり隠したわたしは、緩く巻いた髪を今日は下ろした。
また外で食べるかもしれないから軽いコートにマフラーをぐるぐると巻いて、防寒対策もばっちりだ。
出掛けてくるから夕食はいらないと母に伝え、バッグを手に外に出る。にやにやとしながら見送ってくれるリーチェの額を指で弾き、いってきますと言いながら扉を開けた。
門を出ると、既に暗くなっている。高い場所にある月は丸く、傍らには瞬く星が寄り添っていた。
「フィーネちゃん」
掛けられた声にそちらを向くと、白炎が揺らめく外灯台の側でジルが待っていてくれた。
「寒かったでしょう? 入ってきたらよかったのに」
「今来たばかりなんだ」
「嘘。鼻の頭が真っ赤よ」
「ええ? おかしいなぁ」
言いながら軽く笑うものだから、わたしもつられるように笑ってしまった。
あのココアを飲んだ夜以来だから久しぶりに会うけれど、いつもと変わらない空気感にどこかほっとした。
二人並んで、運河通りまでの道を歩く。
行き交う人々もすっかり冬の装いだ。この冷え込み方からして、もうすぐ雪が降るのだろう。寒いのは得意ではないけれど、雪が降るのは楽しみでもある。
ジルもジャケットにマフラーを巻いていた。数年前にわたしが編んだマフラーだから、やっぱり今年は新しいものを編もうと決めた。
足元はもう冬用のしっかりとしたブーツで、きっとそれはジルのお父さんの作ったものなんだろうと思った。
「今日は何を食べようかしら」
「外でホットワインもいいんじゃない?」
「いいわね。じゃあワインに合うものと言ったら……」
「合う合わないじゃなくて、いつも食べたいものを頼んでるくせに」
「食べたいものが一番お酒に合うのよ、きっと」
大袈裟に肩を竦めるとジルが低く笑った。
空腹を訴えるお腹を宥めつつ、繁華街へと入る。ここを抜けて運河通りなのだけれど、繁華街の至る所が冬模様の飾り付けでとても賑やかになっていた。
眩しさに目を細めたくなるほどの光飾りは、わたしの心も浮つかせていく。
外で食事をする人達は意外な程に多い。
運河をゆっくりと進む船には豪華な装飾が施されていて、また貴族が夜会を開いているのだろう。もしかしたら【アムネシア】のドレスを着ている人達もいるかもしれない。
汽笛が夜気に溶けて消えていった。
食べたいものを好きに買ってきたわたし達のテーブルには、様々な料理が並べられていた。
鶏肉のトマト煮、牡蠣と蕪のソテー、ほうれん草のキッシュ。どれも湯気が立ち上っていて、それだけで美味しそうに見える。
ロゼのホットワインを買ってきたジルが席に着いて、グラスをひとつ差し出してくれた。底がころんと丸まった可愛らしい木製グラスには、オレンジとリンゴが沈んでいるのが見える。
湯気と共に立ち上る甘やかな香りが芳しくて、わたしの頬は綻ぶばかりだった。
「美味しそう。いただきます」
両手を組んで感謝の祈りもそこそこに、取り分けて貰ったほうれん草のキッシュに向き合った。一口分を切り分けたフォークに、サクサクっとした軽やかな音が伝わってくる。
口に運ぶと広がるのは卵の甘さと、ほうれん草やベーコンからの塩気。しっかりめの味付けなのがよく合っていて、とても美味しい。
「うん、美味しい」
ホットワインのグラスを口に寄せると、強い酒精に少し噎せそうになってしまう。
ゆっくりと口に含むと、果物の爽やかさが口の中をすっきりとさせてくれるようだった。
「この牡蠣も美味しい。もうそんな季節なんだねぇ」
ソテーされて綺麗な焼き色がついた牡蠣を食べながら、ジルがひとり頷いている。火を通した事でぷっくりと膨らんだ大ぶりの牡蠣があまりにも美味しそうだから、わたしも牡蠣を取り分けた小皿へと手を伸ばした。
「秋冬は美味しいものがいっぱいだから幸せだわ」
「じゃあ春夏は?」
「美味しいものがたくさんあって幸せ」
当然とばかりに口にして、二人で笑った。
気安いやり取りに心が弾む。弾んだ心がぎゅっと締め付けられるのは……だめ。これを認めたら、きっともう後戻りできなくなってしまう。
だからもう少しだけ。
この関係を壊さずに、死から遠ざかっていたい。
そう思うと頭に響いてくるのは、
『未来を怖れないで』
胸の奥が痛む考えは遠くに追いやって、きつね色に焼かれた蕪を食べる。表面はカリッとしているのに、中はとろりと柔らかい。甘さが引き立つ焼き方に、これはワインが進んでしまいそうだと思った。
そうっと口に運んで、果物からシナモンへ香りが広がっていくのを楽しんだ。強い酒精にくらりと酔いが回ってしまうようだけれど、やっぱりワインが良く合っている。
小さなフォークを手にして、ワインに沈むリンゴを取ろうとした時だった。
「ジル先輩!」
ワインよりも甘い声。
振り向かなくてもそれが誰のものなのかは分かっている。
「偶然ですね! ナンシーもご一緒していいですか?」
ピンク色に染まったリンゴは、酸味や甘味がワインに出てしまっているのかもしれない。しんなりとしたそれを食べながら小さな溜息も飲み込んだ。
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